跡形(あとかた)
私は静かな住宅街の一角にある音楽喫茶に向かっている。ラジオの気象ニュースでは木枯らし1号が吹いたと報じられていた。通りがかりの家の庭先では、紅葉の終わった桜の赤茶色の葉っぱたちが風に揺れている。
今日は昔の恋人の修一に会いに行く。彼は20年の結婚生活に終わりを告げた私の近況をどこで知ったのだろうか、久しぶりに会わないかと連絡を寄こしてきたのだ。
修一は音大の同窓で、彼の専攻はチェロ、私はピアノだった。修一は私が初めて本気で好きだと思った男だ。彼が奏でるチェロの音は滑らかな緋色のビロードのようで、その音をいつまでも全身にまとっていたいと思うほどだった。
彼に抱かれる時、よく冗談で「修一のチェロになりたい」と甘えた。「チェロは私より長い時間、修一に抱っこされてる。私も負けずにいい音出すもん」と拗ねてみせたりもした。「楽器に嫉妬するなんて変な奴だな」と修一は笑いながら、私を抱きしめてキスをしたものだ。
大学卒業後、修一の海外留学を機に別れを告げられた。留学先で新しい恋人ができたらしい。修一のことは別れても好きだった。その後、私は小さな音楽教室のピアノ講師をしながら、30の歳に結婚した。
待ち合わせ場所の喫茶店の扉を開けて中へ入ると、静かなピアノ曲が聞こえてきた。こじんまりとした店で10席ほどのカウンター席奥に客が2人、窓際の席に黒いセーターを着た中年の男が1人座っていた。その男が修一であることはすぐにわかった。
「久しぶり」少し緊張しながら、私は彼の向かいの椅子へ座った。
メニューに目を走らせながら、それとなく修一の顔を見る。年月の分だけ皺が増え、若い頃より痩せている。少しくたびれているように見えた。
修一の前にはすでに珈琲カップがある。「同じものを」と私は手をあげて、カウンター奥に声をかけた。
修一は自分から会おうと誘ったくせに言葉少なだ。私は間を持たせるために「最近はどうしているの」と話を促す。
珈琲豆を挽く香ばしい匂いが鼻先をかすめた。
「俺はずっと独身だよ。帰国してからはオーケストラで仕事をしている」
修一はそこまで言うと「現実はなかなか厳しいな。同居のオフクロが呆けてきて、手を焼いているんだ」と声を落とした。
私はその声に彼の日常生活の大変さを思った。
それにしても、なぜ彼は今さら私に連絡を寄こしたのか。話がしたかっただけなのだろうか。
それぞれに色々あるわね、と私は相槌を打ちながら自分の話をした。
「夫は音楽に興味がない人で、私の仕事を理解しようとしなかったの。結局、夫の浮気がわかって別れることにした」
あなたのチェロの音を思い出してずっと自分を慰めていた。私はそう言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
「お待たせしました」私の前に置かれたカップから、湯気と一緒に珈琲の香りが立ちあがる。修一と私の間にまた沈黙が漂った。
言葉の間を埋めるように店内に別の曲が流れ始めた。
学生の頃、二人でよく合わせたチェロとピアノの二重奏曲だ。
「この曲、覚えている?」私は懐かしい旋律を耳で追った。
「ああ」修一は頷いた。
ピアノが艶やかなチェロの旋律に絡みながら、リズムを刻む。そのリズムに乗せて、チェロが縦横無尽に駆け回る。チェロとピアノの音がお互いを優しく愛撫するかと思えば、ともに激しく高揚する。
私たちは黙ったまま、それぞれ珈琲カップを口に運んでいた。
曲が終わって、カウンター席の客の話し声が聞こえてくる。修一は「また会ってくれないかな」と私の目を見た。
クリスマス近くになって修一から食事に誘われた。
ディナーはリーズナブルで味もいい、という評判の店を予約してくれていた。私は渋めの赤い色のワンピースを選び、いつもより少しだけ派手めのメイクをして出かけた。
食事は評判通りに美味しく、修一はお酒が入ったせいもあるのか先月会った時より饒舌だった。
「君に別れを告げたのは、君を幸せにできるかどうか、あの時の俺は自信がなかったんだ」
私はグラスに残った赤ワインを飲み干すと、何も言わず修一の酔いで紅潮した顔を見つめていた。
自宅のバスタブは大きい。湯船の縁に頭をのせると伸ばした身体が湯に浮かぶ。
昨夜、私は食事のあとで誘われるまま修一とホテルへ行った。修一と身体を重ねても私の身体は固いまま。あの二重奏曲を奏でるように一緒に感じることはできなかった。
湯に浸かる乳房の上に目線を走らせる。両方の乳房に紅い花びらのような跡が2つ3つと付いている。私は花びらの上に手を添えた。
大学生の頃は付けられた紅さが消える前に、次の花びらを重ねていた。
乳房の上に両手を置いたまま、股間の毛に白いものが混じる下半身を見やる。昨夜のことを思い返しても、私の身体の芯は熱くならない。
あと数日すれば、この紅い斑点たちは完全に消えるだろう。
私は湯船から上がると、石鹸のついたタオルで勢いよく身体をこすりはじめた。
(月刊ふみふみ vol.16 ~ 恋愛 ~ 2020年2月 初出)
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