ソクラテスは笑う。#13
4章,神の仔羊②
帰りの車の中は、冷たい沈黙が流れていた。
モニカは助手席に座って、一度も後部座席の方へは振り向かず、黙って前を向いたままだった。カンサは、自分が下手に説明をしない方が良いと思い、事件の事については口を出さずにいようと思っていたが、他に良い話題も思い浮かばず、ピリピリと痛い空間の中を黙って耐えていた。
カンサがチラリと隣に座っているレイに目をやると、レイはニヤニヤと笑って、腕を組んで窓の外を眺めていた。ショーン司祭は、この空気に気づいているのかいないのか、町へ行く時と何も変わらない様子で、黙々と運転をするばかりだった。カンサは小さな溜息をついて、窓の外に目をやった。
『今夜か、遅くても明日の朝には教会を出るしかないな・・・。』
自分達は教会の人間ではないにしろ、モニカと一緒にいるところを、既に多くの町の住人達に知られてしまっている。教会に世話になっている人間が、人に危害を加えたとなれば、教会側もその人間の滞在を、許すわけにはいかないだろうと、カンサは考えた。
『あの町にも行きにくくなってしまったな…教会を出たらあの町を飛ばして、その次の町に行くか……。』
レイが殴ったあの青年が、その後モニカとどうなったのか、あれ以来一言もモニカが口を開かないので、カンサには分からなかったが、青年の身体自体はレイもかなり手加減した様子だったし、その後も青年が笑顔で振り向いていた事から、心配はいらないのだろうと、その部分だけは安心していた。
『俺達が教会を追い出されるだけで、モニカがあの青年と今後も交流が持てるなのら、それで良かったのかも知れない・・・。』
カンサがそんな事を考えている内に、車は教会の門の前でゆるやかに停車した。すると、モニカは少し顔を横に向け、カンサとレイに向かって話しかけた。
「お二人には少しお話がございますので、ダニエル司教の部屋で待っていて下さい。」
落ち着いた声であったが、目線は下を向き、カンサとレイに目を合わせない様にしてモニカは言った。
「はい、分かりました。」
カンサがそう言って返事をした後、カンサとレイは車から降りた。2人が降りると、車は緩やかに発車し、教会の裏へと向かって行った。
「明日の朝には、この教会を出ないとな。……こんなつもりじゃなかったが、恩を仇で返す様で心苦しいな。」
カンサが走り去る車を見ながらそう言うと、レイは相変わらずニヤニヤと笑いながら言った。
「立派な恩返しだろ、何で仇になんだ?追い出されるいわれはねぇだろ。」
「俺達とあの男性以外は、何があったか事実を知らないんだ。俺達は町で暴行事件を起こした危険人物だ。恩返しをしたなんて、誰も思うわけないだろ。」
「そりゃお前のいつもの憶測だろ、お前は憶測の才能はねぇから諦めた方がいいぞ。好きなのに気の毒だがな。」
「……。」
それから、カンサとレイは黙って司教の部屋へと向かった。カンサが部屋のドアをノックすると、中からどうぞという司教の声がした。自分達を快く迎えてくれたダニエル司教を、喜ばせる報告が出来ない事が、カンサの心を重くさせた。ドアノブを握り、扉を開いたが、その扉はやけに重く感じられた。
部屋に入ると、柔らかな温かい空気がカンサを包み、心地よい薪の燃える香りが部屋に立ち込めていた。ダニエル司教は机に座ったまま、部屋に入ってきたカンサ達を見ていた。司教の淡いグレーの瞳が、穏やかにそして真っ直ぐに、カンサの目を捉えていた。
「ど・ど・どうされましたか・・・な?」
低く、落ち着いた優しい声で、司教はカンサに言った。
「あの、ダニエル司教。俺達は……その…貴方に謝らなければなりません。俺達は、モニカに良かれと思って、やったことですが…結果的に、貴方とこの教会の名を汚す事になってしまったかも知れません。…本当に、申し訳ありません。」
カンサの言葉に、ダニエル司教が不思議そうに首を傾げていると、カンサの後ろから、足早に階段を昇ってくる足音が聞こえてきた。部屋に入って来たのは、やけに落ち着いた表情をしたモニカだった。モニカは静かに部屋の扉を閉めると、カンサ達とは目を合わさず、カンサの横をすり抜け、ダニエル司教の前に立った。
「ダニエル司教、大切なお話があります。カンサ様とレイ様が、町で大変な事をしてしまったのです。」
「い・い・一体……な・何があったと……い・い・言うのかな?」
ダニエル司教は心配そうな表情で、モニカにそう言うと、モニカは目を瞑り静かに一度深呼吸をすると、しっかりとダニエル司教の目を見て、落ち着いた様子で話し始めた。
「レイ様が、町で男性の腹部を殴りました。幸いにも大事には至らず、男性は病院には行かなくていいと言っていましたが、お話を聞きますと、その男性が仰っしゃるには、町でレイ様とその男性がすれ違った際に、男性の肩がレイ様の腕に当たり、男性はその時急いでいたので、つい謝らずに先を急ごうとした為、口論になり、怒ったレイ様が男性の腹部を殴ったそうなのです。男性は、全面的に自分が悪かったと、謝罪しておりましたが、これは大変な問題です。」
この話を聞けば、どう考えてもレイの人格に問題があると、カンサは黙って聞きながら思った。モニカの発言に、ダニエル司教よりも早くレイが口を出した。
「本人が自分が悪かったつってんだから、何も問題ねぇだろ。」
『最悪だ・・・。』
更に決定的な、追い打ちをかける様なレイの発言に、カンサは頭を抱えた。この態度がレイの計算なのか素の状態なのか、カンサには分からなかった。レイの言葉に、モニカはキッと激しい目でレイを睨むと、少し声を大きくして、咎める様にレイに言った。
「どんな理由があろうと、人に暴力を振るうなど許されない行為です!!良い人だったから良かったものの、町中の騒ぎになっていてもおかしくなかったのですよ!そうなれば、ダニエル司教とこの教会に、どれ程の汚名が着せられる事か、分かっていらっしゃるのですか?!」
「そうか?俺は必ずしも、“どんな理由でも”暴力がいけねぇ事だとは思わねぇがな。その殴られた本人は、俺に恨みごとの1つでも言ったのか?」
カンサは2人のやり取りを見ながら、レイの態度が自分に対しても、これがいつもと同じ様な状態なのだろうか?と、初めて客観的にレイを観察して思っていた。自分と対峙している時は、かなり挑発的に映るレイの態度が、客観的に見ると、思った以上にレイは落ち着いていて、むしろ相手を諭している風にさえ見えた。余裕しゃくしゃく感を感じる事には違いないが、今まで自分が感じていた様な、意地悪い印象が全く無い事に、カンサは驚いていた。
『本当に人を斜に見たことも、あざ笑ったことも、あいつには無いのかも知れない。』
カンサはそう思い、自分の方がレイに対して偏見があったのではないかと考えていると、レイの発言に、みるみる表情を変えていくモニカを見て、モニカも今までの自分と同じ事を、レイに対して思っていることが、カンサには見て取れた。
「一体、貴方は何を仰っているのですか?恨み言を言わなかったのは、彼が善良な人だったからです。貴方は、人の良心につけ込んでいるのですよ!」
「善良ねぇ。何の利益も無しに、人が善良になることは有り得ねぇだろうがな。」
レイのこの言葉に、カンサの目から見ても、モニカの頭にカッと血が上った事が分かった。明らかにモニカが取り乱し始めたのを感じて、カンサが仲裁に入ろうと口を開いた時、レイが誰からも気付かれない様に、カンサの背中の服をピンッと引っ張り、カンサはレイを見ながら口をつぐんだ。
「世の中には、見返りを求めずに善良な行いをする方達が、沢山いらっしゃいます!その方達の名誉を汚す言動は許しません!!」
レイは笑顔のまま腕を組むと、余裕の態度でモニカに応えた。
「悪役になりたくない、良い人だと思われたい、敵を作りたくない、面倒な事に巻き込まれたくない、そういう自分でありたい、その他諸々、自分の行動の見返りの目星は、それぞれがつけてると思うがな。そういう事も考えてないとすんなら、そりゃ“人間から”の見返りを求めてねぇって話だろ。善行は己や人の魂の救済なんだろ?って事は、善行の見返りの請求書は、神に送ってるって事じゃねぇのか?“神から”の見返りも求めねぇってんなら、一体誰に救済して貰うつもりだ?」
ぐっと、モニカは言葉を詰まらせた。しかし、彼女の燃える様な瞳は、じっとレイを捉えて離さなかった。モニカの目を見て、レイはニヤリと笑うと再び口を開いた。
「“善人”ってのは、自分に対して善い人間の事だろ。自分を幸せにする為の、考えや行動を選択できる奴の事だ。例え、自分にとって辛い選択であったとしても、それを自分の為に決断するって事が“善行”なんじゃねぇのか?本当に無益に人に良くしてやる奴がいたとすれば、そりゃただの、人にとって都合がいいだけの人間だ。自分の魂と、人生の時間を浪費する愚か者だ。お前は、自分が助けてやった奴を、愚か者にすんのか?」
「貴方は……貴方は一体、何を仰っているのですか?…自分の考えのみが正しいと思っているのですね。それは、傲慢です!!」
モニカは気丈に背筋を伸ばして、レイと対峙していたが、その瞳は動揺で左右に小刻みに揺れ、体は小さく震えていた。カンサは見るに耐え切れず、レイを連れて部屋に戻ろうと口を開いた時、ダニエル司教がスッと片手を上げた。
「お・お話は…大体わ・わ・分かりました。……お・お二人のこ・事については……後ほど……お・お話させてい・頂く事に……い・致します。」
ダニエル司教は穏やかにそう言って、モゴモゴと口を動かした後、モニカの方へ顔を向けると、
「モ・モニカ……済まないが、わ・私の……ブ・ブランケットを、と・取って来て……く・くれないか。」
「はい、直ぐに。」
モニカはそう言って、直ぐに部屋の奥にある洋服ダンスの方へと向かって行った。
「……それでは、俺達は部屋に戻ります。」
カンサはそう言って、深く頭を下げた。どんな理由であれ、ダニエル司教を困らせる結果になった事に、カンサは申し訳無い気持ちだった。カンサが頭を上げた時、正面に座っていたダニエル司教は、カンサにニッコリと笑ってウィンクして見せた。
「!!」
カンサは一瞬目を丸くしたが、モニカに気付かれない内に、素早く部屋を後にした。
『あの会話で、俺達の意図を理解したって事か?!』
カンサは驚きの色を隠せない表情で、石の階段を降りていた。カンサの後ろから軽やかな足取りで、階段を降りるレイの足音が聞こえて来た。
「話の分かるじいさんで良かったな。」
ニヤニヤと笑いながら、レイがカンサの背中に向かって言った。カンサはブルーのベルベットのカーテンを開き、扉を開けて教会の中に入ると、後ろを向いてレイに話しかけた。
「お前にそのつもりが無くても、相手にはお前の態度がかなり挑発的に見えるんだ。それは、お前も分かっているはずだ。あんな事を言えば、余計に話がややこしくなるだろ。何故、相手を怒らせるような事ばかり言うんだ?」
カンサの言葉に、レイは面白そうに笑い、顎を上げて腕を組みながら言った。
「俺は別に、あいつを怒らせようと思って言ってた訳じゃねぇぞ。あいつが、本当の事を知りたくねぇってだけだろ。自分に都合の悪い事を言う奴に、腹立ててるだけだ。」
「人は、自分に得の無い善行はやらないという話か。」
カンサは苦い顔をして、教会の出口の方へと歩き始めた。レイはカンサの後ろを歩き、ニヤニヤと笑いながらカンサに言った。
「違ぇのか?」
カンサは前を向いたまま、小さく首を左右に振りながら言った。
「………分からないな。事が大きければ、そうだろうと俺も思うが、日常の些細な事だと、そこまで自分が考えてるとは思えない。目の前で、誰かが困っていれば手を貸してやりたいと思う。それが、自分にとって簡単な事であれば尚更の事。だがその時に、その人から何か見返りを期待したり、周りにいる人から自分を良い人に見られたいとか、神に今の自分の善行を見ていて貰いたいなんて事を思って、手を貸すとは思えない。」
2人が教会を出るとすっかり日は傾き、周囲は薄暗く、肌寒い空気がカンサを覆った。部屋までの回廊を歩きながら、カンサが再び口を開いた。
「いい事をすれば、気持ちがいいからじゃないのか?何の打算も無く、相手が笑顔になれば、自分も嬉しいと思うから、いい事をしたいと思うんだろ?」
カンサはそう言いながら、部屋の扉の前でレイの方へと向き直った。レイは穏やかな笑みを浮かべていた。そして笑顔のまま、少し首を傾げてカンサに言った。
「俺は、得を考える事が悪いって言ってるんじゃねぇ。お前やあいつは、自分の得を考えるっつうと、直ぐに悪い方に考えるみてぇだがな。お前の言うその、相手の笑顔が見たい喜ばせたいっていうのも、自分にとっての得だって事だ。自分が喜びたい行動が、相手を喜ばせる事になってんだろ。逆も然りだ、人が自分の為にやった事が、お前の為になってるはずだ。俺は、それを“善行”って言うと思うがな。人の為だけの善行なんて事が、この世にあんのか?人の為の善行をやってるって認識の奴の方が、よっぽど傲慢だと俺は思うがな。」
レイはそう言って、カンサの横を通り、部屋の扉を開け中に入って行った。カンサは考え深げな表情で、少し立ち止まっていたが、やがて部屋の中へと入って行った。
部屋に入ると、レイは自分のベッドの上で、ヘッドボードを背もたれに、両手を頭の後ろに組み、足を組んだ状態で座っていた。カンサは隣の自分のベッドに腰を下ろすと、うつむいたままレイに話しかけた。
「前に、俺の過程にシドウとジェンナの死が、交差しただけだと言ったな。……俺のやった事で、2人は何か得られるものがあったと思うか?」
レイは片眉を上げ、呆れた様な表情でカンサに言った。
「俺はお前に言ったはずだぞ、本人の口から“楽しかった、会えて良かったありがとう。”っていう伝言をな。もう1人の方は、お前が何も分からなかったってんなら、お前は救いようのねぇバカだって事だな。」
カンサは目を大きく開いて、呆然とレイの顔を見ていたが、突然黙って立ち上がると、足早に洗面台のある部屋に入り、扉を閉めた。レイは両眉を上げニッと笑うと、フンッと一度鼻から息を吐いてそのまま目を瞑った。
カンサは後ろ手に扉を閉めると、そのままズルズルと扉に背中を引きずって、床に座り込みながら、声を殺して泣いていた。何も出来なかった自分が、自分の弱さや愚かさに気付く為に、犠牲にしてしまった命と思っていたものが、自分のやった事で、彼等に何かを与える事が出来ていたのかと思った時、カンサの目から涙が溢れていた。
『俺と出会って、楽しかったと言ってくれるのか……俺と出会って良かったと言ってくれるのか!!!!』
カンサは、自分の中に溢れるものが何であるのか、言葉を付ける事が出来なかった。喜び・感動・感謝・悲しみ・謝罪・悔しさ・怒り・無念・安堵…。あらゆる感情がカンサの胸の中で混ざり合い、カンサはただただ、涙を流す事しか出来なかった。彼等の心を、自分が少しでも救う事が出来ていたという事が、カンサの心を救った。
しばらくして、カンサが少し落ち着きを取り戻そうとしていた頃、部屋の扉をノックする音が聞こえ、扉が開く音がすると、直ぐに扉が閉まる音がした。カンサの方に近づく足音が聞こえ、洗面台の部屋の扉をドンドンドンドンッと激しく叩きながら、レイの声が響いた。
「おい、引き籠もり!出てこい。晩飯が出来たとよ。」
「……すぐ行く。」
カンサは急いで顔を洗い、鏡に映った自分の顔を見た。久しぶりに見た、自分の顔であった。やつれ、目の周りは窪み、顔色は蒼白で、白目は真っ赤に充血し、黒目に光は無かった。
『ひどい顔だ……。』
再び数回顔を洗い、カンサは部屋を出た。ベッドルームに戻ると、レイの姿は無く、外に出るとレイが赤い月を背にして、カンサの方を向いて立っていた。
「悪い、待たせた。」
カンサがそう言って、レイに向かって歩み寄ると、レイはくるりと向きを変え、カンサに背を向けて歩き始めた。
「お前は、自分の失敗にばっか目を向けて、相手が何を感じて、どう思ってるかはお構い無しだ。そのクセ口に出すのは、相手を気遣うようなセリフばっか吐きやがる。お前がやってんのは、相手を気遣う“フリ”だ。」
カンサに背を向けたまま、食堂に向かう足を止めずに、レイがカンサに言った。カンサはレイの背中を見ながら応えた。
「そうだな、確かに。……その通りだ。」
2人が食堂に辿り着き、中に入るとまだ他の人達は来ておらず、食堂にはカンサとレイの2人だけだった。カンサが扉を閉めると、その音を聞きつけてシスター・ハンナが、食堂の奥から足早にやってくる音が聞こえた。
「お二人共!あんな立派な食材を、本当にどうもありがとうございます!今日のディナーは大ご馳走ですよ!!腕によりをかけて作りましたからね。さぁさぁ、席にお座りになって、もうすぐ皆さんもお揃いになると思いますよ。沢山召し上がって下さいね!」
そう言って、輝くような笑顔でシスター・ハンナが2人を出迎えた。カンサは、自分達が町で何をしたかは、既にシスターの耳にも入っていると思っていたので、シスターの予想外の反応にカンサは戸惑った。
テーブルには、まるでクリスマスさながらに、縦長のテーブルに色とりどりの料理が、ひしめき合う様に並んでいた。アイスワインのアペリティフ・生ハムとリコッタチーズとハーブのカナッペ・アスパラガスのスープ・ミモザサラダ・ローストビーフ・イサキの包み焼き・ラム肉のソテー。
「凄いですね…ありがとうございます。」
カンサがシスター・ハンナに礼を言うと、シスターは笑顔のまま、何度も首を横に振りながら言った。
「とんでもありません!お礼を言うのはこちらの方です。ショーン司祭から食材と財布を受け取って、それぞれの中身を確認した時、わたくしがどれ程驚いた事か!!」
「…あの、町での俺達の事は、聞いていないんですか?」
カンサは声を落としてシスター・ハンナにそう言うと、シスターはキョロキョロと周囲を見渡して、モニカがまだ来ていない事を確認すると、まるで少女の様ないたずらっぽい笑顔で、つやつやと光る赤いりんごの様に頬を染めて、ヒソヒソとカンサに耳打ちした。
「えぇ、町でのお話は司教様から、おおよそのお話は伺っていたのですが、わたくしが司教様のお部屋を出た丁度その時に、聖堂の横の執務室の電話が鳴ったのです。電話の声を来た時に、わたくしは直ぐに例の男性であると気付きました!モニカさんに替わって欲しいと仰ったので、わたくしがシスター・モニカを呼びに行ったのです。フフフッ…わたくし、もう10年程シスター・モニカと共に、この教会におりますが、初めてですよあんな笑顔の彼女を見たのは。」
その話を聞いて、カンサの顔がパッと明るくなると、シスターも瞳を輝かせ、互いに顔を見合わせながら、うんうんと頷いた。
カンサとレイが並んで食卓に着き、他の人達が揃うのを待っていると、ショーン司祭が食堂に入って来た。扉を開ける音も無く、閉める時も、テーブルに向かって歩いて来る時も、一切が静かで音がなく、ショーン司祭を目視していなければ、まるでショーン司祭が突然目の前に現れたかと思う程、音も気配も感じ取れなかった。
「この上なく生きる気力を失ってるか、はたまた何かの達人か、どっちにしろ半端な奴じゃねぇ事は確かだな。」
ショーン司祭を目で追いながら、小声でレイがカンサに言った。
「普通の青年だ、ただとても物静かなだけだ。」
「お前、眠ってる時あいつが部屋に入って来たら、気付ける自信あるか?」
レイがからかうように笑いながら、ヒソヒソとカンサにそう言うと、カンサは少し眉をひそめてレイに言った。
「俺は訓練しているから、異常には気付ける。お前もだろう、彼をからかうのはよせ。」
ショーン司祭は、カンサの向かいの席に音もなく座り、ずっと黙ったまま空間を眺めるばかりで、微動だにしなかった。まるで、カンサ達が見えていないかの様に、一瞥する事もなく座っている様子に、カンサは少し気まずさを覚えて声をかけた。
「ショーン司祭は、随分お若いですが、いくつの時に教会に来られたんですか?」
カンサの声に、ショーン司祭はスッと真顔のまま、カンサ達の方へ顔を向けた。
「……僕は、10歳の時に両親を説得して、神学校に入学させて貰いました。本来は、神学校は12歳からの入学なのですが、……僕は幼い頃から聖書を手放さず、教会に入り浸りだったものですから、特別入学を許可して頂いたんです。18歳の時に、晴れて司祭になる事が出来ました。」
カンサはテーブルに身を乗り出して、耳をすましてやっとギリギリ聞こえる、というくらいショーン司祭の声は小さく、常人よりもかなり五感を鍛えているカンサでも、やっと聞こえるというレベルで、普通の人ならば、到底聞こえないだろうとカンサは思った。そして、ショーン司祭の目があまりにも空虚で、カンサは正面に座っているにも関わらず、ショーン司祭と目が合っているという気がしなかった。
「……そうですか、とても熱心なんですね。10歳で一生を神に捧げる決意を固めるなんて、なかなか出来る事じゃないですよね。」
「……僕にとっては、不思議な事ではありません。僕の様な人間には、神の力無くして、生きて行くことは出来ませんから。」
カンサは少し首を傾げて、ショーン司祭に質問した。
「“僕の様な人間”というのは、どういう意味ですか?」
「…僕は、幼い頃からこの世が恐ろしくて仕方ないのです。皆さんが普通だと思って、事も無げにやっている事が、僕には恐ろしくて堪りません。でもだからといって、一生部屋に閉じ籠もって生きる訳にもいきません。そんな一生も、恐ろしくて堪らないのです。神にすがって生きるより他に、僕は皆さんが当たり前にやっている生活を送る事、ただそれだけの為の勇気が持てないのです。……僕は神がいなければ、車の運転はおろか、朝ベッドから起きる事すら出来ません。」
「……そうですか、神を心から信じていらっしゃるのですね。」
カンサの言葉に、ショーン司祭は不思議そうな表情を浮かべ、小さく首を横に振った。
「いいえ、僕は、神を信じてはいません。」
「え?!」
カンサは驚きで、目を見開いてショーン司祭の顔を見ると、空虚に見えた彼の瞳が、深淵の色となって、カンサの目を真っ直ぐに捉えていた。
「信じていないと言うのは、どういう事なんでしょうか?」
「神を信じるという行為を、僕は物心ついた時からした事がありません。信じるなんて……そんな不確かな感覚で、僕のこの恐怖心を払拭する事は出来ません。神は確かな存在です。そこに存在して“有る”ものに、“信じる”という言葉は不自然です。」
カンサは乗り出していた身を起こし、暫く黙って頭の中を整理しようとしたが、どうしても理解する事が出来ず、ショーン司祭に質問した。
「…すみません、俺には難しくてよく理解出来ません。神を“信じる・信じない”という対象以外で、考えたことが無かったので。」
カンサの言葉に、ショーン司祭は、自分の手元にあるフォークを黙って持ち上げた。
「…見えますか?」
「はい、もちろん。フォークです。」
「…貴方は、フォークの存在を信じますか?」
「いえ、信じるも何も、そこにありますから。」
そう言った後、カンサは目を大きく見開いて、首を小さく横に振った。
「いや、でも…それは……」
「…そう、“見えて”いますし、こうして“触れる”事も出来るからですよね…。分かっています。」
ショーン司祭はそう言って、静かにフォークをテーブルへ置いた。
「……空気中にある様々なものの存在、光が生み出す錯覚、微生物、ビタミンや栄養素、人間の目では確認出来ないものでも、確かに存在しているもの、それも遥か昔から。…それを、人間は、人間同士でその存在を認めるか、認めないかという議論をしてきました。不思議なのは、人間同士の間で認められれば、この世に“存在する”ということが、正式に認められるという事です。その存在は遥か昔から、この世界に存在しているのに…。僕の父は、数学者でした。父はよく言っていました、“人がこの数式を作ったのではない、既にこの数式は存在していたのだ、人はそれを後から見つけたに過ぎないのだ”と。その数式に“気付いた”数学者は、分かっていた筈です、その数式が存在する事を、そして見つけた。“信じる”という表現は、僕にとってはとても曖昧です。僕は、神の存在を肌で感じて、“知って”います。だから、僕は“信じている”とは言いません。」
「…物心ついた時から、神の存在を感じていたという事ですか?」
「はい…。神無くして、僕が22年も生きていられるはずがありません。明日の朝ベッドから起き上がった途端に、足を滑らせてベッドの角に頭をぶつけて死んだとしても、何も不思議な事ではありません。そうならない奇跡が、僕にはもう22年も続いています。」
カンサは少し眉を寄せ、考え深げな表情でショーン司祭に言った。
「……世の中で、不運に見舞われた人達は、神から守って貰えなかったということですか?」
カンサの質問に、ショーン司祭は真顔で首を傾げながら、カンサに言った。
「…それは分かりません。僕は神の存在を認識し、自分がこの世で無事に生き永らえているのは、神の力以外に無いと知っていますが、僕に神の御心を知る術はありません。神が誰を救い、誰を救わなかったというその理由なんて、まるで神の目線で神の頭の中を覗く様な事は、僕には出来ませんから。」
ショーン司祭が事も無げにカンサにそう言うと、カンサは目を見開いて、何か言おうと口をパクパクさせていたが、言葉が無かった。
「え…いや、……それは、そうですが。」
カンサが再び、ショーン司祭に向かって身を乗り出そうとした時、シスター・ハンナがダニエル司教を支えながら、食堂へと入って来た。
「本当に、どうした事でしょうね?!朝食の時も、夕食の時も司教様を食堂にお連れするのは、いつもシスター・モニカなのに。夕食の時間はとっくに過ぎているのですよ、それなのに、まだ食堂にも来ていないなんて、こんな事初めてですよ!」
シスター・ハンナは大声でそう言いながら、ダニエル司教をテーブルに着かせた。
「何かあったのかも知れません。俺が行って、様子を見て来ます。」
カンサが立ち上がってそう言うと、シスター・ハンナとダニエル司教が、同時に首を横に振りながら手を振った。
「ごめんなさいね、いいのですよカンサ様。わたくしは驚いただけで、何も迷惑には思っていません。電話が長引いているだけなのは、分かっていますから。さぁさぁ、もうわたくし達だけで始めてしまいましょう。せっかくのディナーが冷めてしまっては台無しですからね。」
本気で心配そうなカンサの顔を見て、シスター・ハンナはまるで子供を見る様な眼差しで、笑いながら言った。
「あ、そうですね…。」
カンサはそう言って、静かに椅子に腰を下ろした。すると食堂の扉が開き、モニカが小走りで中に入って来た。
「遅くなりまして、申し訳ありません。」
急いで席に座ったモニカは、申し訳無さそうな顔をしていたが、どこか顔を高揚させて楽しそうに見えた。モニカが揃ったところで、ダニエル司教、シスター・ハンナ、ショーン司祭、モニカの4人がテーブルの上に手を組んで、お祈りの姿勢を取り始めた。カンサはレイの方に目をやると、朝食で経験済みのレイは、慣れた様にテーブルの上に手を組んで目を瞑っていた。カンサも見よう見真似で同じ姿勢をとった。
祈りの言葉は、ダニエル司教が言っていたのだが、全く何を言っているのかカンサには聞こえず、ブツブツと古いレコードから途切れ途切れに、人の声がかすかに聞こえるといった風な様子で、後に続いて祈りの言葉を言わなければならないと、分かっていたカンサであったが、何を言えばいいのか分からず、聞こえるままに同じ様に、カンサもブツブツと口を動かしていた。
「俺の見込んだ通り、半端な奴じゃなかったろ?」
カンサの横で、レイがヒソヒソとカンサに耳打ちした。
「ショーン司祭の事か、確かに。お前が神を“信じてはいない”って言った意味が分かったよ。」
「まぁ、俺がそう言った理由は、あいつとは違うがな。」
レイの言葉にカンサは、はぁ?という表情と共に、目を見開いてレイの方を見たが、直ぐに周りに目を配ると、目を瞑って再び祈るフリに戻った。
「お前の理由は何なんだ?!」
「さぁな、アーメン。メシだメシだ!やっと食えるぜ。」
いぶかる表情でレイを見ているカンサをよそに、レイはガツガツと次々に食べ物を口に突っ込んでいった。
他愛のない会話をしながら、カチャカチャと食器の音が響く中で、ダニエル司教がモニカに口を開いた。
「そ・それで、例の…だ・だ・男性の方の、よ・様子は……ど・どうだったのかな?……モ・モニカ。」
モニカはイサキを食べる手を止め、静かにフィッシュフォークとナイフを皿の上に置くと、顔をダニエル司教の方に向け、柔らかく微笑んで言った。
「はい、痛みも引いて随分良くなったと、仰っていました。大変ご迷惑をお掛けしてしまいましたので、わたくし明日にでも一度、お詫びを込めて、お見舞いに行こうと思うのですが、ダニエル司教よろしいですか?」
モニカの発言に、皆澄ました顔で食事を進めていたが、今にも顔がゆるんでしまいそうになるのを、必死に我慢していた。
「う・うんうん、そ・そ・それがいい。……ぜ・ぜ・是非そ・そうしなさい。」
モニカは嬉しそうに笑うと、ダニエル司教に頭を下げ、再び食事に取り掛かった。
「今のとこ、俺がやったチャンスは、ものに出来てるみてぇだな。」
レイがカンサにそう耳打ちすると、カンサは黙ったまま頷いた。本来なら、お詫びやお見舞いはカンサとレイで行くべきだと、カンサは思ったがあえて提言しなかったし、食堂にいた者も誰一人、その事に触れなかった。
食事が終わり、カンサはシスター・ハンナと一緒に、食器の片付けに取り掛かり、レイは部屋へと帰って行った。次にショーン司祭が静かに食堂を後にし、モニカがダニエル司教を支えながら、司教の部屋へと向かって行った。食堂にはカンサとシスター・ハンナの2人だけになった。カンサが食器を洗い、シスター・ハンナが食器を拭いて片付けながら、2人で今日の出来事や食事についてしばらく話をしていた。シスター・ハンナが笑顔で、カンサをじっと見つめながら、少しの間沈黙していたかと思うと、ゆっくりと優しい声でカンサに話しかけた。
「わたくしはあなた方2人が、この教会に春の風を吹き込んで下さったのだと思っているのですよ。」
シスターの言葉に、カンサは少し驚いてシスター・ハンナの顔を見たが、笑顔でシスターにカンサは答えた。
「俺達の事ですか?とんでもない、問題を起こしただけですよ。」
シスター・ハンナはにっこりと笑って、ゆっくりと首を横に振ると、再びカンサに言った。
「カンサ様、この教会はもうずっと、閉ざされた冬だったのです。過去の栄光は廃れ、人々の足は遠のき、全く同じ毎日が延々と、ただ繰り返されていたのです。…何も起こらないという平和を、神に感謝すべきなのは分かっているのですが。カンサ様、ここはあまりにも過去だったのです。」
「ここが過去というのは、どういう事ですか?」
「……これは、わたくし個人だけの感覚なのでしょうけれど、わたくしにとって、昨日と同じ毎日をただ繰り返すという事は、過去に生きる事の様に思われるのです。毎日が同じサイクルで、ただ日を追って、単調に一年一年が過ぎて行くばかり、わたくしは息が詰まりそうになると、町の祭りや学校の子供達の催しものなどを見に行き、町の人々と交流する事で、何とか心に新しい空気を取り込んで来ました。シスター・モニカの事を、悪く言うつもりはありませんが……あの娘はずっと、昔のダニエル司教の影を追っているのです。そんな、閉ざされた空間の中で、突然大きな窓がパッと開かれた様に、春風が流れ込んで来たと思ったのですよ。」
「そうですか。でも春風なんて…そんな爽やかなイメージでしょうか?」
カンサが照れた様に、少し首を傾げならシスターにそう言うと、シスターは両眉を上げ、笑顔で首を横に振りながらカンサに言った。
「カンサ様、春の風はとても強い嵐の風です。静まり返った、モノクロの冬の世界に、色鮮やかな春の嵐が吹き込んで来たのです。わたくしはそう感じました。今回のシスター・モニカの事も、ダニエル司教からお話を伺った時、どれ程胸が踊った事か!文字通りの春ですよ。」
「……確かに、結果的には良かったので俺も安心しましたが、やり方としては乱暴でした。きっと、他に方法があったはずです。」
「まぁ!カンサ様、荒々しいものが全て間違っているなんて思ってはいけません。新しいものには激しさが付き物です。母が子を産む時も、芸術家が世に自分の作品を生み出す時も、大きな集団の中で、今までの流れを変えなければならない時も、それらは全て荒々しさや激しさの中から生まれるものなのです。決して、全ての乱暴な振る舞いが、良い事とは言えませんが。“変化”には必ず摩擦が生じます、それが荒々しさや激しさを生み出すのです。たとえ、表面上は静かに見えることがあったとしても、水面下では激しい炎が燃え上がっているはずです。」
シスター・ハンナのその言葉を耳にした時、カンサの脳裏に陽の光に煌めくレイの髪が浮かんだ。本物の炎の様に揺らめき、光を放っていた激しい炎の髪。
『確かにそうかも知れないな。……あいつといると、摩擦しか起きない。』
しかし、同時に自分の中で何かが変化し、新しく生み出されていることも、カンサは感じていた。
「……変化には“痛みが伴う”という事でしょうか。」
カンサの言葉に、シスター・ハンナは少し悲しそうな笑顔で頷いた。
「“変化する”という事は、新しいものを手に入れる替わりに、今までの何かを失うという事でもあります。人はずっと、そのどちらも手に入れようと、考えを巡らせて来ましたが、それは人には出来ない事です。“痛み”を恐れて変化を嫌う方もいらっしゃいますが、わたくしはそれでも変化を望みます。例え、何を失ってどんな痛みを受けようと、人はそれを越えて行かなければなりません。」
「……。」
自分の“変化”の為に、2人の命が奪われたのだろうか。と、カンサはシドウとジェンナの事を考えていた。自分の過程と、2人の死が交差しただけだとレイは言っていたが、2人を失う事で自分の中に生み出された“変化”を、カンサは確かに感じ取っていた。まるで、2人の命を犠牲にして、自分が成長している様に感じ、カンサはいたたまれない気持ちになっていた。
モニカがダニエル司教を支え、石の階段を昇り、ダニエル司教の部屋に入った。一日のほとんど全ての時間を、ダニエル司教はこの教会の片隅に設けられた、小さな部屋で過ごしている。元は、祭事の時などの物置き部屋だったものを、この教会に派遣されたばかりの、若いダニエル司祭は、この部屋を改造し住処とした。司教ともなれば、皆立派な部屋で執務を執り行うが、ダニエル司教は常に神と共にある事を旨とすると言って、この部屋で今日まで過ごしてきた。
着替えを済ませ、モニカがダニエル司教の手を取って、ベッドへと誘導し、ダニエル司教がベッドに入り横になった後、上布団を整えながらモニカがダニエル司教に言った。
「明日、お見舞いに伺う男性は、トーマス様と仰っしゃる方なんです。32歳で、町の役所に務めていらっしゃるそうです。大変頭の良い方で、趣味が多くて、最近はよくサイクリングに行くそうなのですよ。これからの季節は気持ち良いでしょうね。それからトーマス様は、とっても面白い方で、初めてお会いした日もそうでしたが、今日のお電話の時も、いつも笑わせて下さるのです。」
モニカは、まるで初恋を母親に語るように、嬉しそうに、気恥ずかしそうに、そわそわと落ち着かない様子で、ダニエル司教に話した。ダニエル司教は笑って、嬉しそうに、そうかそうかと頷いてモニカの話を聞いていた。
「ダニエル司教、トーマス様がわたくしと親しい友人となり、この教会に足を運ぶようになってくだされば、きっと彼も神の素晴らしさに気付き、それを町の人達に伝え、町の人々がこの教会に、集まって来て下さる様になるかも知れません。そうなれば、この教会は以前の輝きを取り戻し、きっとダニエル司教も、また多くの人の前で教えを説く事が出来る様になります。わたくしはそう信じています。」
そう言ってダニエル司教の手を強く握り、力強く頷くモニカを見て、ダニエル司教は顔を曇らせ、悲しそうな目でモニカを見つめながら言った。
「モ・モ・モニカわ・私は…もう、ひ・人々の前で、き・教壇に…た・立つ事をの・望んではい・いない。…わ・私の…望むも・ものは……ただひとつ、あ・貴方の…し・幸せ……そ・それだけなのだ。」
モニカは両手で握っていたダニエル司教の手に、一層力を込め、何度も力強く頷くと、しっかりとダニエル司教の目を見つめながら言った。
「大丈夫ですよ、ダニエル司教。わたくしの幸せは、この教会に再び光が当たる日が来ることです。その望みは、子供の頃から変わっていません。」
ダニエル司教はその言葉を聞くと、ゆっくりと静かに、大きく息を吐き。全身を脱力させ、悲しい表情のまま何も言わずに、静かにまぶたを閉じた。
次の日の朝、カンサは日の出前に目が覚めた。体は既に回復していたが、胸に詰まった重い心は、まだ解決の糸口を掴めずにいた。カンサは1人で部屋を出ると、まだ薄暗く肌寒い、教会の庭へと足を運んだ。蕾をつけ始めたバラや、花弁をほころばせ始めたチューリップ、マリーゴールドやネモフィラなどの色とりどりの花々が、温かい春の訪れを感じさせていた。緑の香りを胸一杯に満たしながら、カンサはゆっくりと庭を歩いていた。ふと、白いマーガレットを見た時、カンサの心にジェンナの顔が浮かんだ。カンサはマーガレットの前でしゃがみ込むと、白い花を見ながら小さく呟いた。
「ジェンナ、俺と会って良かったと言ってくれるのか?俺は君に、喜びや楽しさを教えてやれてたか?……せめて、最後は……寂しく無かったか?」
目頭が熱くなってきたカンサの頭を、風が優しく撫でるように吹いて行った。カンサはしばらくそのまま、マーガレットの花を見つめていると、カンサの後ろから草を踏む足音が聞こえ、カンサは振り向いた。
「お・お邪魔…で・でしたかな?」
パジャマ姿にガウンを羽織った姿の、ダニエル司教が立っていた。ダニエル司教は笑顔でカンサに会釈をした。カンサも慌てて立ち上がり、司教の方を向いて頭を下げながら言った。
「いえ、おはようございます。」
「お・おはよう…ご・ございます。」
「随分早いんですね、まだ夜明け前ですよ。」
カンサの言葉に、ダニエル司教は穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「ハッハッハッ……ゴホゴホッ…な・長い夢を…み・見るのは、わ・若者達の…と・特権です。……私はも・もう、ゆ・夢に…に・肉体が…お・追い付いてし・しまいました。い・今や…い・一日一日が、……わ・私の夢です。」
カンサは小さく頷くと、少し考えて、ダニエル司教に質問をした。
「ダニエル司教、人は死んだ後何処に行くのでしょうか?魂と呼ばれるものが肉体から離れた後、宇宙を巡って、また産まれて来るといのは、本当なのでしょうか?」
ダニエル司教はにっこりと笑うと、ゆっくりと首を横に振りながら応えた。
「わ・私達は…う・産まれる前と、し・死んだ後のこ・事は……わ・分かりません。そ・それは、か・神のみが…し・知っている事です。ひ・人々は…た・誕生と死について……さ・様々な想像をし・してきましたが…、ひ・人が知れる事は、……こ・この先も…な・無いでしょう。ひ・人は……ゼェゼェ……な・永い年月を経て…お・多くの事を…し・知った気でいますが…こ・この世界のほ・・・ほんの一部でしか…あ・ありません。……ゴホゴホッ。し・し・知らない事の方が…は・はるかに多いと、…わ・私は思います。……ハァハァ。」
カンサはダニエル司教の体を心配して、支えようと手を伸ばしたが、ダニエル司教は大丈夫と、数回頷きながら、軽く手を上げて見せた。カンサは初めて、ダニエル司教に地下の世界の事を聞いてみようと思った。何故そんな気持ちになったのか、自分でも分からなかったが、長く生きているこの人なら、何か知っているかも知れないと思った。それに、例え知らなかったとしても、他の人の様に頭のおかしい人間だと思われる事は、この人には無いのではないかと思えたからだった。
「……ダニエル司教、…その、変な事を言うと思われるかも知れませんが、貴方はその…地下の世界をご存知でしょうか?」
ひどく緊張した様子で、カンサはダニエル司教に質問した。どんな表情をされるだろうかと、カンサはつぶさにダニエル司教の顔を見ていたが、カンサの言葉にダニエル司教は、眉ひとつ動かすこと無く口を開いた。
「ち・地下の…も・もう1つの世界なら…し・知っています。」
カンサは目を見開き、無意識に一歩、ダニエル司教に歩み寄りながら言った。
「本当ですか?!」