父
ひと駅離れた場所に住んでいた両親が、私の自宅から電車で2時間かかる場所へ『終の棲み家』と引っ越したのは、長女が誕生した29年前だった。それから両親が我が家を訪ねてきたことは1度もない。
一人っ子だった私に3人の娘ができた。母が「狭い家を訪ねても落ち着かなくて居場所がない、と言うのよ」と父の言葉を代弁していたことがある。子守などさせられるのはごめんだ、というのが父の本音の理由らしかった。
娘たちが幼い頃は夏休みや正月ごとに家族5人で実家へ帰省したものだが、ニコリともしない父は『笑わないおじいちゃん』と恐れられていた。
私が小学生の頃、父は私を叩いたりすることはなかった。しかし私が泣くと「泣くな」と叱り、口答えしようものなら「言い訳するな」と一喝した。機嫌のいい父の記憶は少ない。父が珍しく冗談を言うと、そんなに可笑しくないのに私も笑って見せた。父がほんの少し笑うだけでほっとした。
もっと笑顔でいれば、娘たちも父に近づいていくのに。私はいつもそう思っていたが、父は笑わないことでバリアを張っているようだった。
娘たちの通っていた小学校では4年生になると、自分たちのおじいちゃんやおばあちゃんから『昔の遊び』について話を聞いて発表する、という課題があった。長女にその課題が出たとき、話をしてくれるよう私は父に頼んだ。
数日経って、父から分厚い封筒が郵送されてきた。
開封してみると原稿用紙が30枚ほど入っている。『第1章 第1節』という目次から始まっていた。論文じゃあるまいし、と私は苦笑いしたが、父がこのようにまとめた理由を読んでさらに唖然とした。
『下の2人にも同じ宿題が出るだろう。同じことを何度も聞かれるのは手間なので、1回で済むようにまとめました。この原稿を好きに使ってください』
いかにも父らしいやり方だ。しかし、一般的に昔はこんな遊びをしていたという話でまとめられていて、父自身がどのように遊んでいたのかがわからない。
気になった私は夏休みに帰省した時に、そのことを父に尋ねてみた。
「楽しいことは何一つない。焼け野原で焼夷弾を拾って遊んでいた」
父は口早に吐き捨てた。父が10才を迎えた1945年は終戦の年だった。
「それから、おじいさんはいきなりちゃぶ台をひっくり返す人だったからな、嫌いだ」
自分の父親をおじいさんと呼ぶ言葉が、憎々しげに響く。
これ以上、話を聞いてはいけないのかもしれない。私は「ふうん」と言ったきり、口をつぐんだ。
急に衰えを感じるようになった両親は今年、父が85才、母が86才になった。
5月の連休、私は3週間ぶりに実家を訪れた。
リビングへ入り父に挨拶をしたが私の声が聞こえていないのか、椅子に座ったまま仏頂面で返事がなかった。
「来たよ。こんにちは」そばまで行き、もう一度声をかける。
「ああ」とだけしか返事が返ってこなかった。
昔から父と私は会話が続かない。最近では余計に話が途切れがちだ。話の接ぎ穂を見つけそこなった私は、仕方なくキッチンに立つ母の横へ行き、尋ねた。
「先週は病院へ行ったんだよね。変わりない?」
母はここ数年、家から1時間以上かかる大病院へ1カ月に1度通院している。
「あら、カレンダーはどこ? そこに書いてあったはずだけど」
母は自分の予定を確かめようと、冷蔵庫の横に吊ってあるはずのカレンダーを探している。
最近の母は物忘れが多くなった。昨年までは冬生まれの夫や長女の誕生日に欠かさず、お祝いが送られてきた。今年はそれがなかった。3月に実家を訪れた時、私は翌月の母の誕生日と、母と1日違いの三女の誕生日に『バースディ』とカレンダーに書き入れ、丸印をつけておいた。
「ねえ、カレンダーはどこに行っちゃったのかしら」
母はキッチンからカウンター越しに、リビングにいる父に声をかけた。
「そんなものはないっ。外したっ」
背中を向けていた父がいきなり声を荒げて、私の方へ向き直った。
「勝手に落書きするなっ。そうやって我々の予定の管理するのかっ」
父の言葉はいきり立ち、錐になって私の胸を刺す。
『落書き』とは、私がカレンダーに書き入れた文字や印のことらしかった。
たとえ娘の私であっても、父にとっては我が領分を荒らす許しがたい行為なのだろう。
「そんなつもりでは…」私は反論しかけて止めた。
父に言い返しできずに泣きじゃくる幼い私を思い出す。
彼は昔から変わらない、仕方ないね。最近はもっと頑なになってしまったよ。
私は幼い日の自分を抱きしめた。
「コーヒー、飲むか」
10分ほど経つと何事もなかったかのように、父が尋ねる。
「うん、飲む飲む。うちのコーヒーは美味しいものね」
私は務めて明るく笑って答える。
「うちで使っている粉は、グラム1400円のキリマンジャロだ」
父はむっつりとして、震える手でコーヒーを点て始めた。
(『月刊ふみふみ vol.18 ~ 赦し ~』初出 2020年6月)
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