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ソクラテスは笑う。#12

4章,神の仔羊①


 旅の為に購入した3枚の毛布で、カンサは丁寧にジェンナを包み、レイと2人で掘った穴にジェンナをゆっくりと入れた。ジェンナの為に購入した服や、靴、リボンや帽子、全てをカンサは丁寧にジェンナを包んだ毛布の上に並べ、2人はジェンナの足元からそっと、土を被せていった。

 全ての事が終わった時、2人の正面から朝日が昇り始めた。山の7合目辺りの拓けた場所で、周囲に木々は無く、白いサンカヨウの花が辺り一面に咲き乱れ、カンサ達が朝日に顔を照らされる頃には、朝露に濡れ、花弁がガラスの様に透き通り、幻想的な風景を作り出していた。
 カンサは一言も何も言わず、只黙ってジェンナが眠る場所と、サンカヨウの花々を眺めていた。暫くそこで何も言わず、黙って立っていたが、カンサはジェンナの墓に背を向けると、ゆっくりと歩き始めた。

 カンサは、段々と足を早めていき、黙々と山を下って行く。その後ろから、カンサの背中に向かってレイが話しかけた。

「お前、今何考えてんだ?」

「…別に何も。」

 カンサはレイに背中を向けたまま、歩き続けている。まるで、何かを振り払いたいかの様に、カンサの歩調はいつもよりも随分早かった。カンサ自身も、自分が今何を感じて、何を思っているのか分からずに歩いていた。何かに突き動かされる様に、足の動きを自分でコントロール出来ず、カンサは体に任せて歩いているのだった。

 太陽が真上に登った頃、カンサ達は町に辿り着いたが、カンサは歩調を緩める事無く、町には入らずに森の中を突っ切って歩き続けた。

「おい、町に入らねぇのか?」

「・・・・・・あぁ、このまま進む。」

 ジェンナの墓に背を向けて歩き始めた歩調から、少しも緩めること無く、カンサは早い歩調のまま次の山へと登り始めた。

 無言のままカンサは次々と山を越え、辺りが暗くなり始めても、カンサは足を止めようとはしなかった。

「おい、止まれ!もぉ日が沈んだぞ。」

 レイが後ろからそう呼びかけても、カンサは返事をせず、同じ速度のまま歩き続けていたが、レイが後ろからカンサの腕を掴んで後ろに引いた。

「聞こえてんだろうが!止まれ!!飲まず食わずの眠らずで、塔まで行くつもりか?塔に辿り着く前に死にてぇみてぇだな。俺はそれに付き合うつもりはねぇぞ!」

 レイが掴んだ腕を、カンサは勢いよく振り払おうとしたが、レイはそれを許さなかった。カンサはレイに背中を向けたまま、動かずに言った。

「なら…お前だけ休めばいい。俺は進む。お前なら、後から追いつけるだろ。」

 顔を下に向け、カンサは低く小さな声でレイに言った。

「あ?そりゃ何の遊びだ?そんな事して何になんだ。毎回毎回、自暴自棄になりやがって。根っから無駄な事が好きだなお前は。」

「……そうだな。お前から見れば、俺がやっている事は全て無駄で笑える事だろう……今回の事だって、お前は“余計な事”だと、最初から言っていたんだしな。」

カンサは腕を掴まれた状態で、顔を下に向けたまま、嫌味な言い方でレイに言った。

「だったら何なんだ?」

 レイはそう言うと、カンサの腕を勢いよく横へ振ふった。カンサの足は地面から浮き、転がりながら地面へとなぎ倒された。カンサの背中に木の幹が当たってようやく止まり、背中を強く打った為に、カンサは小さくうめき声を上げた。

「俺が笑ってたら何だってんだ?俺が笑っていようが、泣いていようが、お前が決めた事じゃなかったか?お前、何が言いてぇんだ。」

「隣で無駄な事ばかりやっている人間を見て、さぞかし面白いだろうと言ってるんだ!お前こそ、何がしたくて俺の傍にいるんだ?!!」

 体を起こしながら、カンサはレイの顔を避けるように下を向いて、レイにそう叫ぶと、レイはカンサの言葉を聞いて、片眉を上げて笑いながら言った。

「あぁ、俺が笑ってんのが癪に触るって言ってんのか。確かにな、お前のやってる事は、いちいち面白ぇんだから仕方ねぇだろ。」

「そうやって、人を斜に見てあざ笑う為に、俺の傍にいるのか?」

「人の心を勝手に憶測して決めつけるのは、お前の一番悪い所だな。人を斜に見た事もなければ、あざ笑った記憶もねぇが?」

 カンサは片膝を立てて座り、木の幹にもたれ右手で顔を覆い、鼻で笑いながらレイに言葉を返した。

「人を斜に見た事が無いだと?今まさに俺を斜に見ているじゃないか、無駄な事ばかりする愚かな奴だと思って……。」

 カンサの言葉と様子を見て、レイは呆れた様に大きく溜息をつくと、カンサの前に立ち、腕を組んでカンサを見下ろしながら言った。

「被害妄想もそこまで行くと感心するな、お前の中の俺はよっぽど暇な奴なんだろう。何で俺が、馬鹿にしてる奴と一日中一緒にいなきゃならねぇんだ。俺は自分より下の奴を見てなきゃ自分を肯定出来ねぇ様な、自信がねぇ奴に見えるって事か?」

 レイの言葉にカンサは黙った。しかし、それでも納得がいかない様子で、顔を覆ったままその場を動かずにいると、レイは溜息と同時にやれやれといった様子で、両肩を落として再びカンサに言った。

「自分の決断が上手く行かねぇ時に、隣で笑われりゃいい気がしねぇのは分かるがな、1つハッキリ言っとく。俺はお前を斜に見てねぇし、あざ笑ってもねぇ。」

「じゃあ、いつも笑ってるのは一体何なんだ…。」

 カンサは顔を上げ、レイの顔を見ながら言うと、レイは自信に満ち溢れた顔で胸を張り、カンサの目を見てハッキリと言った。

「俺は正面から堂々とお前を見て、面白ぇから笑ってるだけだ!」

 呆気に取られたカンサを他所に、レイは顔を上に向けてアハハハハッと爽快に笑った。

「……俺が愚かだから、ジェンナを死なせたんだぞ?お前はそれを、始めから分かっていただろ?“余計な事”だと…。」

 カンサは再び下を向いて、自分を責めるようにレイに言った。

「そんじゃあ、お前はこれから俺の言った通りに行動するって事か?自分の行動の代償は、いいもんも悪いもんも受けるもんだが、俺の言う通りに行動して、お前が過ちを侵さずに、代償も受けずにいられると思ってんなら、そりゃ大間違いだ。」

 カンサは下を向いたまま、首を横に振って力なく言った。

「……代償が、大き過ぎるんだ…。」

「人の決断にただ従って生きる程、大きな過ちは他にねぇだろうな。そんな事をして、後でどれ程の代償を受ける事になるか本当に分からねぇ程、お前はバカなのか?それならお前は、本当の無責任野郎って事だな。あいつの死も無駄に終わったな。」

「どうしろって言うんだ!!シドウの事も!ジェンナの事も!俺は何も解決出来ていないんだ!!」

 カンサは打ちひしがれ、両膝を立て、両手で顔を覆いながら叫んだ。

「俺は言ったはずだ。お前が勝手に自分の感情に振り回されて、ループしてるだけだ。何度も言ってやる程、俺はお前に甲斐甲斐しくしてやるつもりはねぇ。ちったぁ自分の頭で考えろ。」

「どうしてやる事が、一番良かったんだ?どうすれば2人を救えた?…どんなに考えても、答えが出ないんだ……。」

「お前は、本当に偉そうな奴だな。“どうすれば2人を救えた”だと?結果がお前の全てだろうが。まだ分からねぇのか、お前は“何も出来なかった”んだ。いい加減自分の実力を認めろ。」

「何も出来ない事を認めて、最初から何もしないでいろって言うのか?!俺は、ただ通り過ぎていろっていう事なのか?!」

「お前の頭ん中はいっつも2択だな。是か非か、するかしないか、そりゃ楽なもんだろうな。お前はとことん高慢な奴だ、自分の中に“過程”がある事が気に入らねぇっつって、こんなにダダ捏ねてんだからな。」

「……過程だと?……俺の中の過程の為に、人が死ぬのか?」

「奴らの死と、お前の過程が交差しただけだ。お前の影響力で誰かが死んでるんじゃねぇ。そいつの死はそいつのもんだ。どんだけナルシストだお前は。」

「……俺の過程の、行き着く先はどこなんだ。……俺は一体、何が出来るっていうんだ…。」

「それが分かれば、この世の誰も苦労してねぇだろ。都合のいい質問すんじゃねぇ。」

 レイはそう言ってカンサの隣に腰を下ろすと、自分の鞄からパンと水を取り出し、カンサの手に握らせた。

「とにかくお前は、食って寝ろ!お前のグチに、付き合ってる暇はねぇんだよ!」

 食料を、カンサは次の町で調達するつもりで、その道中に必要な分だけの水と食料しか購入しておらず、それも自分はジェンナの荷物を自分の鞄に入れる為に、食料はまとめてレイに持たせていた。
 カンサは町を出た日から、ジェンナに付きっ切りだった為に約3日間、殆ど眠っておらず、食べ物も口にしていなかった。レイはカンサの後ろを歩きながら飲み食いしていたのでその結果、最後のパン1つと水1本となっていた。

「……食べる気がしない。」

「食欲があろうがなかろうが、口に突っ込めっつってんだ!俺は寝る。明日、問答無用で最初に着いた所でしばらく休憩だ!じゃあな。」

 レイはそう言って横になると、ゴーゴーと直ぐにイビキをかき始めた。内心、少し羨ましい気持ちで、カンサは横目でレイを見た後、手に持たされたパンと水を見て、小さく溜息をついた。

 小一時間程、カンサは空を見上げて星々を眺めていた。静かな森の中で、風が木々の葉を撫でる音と、レイのイビキの音だけが聞こえる中、カンサは小さくパンをかじった。すると、パンを口にした瞬間、カンサの目から涙が溢れ出て、ポタポタと地面の土を濡らした。涙を拭う事もせず、カンサは無理矢理にパンを口の中に押し込んでいく。途中パンを喉に詰まらせ、ムセながらもボロボロと流れる涙は止まらなかった。

『俺は、何故生きているんだ……。俺の体は、何故生きようとしているんだ…。』

 死ぬつもりでいる自分が生きていて、これから生きていって欲しい子供達が死んでいく、カンサはそれが自分の中で受け入れ難かった。それでも、自分の体はパンを口にした瞬間に、激しい食欲を沸き立たせ、水を要求し、それが満たされれば、今度は激しい眠気が襲ってきた。自分の体が、全力で生きようとしている事に、カンサは堪らなく悔しい気持ちでいながら、体の要求に抗う事が出来なかった。パンを食べ終え、水を飲み干した後、カンサはレイの横で泥の様に眠りに落ちていった。



「おい!いつまで寝てんだ、昼になるぞ!」

 レイの声でカンサは目を覚ました。レイに起こされるのは初めての事で、カンサは信じられず、弾かれた様に飛び起きた。太陽を見ると、もうかなり高く昇っている。

「信じられない…俺はどれだけ眠っていたんだ…。」

「お陰でちったぁスッキリしたろ、顔がひでぇ事になってるがな。疲れでむくみまくってるぞ。お前、その調子だと早死にすんだろうな。」

 レイはそう言ってハハハと笑うと、鞄を肩に担いだ。

 カンサの目は、昨夜の涙のせいで腫れていた。カンサの今までの人生の中で、あれ程涙を流したのは、初めての事だった。まぶたが厚ぼったく、熱をもっていて、上手く目が開けられない感覚を、カンサは初めて経験した。

 いつもはカンサが歩き出してから、後ろを歩くレイであったが、その日はカンサよりも先に歩き始めた。カンサは不思議に思いながらも、レイの後ろを歩いていた。腫れた目に、太陽の光がやたら眩しく感じられた。

 時間が経つにつれ、顔のむくみと目の腫れは引いていったが、激しい倦怠感と鉛の様に重い自分の足が、カンサは信じられなかった。今までどんなに疲れていても、一晩休めば体力は回復していた、そうなるように自分の身体を鍛錬してきた。なのに今、体中が重く、思う様に動かない事に、カンサは困惑していた。背中の荷物がやたらに重く感じられ、腰に下げた刀の重さが辛いと思った事も初めてだった。まるで自分の腕では無い様な、感覚の鈍い自分の腕を見て、今化け物に遭遇したら、果たして倒せるだろうかと懸念いていた。

 今のカンサは肉体では無く、精神の疲労からくるダメージでそうなっていたのだが、カンサはそれに気付かなかった。過去の母親を失った強い恨みは、カンサの心の奥深くに根を張っているが、その他の今までのカンサの人生は、自分で考え決断し、行動に移した事が全て成功し実現してきた。他人と関わらなかった為に、自分の事だけを考えていれば良かった。いつ死んだとしても、それは自己責任でカンサ自身、充分納得していた事で、実際いつ死んでもいいと思って生きていた。
 それが人と関わる事で、自分の中の時間が、自分の為だけに使えなくなった事や、自分の生死も自由で無くなった事、人と関わる事で大きく感情を波立たせられる事、自分の決断と行動がことごとく裏目に出る事、何より自分と関わった人が、自分が何も出来ずに失われて行く事に、カンサは自分でも気付かない程に心身に大きなダメージを負っていた。
 肉体は充分に鍛えられていても、精神の方はカンサが生きてきた25年間、ほとんど何の経験も積まずに生きてきたのだった。人と関わらずに生きれば、心や精神の揺れ幅を最小限にして生きていられるが、人と関わればそれが全て覆される。シドウの死のダメージと、それを取り戻す為に尽力したはずのジェンナの死が、カンサの肉体と精神に、思いもよらない程のダメージを生じさせていたのだった。

 レイは一度も振り返る事無く、カンサの前を歩いていた。カンサは驚く程自分の体が利かないので、レイに置いて行かれるだろうと思っていた。しかし、レイは随分ゆっくりとカンサの前を歩いていた。カンサが全く急ぐ必要が無い程、むしろ体中が重いカンサでも、ゆっくりと歩ける程に、レイはゆったりと足を運んでいた。
 カンサが先頭を歩けば、自責に駆られ、無理をして早く進もうとする事を、レイは充分に承知していた。わざと前を歩き、カンサの心身の疲労も、昨晩の涙も、何も知らないフリをして、その男は紅い髪を風になびかせながら、気持ち良さそうに悠々と歩いている。カンサはそんなレイの気持ちを、何も知らないまま、風になびく紅い髪を見ながら、レイの背中に向かって言った。

「本物の炎みたいだな…お前の髪は。……今まで気付かなかった。」

 うねりのある真紅の髪が、日に当たってキラキラと光を反射して、黄色やオレンジ色に輝き、風になびく様が、まさに揺らめく炎を思わせた。カンサの言葉に、先頭を歩いていたレイが初めて振り返り、琥珀色の瞳がカンサの目を捉えた。カンサは、レイの後ろを歩く事で、初めてレイという男をしっかりと見た様な気がした。琥珀色の瞳は、陽の光を帯びて金色に見えた。

「今のお前は、萎びた大根みたいだがな。」

 レイはそう言ってフッと鼻で笑うと、再び前を向いて歩き始めた。

 前を歩くこの男が、自分の目の前に現れた時には、カンサは心底疎ましく思っていたが、今のカンサの心には、この男がいてくれて本当に良かったという安堵の思いが、温かく広がっていた。

『人がいるという事は、いいものかも知れない……。』

 ポツンと心に浮かんだ言葉に、カンサは苦笑いをした。人は人の中で生きるべきだと偉そうに言っていた自分が、一番その言葉を理解出来ていなかった。自分が言うまでもなく、ジェンナ自身は、仲間と一緒にいる為に必死で努力をしていた。自分より遥かに、この言葉を理解していたのだ。カンサは、体中に苦いものが広がっていく様な感じがした。この世で一番、自分が愚かな人間の様に感じられた。

「レイ、…俺が地下で軍に入れた事も、そこで良い成績を取って地上に出られらた事も、俺はただ…運が良かっただけだ。……俺は、本当は何も出来ない、何の実力も持ち合わせていない、凡庸な…いや、それ以下の何も分かっていない人間だ。」

 そんな自分が、塔に辿り着けたとして、一体何が出来るのだろうか?カンサの頭にそんな言葉がよぎり、気弱な表情をして頭を垂れた。レイは再び振り返ってカンサを見ると、大げさに深く頷き、カンサに向かって言った。

「本当の自分に気付く事は、精神病を克服する為の大事な一歩だな。お前はそれに加えて、妄想癖と放浪癖とナルシストで変態という現実がある。あとドMな。」

 そう言って、爽快にアハハハハッと笑うと、レイは再び前を向いて歩き始めた。

「………。」

 ムカつく気持ちが、不安の気持ちに打ち勝ち、カンサの心から離れた。カンサはフッと笑うと、重い体を引きずってレイの後ろに続いた。


 いくつかの山を越えて、空が赤く染まり始めた。カンサはうなだれて歩くのがやっとの状態で、前を歩くレイの足元を見ながら歩いていた。カンサ自身も内心、そろそろ限界と思っていた頃、ピタリとレイの足が止まり、カンサは顔を上げた。

「今日はここで休むぞ。」

 カンサは視線をレイの背中から、レイが見ている視線の先へと移すと、そこには山から岩肌が露出し、その中でも一際巨大な岩が地面に腰をおろしていた。その巨大な岩からまるで生えてきたかの様な、石造りの大きな教会が建っていた。歴史のありそうな荘厳な佇まいで、屋根の頂きには美しい装飾の施された大きな十字架に、正面扉に続く石畳の道の両サイドには、聖人と思われる美しい彫刻が立ち並んでいる。

 目を丸くして教会を見上げていたカンサが、あんぐりと開けた口のままレイに言った。

「こ・こんな所……キリスト教徒でもない人間を入れてくれるのか?」

「駄目だって言われりゃ、キリスト教徒になりゃいいじゃねぇか。」

 レイはそう言って、二の足を踏むカンサを置いて教会へと歩き出した。

「簡単に言うな、たった一晩泊めて貰う為に入信するなんて、失礼だろ。……大体、お前は神を信じているのか?」

 カンサの言葉に、レイは立ち止まってカンサの方へ振り向いて言った。

「“信じて”はいねぇな。」

「……お前、あれだけ“神が幸福の元”だとか色々言っていたのに、自分は信じていないって…。まぁ…今更、お前が何を言っても驚かないが。」

 カンサの言葉に、レイは片眉を上げてニヤリと笑うと、何も言わずに歩き始めた。カンサは後ろから追いかけ、レイの顔を覗き込む様にして言った。

「お前は一体何を考えているんだ?さっきの言葉はどういう意味なんだ?」

「うるせぇ、お前は自分の心配してろ。ここに入れなかったら、今のお前の体力じゃ夜の寒さに耐えれるか分かんねぇぞ、毛布もねぇんだからな。明日の朝、ここで葬式して貰うか?」

「……とりあえず、行ってみよう。」

 カンサも正直な所、今の自分の体で野宿が出来る自信が無く、何とか教会の中に受け入れて貰いたいというのが本音であった。

 2人は大きな扉の前に立ち、鉄製の大きなノッカーを数回鳴らした。暫く待っていると、トゥニカを身にまとい、ウィンプルを被った中年のシスターが、脇の小さな扉から顔を出した。

「お祈りにいらしたのですか?」

 穏やかで、優しい声のシスターが微笑みながらカンサ達に言った。

「……いぇ…はい…あの……。遅くに申し訳ありませんが、中に入れて頂けませんか?実は、旅をしている者で、今夜一晩休める所が無く、困っているのです。」

 カンサはおずおずと、シスターにそう言うと、シスターは心配そうな顔をして扉を大きく開いて言った。

「まぁまぁ、それはお困りでしょう。この辺は町も遠いですし、朝にはまだ霜が降りますからね。ただ、わたくしでは決定出来ないのです。司教様にお尋ね致しますので、どうぞ中でお待ち下さい。」

「ありがとうございます。」

 カンサはそう言って、レイと2人で教会の敷地内へと入った。扉の中に入ると、広い敷地に芝生が一面に植えられ、綺麗に刈られていた。シスターや神父の宿舎と思われる建物や、他の様々な建物が建ち並び、中心の教会へと結ぶ回廊が巡らされていた。
 10分程待った頃、カンサ達を迎えてくれたシスターが、カンサ達の元へ戻ってきた。

「司教様のお許しを頂きました。どうぞ、まずは司教様にお会いになって下さい。それから教会で神様にお祈りを。」

「…はい、ありがとうございます。助かりました。」

 カンサとレイの2人は、シスターの案内で司教の所へと向かった。教会に入ると、遥か高い位置に丸天井があり、美しい天使のモザイク画が施されていた。他の広い天井部には深い青色と金色とで装飾され、いくつもの大きな白い石の柱が天井へと伸びていた。壁の高い位置には、それぞれ聖人やマリア像が置かれ、床から数十メートルはあろうかという窓には、豪華な美しいステンドグラスで彩られていた。教会の扉から真っ直ぐに伸びた、深い青色の絨毯に金の糸で装飾された道の先の正面に、金色に装飾された美しい十字架に架けられたキリスト像があった。カンサが中に入り、先に進んだその背後には、木造の金の装飾と天使で飾られた、大きなパイプオルガンが設置されていた。
 シスターは教会の脇にある小さな扉へと向かっていた、カンサ達も後に続き、シスターが扉を開けると、青いベルベットのカーテンが垂らされ、カーテンを開くと奥に石造りの階段が上へと伸びていた。その階段を昇っていくと、木造の古い扉があり、シスターがその前で立ち止まり、カンサ達の方に向き直って言った。

「こちらが、司教様のお部屋です。どうぞ中へ。」

 シスターがそう言って扉を開けると、温かい空気が流れてきた。木が燃える匂いが立ち込め、質素で必要なものだけしかないという様な、家具の少ない部屋の中心に、大きな木造の机に座っている老人がカンサの目に入った。

 黒いキャソックを身にまとい、首から銀のロザリオを掛けた、90歳を過ぎているだろうと思われる白髪の、痩せて小柄な老人であった。司教はカンサ達を見ると、ゆっくりと椅子から立ち上がり、机に手を付きながらゆっくりと机を回って、カンサ達の近くへとやって来た。

「司教様、遅くに申し訳ありません。滞在を許して下さり、ありがとうございます。」

 カンサがそう言って、司教に一礼をする間、司教はモゴモゴと口を動かし、カンサにブルブルと震える手を差し出しながら言った。

「か……か…。」

「???」

 カンサは差し出された手を握り、握手をしながら、司教の言葉を待った。

「か・神の家に…よ・ようこそ……。」

「あ、ありがとうございま・・・」

「こ・こ・この……教会は…歴史が…ふ・古く………」

「……そうですね、ここに来る途中で拝見して……」

「ど・ど・どうぞ……明日にでも……ぜ・是非、き・教会内を…………。」

 話の途中で、司教は口をモゴモゴと動かし始めた。会話が終わったのか続くのか、カンサは測りかねていた。暫く司教が沈黙したので、カンサは終わったと判断し、一礼して握手した手を離しながら言った。

「はい、是非拝見させて頂きま…」

「み・見て頂けたらと……お・思います。」

「……はい、本当にありがとうございます。」

 会話が済んだと判断し、シスターは出口にカンサ達を促しながら、カンサも司教に一礼し、部屋を後にしようとした時、

「ら・来訪者は……か・神の…影ですから……か・歓迎致しま……す。」

 カンサは慌てて司教の方へと向き直り、深く一礼してシスターに続いて部屋を後にした。

「司教様はご高齢で、今年で92歳におなりです。それでも、今でもミサには必ずご出席されますし、体調の良い時などは皆様にお説教を説いたりなさいます。大変立派な方です。」

 階段を降りながら、シスターがカンサ達に言った。

「そうですね、立派な方というのは、俺も肌で感じる所がありました。歓迎して頂いて、本当に助かりました。」

 シスターは微笑みながら軽く会釈をすると、入ってきた扉を開き、教会の中に戻ってきた。

「では、こちらで是非お祈りを、その後お部屋にご案内致します。」

「はい。」

 カンサとレイは並んで、キリスト像の前にひざまずき、手を組んで目を瞑った。

「あの様子じゃ、明日の葬式はあのじいさんだな。」

 お祈りの姿勢のまま、小声でレイがカンサに言った。

「声が大きい。少し黙っていてくれ、俺はここを追い出されたくないんだ。」

「しかし、立派な教会の割に、人の気配が全くしねぇな。」

「……確かに、そうだな。」

 カンサもそれは気になっていた。広大な敷地に立派な教会が建っている割に、司教とあのシスターの他にほとんど人の気配が無いのである。カンサ達はお祈りを済ませ、シスターに案内されて教会の外に出た。回廊を歩きながら、シスターがカンサ達に言った。

「あちらが書庫です、誰でも自由に入れますが、扉に鍵がかかっていますので、お入りになりたい時は、わたくしに言って下さい。1番奥の建物が食堂です。あちらは、わたくし達シスターの寮となっております、男子禁制ですので、お入りになりませんように。何かお困りの際はあちらの、司祭寮へ。……といっても、この教会は司教様の他は、わたくしともう1人のシスターと、司祭が1人だけで…昔は栄華を誇った教会なのですが、人里離れた所ですし、今はもう昔の面影は無くなってしまいました。」

 少し寂しそうな顔をして、シスターはカンサ達が泊まる部屋の前で立ち止まった。

「どうぞ、こちらの部屋をお使い下さい。明日の朝のミサは6時からとなっております。それから朝食ですので、食堂にお越し下さい。」

「どうも、色々と本当にありがとうございます。」

「いえ、久々にここを訪れて下さる方がいて、こちらこそ感謝致します。それでは、おやすみなさいませ。」

「おやすみなさい。」

 シスターはカンサ達に会釈をすると、夜の闇へと消えて行った。部屋の中に入ると、質素で古いながらも、清潔に保たれた部屋が用意されていた。小さな部屋ではあったが、ベッドが2つにテーブルが1つ、椅子が2脚にシンプルな棚が1つ、洗面台やトイレ、お茶のセットも揃っていて、およそ困りそうな事は無かった。

「あ~~~っ!やっとまともな所で寝られるぜ!朝のミサが面倒だが、メシもくれるのは助かるな。」

「あぁ、歓迎されるとは思っていなかった。助かったよ。」

 カンサはそう言って、脱力した様にベッドに腰を下ろし、そのまま上体を倒して枕に顔を埋めた。まだ眠るつもりは無かったカンサであったが、枕に顔が埋まった後から意識が無くなっていた。



 カンサが目を開けると、目の前のテーブルに朝食が用意されていた。不思議に思って身を起こすと、自分のベッドの上に座ってパラパラと本をめくっていたレイが、カンサの方を見て言った。

「やっと起きたか。」

「…朝食は、食堂で摂るはずじゃなかったか?何故ここにあるんだ?」

「お前、今何時だと思ってんだ?10時だぞ。」

 カンサはレイの言葉を聞いて、驚きで目を見開き、急いで腕時計を確認した。

「10時?!アラームをセットし忘れていた。……朝のミサはどうなったんだ?」

「俺が行ってきた。誰も行かねぇわけにいかねぇだろ。昨日のシスターに、お前は昨日から体調を崩してるって言っといたんだよ、そしたら朝食を持って来てくれたんだ。」

「…そうか、済まない色々と迷惑を掛けてしまって。……ありがとう。」

 カンサはそう言って、テーブルに腰掛けると、レンズ豆のトマトスープとライ麦パンの朝食を食べ始めた。

「そのパン黒い上に酸っぱかったぞ、悪くなってんじゃねぇか?」

 ライ麦パンに手を伸ばしたカンサを見て、レイがそう言うと、カンサは笑いながら言った。

「これは、小麦じゃなくてライ麦で作ったパンなんだろう、ライ麦は酸味があるんだ。悪くなってる訳じゃないから、大丈夫だ。」

「ふ〜ん、で?どうすんだ?あのシスターは、お前の体調が悪いなら、回復するまでここに居ていいって言ってたぞ。」

「いや、そこまで迷惑は掛けられないだろう。昼過ぎにでも出発しよう、夜までには次の町に辿り着けるはずだ。」

「お前の勝手にすりゃいい事だが、無理やって、かえって迷惑度が増す結果に落ち着かせんのが、お前の得意技だからな。」

「……大丈夫だ、充分休んだよ。」

 カンサは朝食を済ませ、身支度を整えると、空いた食器を食堂へと持って行った。食堂のキッチンには昨夜の中年のシスターが、食材の下拵えをしていた。

「まぁ!カンサ様。もぉ起き上がって大丈夫なのですか?レイ様から体調がすぐれないと伺っていたのですよ。どうぞ、ごゆっくりされて下さいね。」

「ありがとうございます。でも、そんなに迷惑も掛けられませんし、昼過ぎにでも出発しようと思います。本当にどうもありがとうございました。」

「まぁ!たったの一晩で、そんなに良くなるはずはありませんよ。それに困ります、わたくしもう夕食の準備を6人分用意してしまったのです。わたくし達だけなら、食事はいつも朝と夕の2回ですが、立派な青年方には到底足りるものではないと思いまして、この通り、昼食は出来上っています。午後にはビスケットも焼けますので、どうぞもう一晩泊まって頂くのでないと、わたくし困ってしまいます。」

「…ですが、俺はついさっき朝食を頂いたばかりで……。」

 シスターは眉間にシワを寄せて、笑いながら首を横に振ってカンサに言った。

「わたくしは子供を持ちませんが、たまに町へ出かけて町の青年達を目にする事があります。毎年の町の催しものや、祭りにも参加するのですが、青年達の大精な食欲をいつも見ていて知っているのです。町の青年達に比べますと、カンサ様は背が高い割に、少し痩せ過ぎているように思います。そんなに痩せていては、また直ぐに体調を悪くされてしまいますよ。沢山食べて、ゆっくりと休めば、今まで以上に体も軽くなられる事でしょう。さぁさぁ、あと1時間後には食堂にお越し下さいね。それまで少し散歩されてはどうですか?ここはとても空気が綺麗で、美しい風景も見られます。どうぞ教会へも足をお運び下さい。」

 シスターはそう言ってニッコリと笑うと、再び食材の下拵えに取り掛かった。カンサはそれを見て、胃の辺りを擦りながら、食堂を後にした。

 食堂から出ると、柔らかな風がカンサの額を撫でた。木々の中から鳥のさえずる声が聴こえ、昼の明るい日差しが教会と回廊に光を降ろして、まるで絵画のような美しい光景が、カンサの目の前に広がっていた。カンサは回り道をして教会に向かった。教会の木造の大きな扉を開き、1歩中に入ると昨夜の光景とは全く違う、美しい光景にカンサは目を奪われた。
 夜のロウソクで照らされた、重々しい荘厳な雰囲気は姿を隠し、紺碧の天井に白い柱と壁に、窓から一杯の光がステンドグラスで色付けされて、空で雲が動く度に光がゆらめき、夢の様な美しい光景にカンサは立ち尽くして魅入っていた。

 教会の風景に心を奪われて、カンサはしばらく気付かなかったが、キリスト像の前でひざまずいている1人の女性の後ろ姿に目が留まった。ウィンプルを着けておらず、艷やかなティーブラウンの綺麗なストレートの髪が腰まで伸び、黒のリボンでハーフアップにした女性の後ろ姿だった。

『あぁ、もう1人いると言っていたシスターか。』

 カンサはそう思い、祈りの邪魔にならない様にゆっくりと中に入って行った。壁に掛かけられた宗教画を観て歩き、静かで美しい沈黙が流れていた。シスターの祈りが終わったら挨拶をしようと、カンサの方から声をかけるつもりでいたが、シスターはスッと音もなく立ち上がると、カンサの方へと向かって声をかけた。

「貴方がカンサ様でいらっしゃいますね。レイ様には、今朝教会でお会い致しました。食堂でも朝食をご一緒致しましたが、大変ユーモアのある方ですね。」

 そう言って優しく微笑んだシスターは、カンサとあまり歳の変わらない、若くスラリとしていて、陶器の様に白く艷やかな肌に、髪と同じティーブラウンの眉と長いまつ毛、前髪の下からは、吸い込まれそうな程青い、空色の瞳がカンサを見つめていた。カンサが驚いたのは、トゥニカと思っていた黒い服は襟とカフス部分が白い、黒のワンピースドレスで、首から銀のロザリオを下げてはいたが、その服装は一般の女性と変わらないものだった。

「あ…はい、そうです。八津島カンサといいます。シスターが2人いると伺っていたのですが、貴方がそうなのですか?その…すみません。宗教の事はあまり詳しくないので、その服装もシスターの正式な服装なのでしょうか?」

「いえ、わたくしはキリスト協会に属している者ではないのです。カンサ様が昨夜会われたシスター・ハンナと、ショーン司祭の2人は、キリスト協会からこの教会に派遣されて来た、正式なシスターと司祭なのですが。」

「…それは、どういう事なのでしょうか?」

「わたくしは、幼い頃に両親を同時に亡くして、ここで司教様からのお許しを頂いて、住んでいる者なのです。……ですから…お恥ずかしい話ですが、正式なシスターという訳ではないのです。」

「そうだったんですか。何歳の頃からこの教会にいらっしゃるんですか?」

「8歳の時です。18年ここでお世話になっています。」

 カンサはそれを聞いて、ズンッと全身が重くなるのを感じた。ジェンナと同じ歳に、この教会に受け入れられた女性。ジェンナもここまで生きていられたら、あるいはここで。とカンサは、思わずにはいられなかった。

「申し遅れました、わたくしモニカ・リオバ・フォスターと申します。」

 モニカはカンサに、教会内を案内して回った。キリストの生涯を描いた宗教画を一枚一枚説明して歩き、一人一人の聖人像の前で、その聖人の偉業をカンサに教えた。

「カンサ様は、神様を信じていらっしゃいますか?」

 マリア像の前で、モニカが立ち止まり、カンサに笑顔を向けて質問した。カンサは、モニカの顔を見た後、マリア像に目を向け、そのまま床へと視線を落として言った。

「……さぁ、どうでしょう。不確かな存在を信じる程、俺は良い人間ではありませんから。」

 カンサの言葉に、モニカは眉を寄せて悲しげな表情へと変わり、静かに手を組み、うつむくカンサに寄り添うように、首を傾けながらカンサに言った。

「神様を信じてはいらっしゃらないのですね。……その理由を伺ってもよろしいですか?」

 カンサは視線をモニカへと戻し、モニカの青い目を見ながら真顔で答えた。

「……俺は、元々信仰心というものを持つ人間ではありませんでしたが、先日ある子供が、俺の腕の中で死にました。俺の知る限り、一度も幸福というものに、恵まれ無かった人生のように思える子供でした。その子には、何の罪もありません。信仰心を持たない俺でしたが、今回の事で神に対する不信は、益々強まりました。……神という存在は、無罪の者にも罰を与えるのでしょうか?」

 カンサの質問に、今度はモニカが視線を床に落とした。少し考えた後、モニカはカンサの目を見ながら、悲しい表情のまま答えた。

「……カンサ様、神様は人に“原罪”というものを課して、この世に生まれるようにお造りになっています。ですから…たとえ、生まれたばかりの子供でも、すでに罪を負ってこの世に生まれた事になります。」

「生まれる事がすでに罪だという事ですか?なら何故、神はこの世に人を造ったのでしょう。生まれる事自体が罪で、神が自分を拝む事で罪から救うと言うのであれば、失礼ですが、俺には茶番の様に思えます。………それではまるで、神が1人の寂しさを埋めるために、人を造ったみたいじゃありませんか。……すみません、感情的な事を言ってしまいました。」

 カンサの言葉に、モニカは言葉を詰まらせ、手を胸に当てたまま黙ってしまった。カンサも、口にしてもどうしようも無い事を、会って間もない女性に言って、困らせてしまったと後悔していた。モニカは暫く黙っていたが、カンサに柔らかい笑顔を向けてこう言った。

「カンサ様、ここの教会は本当に立派で、私の自慢なのです。書庫も大変立派で、蔵書の数は各教会内でも10本の指に入る程なんですよ。わたくし、司教様から専用の鍵を頂いているのです。良かったら見てみませんか?」

 カンサは少し申し訳なさそうな顔をして、小さく頷くと、

「はい是非、拝見させて下さい。」

 そう言って、嬉しそうに頷きながら、先を歩き始めたモニカの後に続いた。 

 2人が書庫に辿り着くと、モニカは襟元から細いチェーンを抜き出し、それを手繰って銅製の古い形の鍵を取り出した。頑丈に作られた、大きな扉と一体化になった鉄製の錠前の鍵穴に、その鍵を差し込むと、ガチャリという低く重い音を立てて、書庫の鍵が開けられた。中に入ったカンサは、ハッと息を呑んだ。木造のアーケードの様になった丸天井が、何処までも続き、その天井と平行に続く、木造の細い通路の両サイドには数十もの天井まで届く棚が並び、その棚にびっしりと本が並べられていた。

「わたくしが実際に数えた訳では無いので、確かな情報なのかは分かりませんが、聞いたところによりますと、蔵書数は約450,000冊だそうです。この教会の、唯一の財産と呼べるものかも知れません。哲学・文学・戯曲・歴史・芸術・言語あらゆるジャンルの本を読む事が出来ます。わたくしの1番好きな場所です。」

「書庫の鍵は、モニカさんとシスター・ハンナの2人が持っているんですか?」

天井まで届く蔵書を見上げながら、カンサはモニカに言った。モニカは笑って首を横に振ると、

「この教会の、全ての扉のマスターキーを持っていらっしゃるのは、ダニエル司教で、シスター・ハンナは書庫の管理を任されています。わたくしは10歳の時にダニエル司教が、誕生日プレゼントとして、新しく鍵を作って下さった物を頂いたのです。わたくしの1番大切な宝物ですわ。それからわたくしは、教会のお勤め以外の時間は、ずっとここで本を読んでいす。……ダニエル司教は、わたくしにもっと町に出て、同じ年頃の人との交流を持ちなさいと仰っしゃるのですが、わたくしにはここが1番、性に合っているのです。」

「ダニエル司教が、貴方の親代わりなんですね。」

 カンサの言葉に、モニカはパッと明るい笑顔を見せて頷いたが、それから何か考えている風に手を組むと、その手を見つめながら、モニカはカンサに話し始めた。

「……実はわたくしは、ここより西にある大きな街に住んでいました。父は銀行の運営で財を成しました、母は子爵の娘です。その2人には子供が出来ず、わたくしはまだ生まれて間もない時に、孤児院から養子として迎えられた子供なのです。母とこの教会のダニエル司教は、親の代からの古い友人関係でした。わたくしも幼い頃に、何度も両親と共に訪れた事を覚えています。わたくしが8歳の時、さる伯爵の結婚式に両親が招待されたのです。何日にもわたる壮大なパーティーで、子供の私はこの教会に預けられ、わたくしは両親が帰って来るのを待っていました。両親はわたくしを迎えに行く為に、伯爵家から車を走らせ夜遅くに山道に入り、……雨も降っていたので、道も悪くなっていたのでしょうタイヤが滑って、車は崖に落ちて両親はそのまま帰らぬ人となりました。両親を亡くしたわたくしは、親族の家に預けられる事になっていたのですが、元々孤児で、身元もよく分からない者を、引き受けようという者はいませんでした。そんな時、ダニエル司教がここに留まる事を勧めて下さいました。親族は、誰も反対しませんでした。父と母以外、上流社会に身を置く方々は、孤児院から来たわたくしを、内心ずっと快く思っていなかった様です。当時のわたくしも、これからやってくるであろう貴族の方々との社交界や、上流社会の男性方との政略結婚や、日々行われるパーティーの数々、何より望まれぬ家に身を置く事が、わたくしにはどうしても、耐えられるものでは無かったのです。わたくしの意をダニエル司教だけが汲んで下さり、まだ8歳のわたくしの言葉を聞いて下さいました。幼い頃からのわたくしを、両親以外で唯一知る人だったので、わたくしが望まないものを理解して下さっていたのでしょう。ダニエル司教の力添えがあって、わたくしは今もここに留まっている事が出来るのです。」

「本当に、偉大な方なんですね。ダニエル司教という方は。」

 カンサの言葉に、モニカは何度も力強く頷いた。

「わたくしは、あの方から全てを学びました。躾から礼儀はもちろんの事、沢山本を読んで学ぶ事の大切さも、人にどういう心で接するべきかも、どんな気持ちで人生と向き合うべきかという事まで……未熟なわたくしは、まだまだダニエル司教が仰った事を、理解する事も、体現する事も出来てはいませんが。」

 モニカの言葉の1つ1つに、カンサの心は重くなる一方だった。ジェンナを預けるならば、ここにするべきだったのだと、カンサの頭の中はその事で一杯になっていた。ここでなら、ジェンナは静かに、人にいじめられる事もなく、質の高い教育を受ける事が出来たはずだと、カンサは胸の内で苦しんでいた。

『あんな町に希望を持たず、さっさと町を出てここを目指していたら、きっと今頃……。』

 カンサが額に手を当ててそんな事を考えていると、荒々しく書庫の大きな扉が開く音が聞こえた。

「ここにいやがったか、探したぞ。シスターが昼飯が出来たから来いってよ。」

 レイの言葉に、モニカは優しく微笑み、

「シスター・ハンナは、昨夜から本当に嬉しそうで、あの方は賑やかなのが好きな方ですから。昨夜はわたくしに、若く美しい2人の男性が教会に訪れたのは、神からのプレゼントだと言って、とても喜んでいたのですよ。シスター・ハンナは大変お料理も上手な方ですから、どうぞゆっくりなさって行って下さいね。」

 そう言って、カンサとレイに一礼すると、書庫の奥へと歩いて行った。

「あ?なんだ?その面は。メシがそんなに嫌なのか?」

 レイが、カンサの顔を見てそう言うと、カンサは暗い表情のまま答えた。

「……ジェンナを、ここに連れて来るべきだった。あの時、俺達の元に戻って来た時点で、直ぐに出発していれば。……今頃は。」

 レイはカンサの言葉に大きく肩を上げて息を吸い込むと、深く溜息をつきながら、これ以上下がらないという程に肩を下げて言った。

「またお前は、そんな今更どうしようも無い事をウダウダウダウダ。わざわざ自分を苦しめてぇんだよな、お前は。だからドMだっつってんだ。」

 レイはそう言ってくるりとカンサに背を向けると、スタスタと書庫の出口に向かって歩き始めた。カンサはレイの後を追いかけながら、レイの背中に向かって言った。

「さっきのモニカという女性は、孤児だったんだ。状況こそ違うが、彼女も孤独な人生を送ってきた人だった。ジェンナと、とても似た所がある。彼女はこの教会と、ダニエル司教のお陰で、心穏やかに、高い教育を受けながらここにいるんだ。ジェンナもここでなら……」

 レイは足を止め、振り返ってカンサの顔を見ると、真顔でカンサに言った。

「で?どうすんだ?あいつを今から、墓から掘り出して連れて来るか?そんで、あのじじいに説教でもして貰うか?」

「……俺はただ、そうしていれば、1番いい解決方法だったと言っているだけで……。」

「そりゃ何の為の反省だ?また同じ状況が来た時の備えか?ただお前が納得したいだけの事だろうが。」

「………。」

 確かにその通りだと、カンサは思った。どんなに反省し、解決方法を探した所で、ジェンナが生き返る事は無い。自分の過ちを、無かった事には出来ないのだ。自分の行動の結果は、自分の過去として、容赦なくカンサの足元に置かれている。

『……俺は、言い訳を探しているだけなのか?』

 こうしていれば良かったのだと思う事で、何処かで自分に納得させようとしていた。罪の意識から自分を逃れさせ、安堵しようといていた。同時に後悔することで、手放しに腰を落ち着かせている訳ではないという、体裁を作ろうとしていたのではないかと、カンサは考えた。

『俺は、ジェンナの事を考えてる訳じゃない。……自分を庇おうとしてるだけだ。』

 カンサがそう思った時、レイはフンッと鼻を鳴らすと、再び食堂の方へと歩き始めた。カンサとレイが食堂に辿り着くと、テーブルに花が飾られ、大量のライ麦パンとマッシュポテト、ひよこ豆と野菜のコンソメスープ、大きく切り分けられたチーズ、赤ワインが既に用意されていた。食堂の扉が開いた音を聞きつけて、奥からシスター・ハンナが満面の笑顔でカンサ達の所へとやってきた。

「さぁさぁ、どうぞ!沢山召し上がって下さいね。欲しいものがあったら、遠慮なく仰って下さい。」

「…昼食は、俺達だけなんですか?他の方々は?」

「皆様はいつも通りの習慣で、昼食は召し上がりません。カンサ様とレイ様だけのお食事です。どうぞ、気兼ねせずに。召し上がって下さい。」

 カンサとレイは、シスター・ハンナに促されて席に着いた。レイがライ麦パンを頬張り、スープを口に流し込んでいる様を、シスターは惚れ惚れした様子で眺めていた。カンサは小さくパンを噛りながら、レイとシスターの様子を見ていた。

「カンサ様は、如何でした?昼の教会は素晴らしいものでしたでしょう?」

 ホクホクとした表情で、シスター・ハンナがカンサに言った。

「はい、そうですね。とても素晴らしかったです。教会でモニカさんと出会って、書庫も見学させて頂きました。」

「そうですか!シスター・モニカと出会ったのですね。それは良かったです、書庫の管理はわたくしが任されているのですが、彼女の方が断然詳しいですから。ホホホ、わたくしは書庫より食堂にいる事の方が多くて、書庫の管理は彼女に任せて、わたくしは食堂の管理に当たった方が良いかも知れません。」

「モニカさんは、正式なシスターでは無いと伺いましたが。」

 カンサの言葉に、シスターは笑顔のまま眉間にシワを寄せ、小さな溜息をつきながら頷いた。

「わたくしは、彼女はもう既に立派なシスターだと思うのですが、司教様が修道会に入ることを許可しないのです。司教様は、シスター・モニカに一般の女性として、恋愛や結婚をする事を望まれておいでのようなのです。しかし、シスター・モニカは町に出ようとは致しませんし、時間があればずっと書庫にいて、教会から離れようと致しませんから、わたくしはシスター・モニカは正式に修道会に入会した方が、彼女にはいいのではないかと思うのですけれどね。」

 カンサは、モニカの言っていた事を思い出した。ダニエル司教は、彼女にもっと人との交流を望んでいる。彼女にとって、ダニエル司教は1番の理解者であり、彼女の保護者でもある、彼女の幼少の頃の孤独が、かえって彼女を司教や教会に依存させているのではないかと、司教は懸念しているのかもの知れないとカンサは思った。

「それではわたくしは今から、町に出て買い物をして、それから畑に野菜を採りに行って、夕方には洗濯物を……あぁ忙しい忙しい。」

 カンサはその言葉を聞いて、とっさに手を上げた。

「町への買い出しは、俺に行かせて下さい。」

 シスター・ハンナはカンサを見ながら笑顔で答えた。

「まぁ、嬉しい申し出ですが、ゲストにそんなお使いのような事はさせられません。それに、カンサ様には充分に休んで頂きたいですし。」

「いえ何もお手伝いせずに、ここにお世話になる訳にはいきません。それに、少し体を動かしたいですし、次の町の下見も出来て、丁度いいですから。是非そうさせて下さい。」

「そうですか?それでは、お願い致しましょう。買い物リストを書いて参りますね。」

 シスター・ハンナはそう言って、笑顔で食堂の奥の扉に入って行った。

「あの、若い方のシスターはファザコンだな。自分の父親が理想の男性像にピッタリ当てはまり過ぎて、他の男に目がいかねぇんだろ。」

 レイはマッシュポテトを口に詰め込みながら、カンサに言った。

「確かに話に聞く限り、ダニエル司教という人物は素晴らしい人のようだ。それだけに、彼自身もモニカが自分に依存している事を懸念しているのだろう。彼女も成長して、立派に成人している。もう外に目を向けるべきだと、考えているんだろうな。」

 本が好きだというのも、嘘ではないにしろ、幼少の頃にダニエル司教から教えられた事を、今もやり続ける事でそれが自分の性だと思い込み、外の世界を避けているのかも知れない。カンサはそう考え、町への買い物に彼女を同行させようと考えた。

「お待たせ致しました、これが買い物のリストです。小さな町ですから、各お店は直ぐに見つかると思います。お好きな物があれば、買って来て下さいね。」

 シスター・ハンナはそう言って、カンサに買い物バッグとメモと財布を手渡した。カンサは笑顔でそれを受け取ると、

「ありがとうございます。それでは早速行ってきます。」

 そう言って、カンサとレイは席を立った。食堂を出た2人は、そのまま書庫へと向かった。すると、書庫には鍵が掛かっており、書庫には誰もいないようだった。

「何処に行ったんだ?」

「教会か、どっちにしろあのじじいの近くだろ。あの歳だ世話役がいる、じじいの近くにいるにはいい口実だ。」

 流石にそこまでベッタリではないだろうと、カンサは思いながら、教会の方へと向かった。扉を開けると、祭壇を掃除しているモニカを見つけた。カンサは内心少し驚いたが、偶然だろうと思い、モニカの方へと近づいて行った。

「あら、カンサ様。もうお食事は済んだのですか?」

 モニカは笑顔で、カンサに話しかけた。

「はい、モニカさんの言った通り、シスター・ハンナはお料理が上手ですね。そのシスターから、町へお使いを頼まれたのですが、初めての町ですし、良かったらモニカさんに案内を頼めないかと思って。」

「そうですか、分かりました。それでは、ダニエル司教に外出すると伝えて参りますね。」

 モニカはそう言って、教会の奥の扉の方へと向かって行った。

「思った通りだったな。」

 レイがカンサにそう言うと、カンサは首を横に振りながら言った。

「これだけ大きな教会に、4人しか人がいないんだから、場所を分担して仕事をするのは当然だ。モニカさんはたまたま、教会の清掃を担当していたんだろう。」

「へぇ〜、たまたまねぇ。」

 レイはそう言って、ニヤリと笑うと頭の後ろで手を組んだ。そう言っている内に、モニカが奥の扉から、カンサ達の所へ戻って来た。

「お待たせ致しました。それでは参りましょう。」

「はい、よろしくお願いします。」

 カンサがそう言うと、3人は教会の出口の方へと歩き始めた。

「あ、少し待って下さい。是非お二人に見て頂きたいものがあるのです。」

「何でしょう?」

 カンサがそう言うと、モニカは嬉しそうに笑い、教会の隅の方へ歩きだすと、手招きをして2人を呼んだ。カンサとレイが、モニカの所へ行くと、

「見て下さい。ダニエル司教のお若い頃の肖像画です。」

 モニカの発言に、カンサの顔は引き釣り、レイはニヤリと笑った。カンサとレイが、モニカが手を指した壁の方へ顔を向けると、司教服に身を包み、ミトラを被って司教杖を持った、ダニエル司教が描かれていた。歳の頃はおよそ50代と思われる、40年前のダニエル司教だった。面影は確かに今も残っているが、50代のダニエル司教は、ほっそりとした細面の、上品な紳士といった端正な顔立ちをしていた。カンサは若かりしダニエル司教を目の前に、モニカに何という感想を言おうかと、頭をフル回転させていると、モニカが嬉しそうに、肖像画の左下の壁に掛けられた、小さな額縁に入った写真へと2人を促した。

「こちらは、この教会に来たばかりの頃の、まだ司祭だった頃のダニエル司教です。」

 カンサとレイは黙って、モニカの促した写真へと身を屈めた。20代後半の、キャソックを着た、小柄ではあったがハンサムで知的な好青年が、笑顔で教会の扉の前に立っている写真だった。

『決定的だ・・・。』

 と、カンサは思った。モニカの様子を見ると、もはや父親に対しての依存というより、恋心に近いとカンサは思った。ハッキリ言って、若いダニエル司教を見て喜んでいるのは、モニカだけで、カンサとレイは特に何という感想も湧かない。

「お若いですね、それに司教はハンサムだったのですね。今も面影はありますが。」

 という妥当な感想を、カンサはモニカに言ったが、モニカにとってはそれで大満足だったらしく、嬉しそうに頷くと。

「はい、わたくしも若い頃の司教を知りませんでしたから、この肖像画と写真を見た時は驚きました。とても素敵な方だったのだと思って。」

 カンサとレイは生暖かい笑顔で、頷いた。

「すみません、お時間を取らせてしまって。それでは参りましょう。」

 満足気に足取り軽く、モニカは先頭を切って教会の出口へと向かって歩き始めた。カンサとレイは、モニカの後ろを歩きながら、レイが小声でカンサに言った。

「今、あのじじいが死んだら、あいつ一生この教会から出ねぇだろうな。」

 カンサもそれは同感だった。新しい司教が来たとしても、これだけの教会の規模に対して、人手不足なのは明白の事。恐らくダニエル司教の亡き後は、モニカは正式に修道女となって、一生をこの教会とダニエル司教との思い出に捧げるだろうとカンサは思った。

『しかし、それは信仰といえるものなのか?』

 ふと、カンサの頭にそんな言葉がよぎった。モニカがこの教会にいるのは、神に対する気持ちより、ダニエル司教への気持ちの方が、明らかに大きい。彼女にとって、ダニエル司教はピンチを救ってくれた、自分を唯一理解してくれる、まさにヒーローだ。キリスト教信者にとって、ヒーローはあくまでも神でなくてはならないのではないかと、カンサは思った。もしも、ダニエル司教がモニカの気持ちを知っていたとすれば、彼の心はモニカのイビツな信仰をどう思っているだろうかと、カンサは思いを巡らせた。

「町へは車で参りますので、門の外で待っていて下さい。ショーン司祭に車を出して頂きますので。」

 モニカは教会を出た所でそう言うと、教会の裏の方へと向かって行った。カンサとレイは言われた通り、門へと向かった。

「レイ、彼女は神を信じていると言えるんだろうか?」

「言えねぇだろうな、本人は死んでも認めねぇだろうが。」

「一体、神を信じるというのは、どういう事なんだろうな。俺にはまるで、信仰という名目で、生きる手段を手にしているだけの様に見える。それは彼女だけじゃない、心から神を信仰していると言える信者は、一体どれ程いるものなのだろう。」

「俺的には、信仰って名目で生きる手段に使うのは、大いに結構だが、本人にその自覚があるかって所だな。信仰が“善”だと思って、信仰する事で自分が善人だと思い込む奴らは、確かに多いだろうな。」

「レイ…信仰は、“善”なんじゃないのか?」

「信仰自体が“善”ってのは、俺には意味が分からねぇ話だな。自分にとっての“善”ってなら分からねぇでもねぇが。信仰の目的は、信仰する心で何をやるかって事じゃねぇのか?ただ信じてりゃ、善人になるってわけじゃねぇだろう。」

「…お前は、神を信じてないと言ってたが、自分の事はどう思ってるんだ?……俺は自分を善人だとは思っていない。神の存在を疑うのは、やはりいい事とは言えないんじゃないかと思う。自分を背徳者だとは思わないが、やはり…何かに背を向けている様な、そんな感じはしているんだ。」

「お前は、自分に背を向けてんだろーが。“信じてはいねぇ”って言葉が、何で“疑う”って事に直結すんだ?俺は疑った事はねぇぞ。」

「???何故だ?分からない。信じてない事が、疑う事にならないなら、それはどういう事なんだ?お前は一体何を言ってるんだ?」

「俺には、お前が言ってる事の方が分からねぇがな。」

 レイの言葉に、カンサが眉間にシワを寄せて首を傾げていると、2人の前に1台の黒いセダン車が止まった。運転席から、キャソックを着た20代前半程の若い、ヒョロヒョロと痩せた、身長170cm程の、肌の青白い青年が出てきた。肌の白さに加えて、対象的な程真っ黒な髪と、自信の無さそうな不安げな表情が、彼の顔色を一層悪く見せていた。

「…お待たせ致しました。…どうぞお乗り下さい。」

 カンサが思わず身を屈める程、青年の声は小さく、黒目はしきりに左右に動き、ビクビクと小動物の様に震えていた。

「はい、ありがとうございます。」

 カンサは努めて、笑顔で優しく青年に言うと、カンサとレイは車の後部座席へと乗り込んだ。助手席に乗っていた、モニカが後ろに顔を向け、明るい笑顔で2人に言った。

「お待たせ致しました。町はここから車で1時間程で着きます。」

 モニカがそう言っている内に、ショーン司祭が運転席へと座り、ドアを閉めた。

「…それでは、出発いたします。」

 そう言って、青白く細い腕でハンドルを握ったが、その手はブルブルと小さく震えていた。

『大丈夫か?』

 とカンサは内心思ったが、穏やかな笑顔をつくると、前に座っている2人に向かって頷いた。ゆっくりと車は走り始め、森の細い道をなめらかに進んでいく。他愛の無い話をしながら、1時間のドライブを4人は過ごしていた。しかし、話の大半はモニカのダニエル司教との、昔の思い出話で、ショーン司祭は黙々と運転に集中し、レイはたまに話しに相槌のような返事を返していたが、殆どは窓の外を眺めていたし、専らカンサがモニカの話に相槌を打つという具合だった。そうして、車は町の入り口へとたどり着いた。車を止め、サイドブレーキをかけると、ショーン司祭が後ろを振り向いて、カンサに言った。

「…それでは、わたしは仕事がありますので、一度教会に戻ります。…3時間後に、またここに車を止めて待っていますので、…それまでお買い物をお楽しみ下さい。」

「はい、分かりました。3時間後にこの場所ですね。ありがとうございます。」

 3人が車を出ると、車はまたゆっくりと走り始め、森の奥へと走り去って行った。

「帰っても、1時間しか仕事が出来ないのに…悪い事をしてしまったな。」

 走り去る車を眺めながら、カンサがそう言うと、モニカが穏やかに笑って答えた。

「大丈夫ですよ、ショーン司祭はシスター・ハンナが町に買い物に出た時も、あんな感じですから、お気になさらないで下さい。それより、町を案内致しますね、どうぞ。」

 モニカはそう言って、笑顔で先頭を歩き始めた。モニカはシスターから渡された、リストの紙を片手に、町のあちこちをカンサ達に説明して歩いた。ジェンナといた町よりは大きく、都会的で町の住民も多く、町は賑わっていた。

 3人が揃って町を歩いていると、かなり人目を引いている事に、カンサは気がついた。町への買い出しは、シスター・ハンナに任せて、あまり出ないと言っても、町の住民はモニカが教会の人間である事を知っている、そのモニカが見栄えのする、大柄な男2人を連れて町を歩いているのである。住民の興味は一身にモニカへと注がれていた。それが、果たして良い事なのか、悪い事なのか、カンサには分からなかったが、町の男達がかなりカンサとレイに注目している事にも、カンサは気が付いた。モニカと同じ年頃の、若い町の青年達である。それを見て、カンサはひょっとすると、これは良かったのかも知れないと思えて来た。町の娘達と比べても、モニカは美しく、上品で、知性的で、ダニエル司教が手塩にかけて育てた事が分かる。町の青年達の反応を見て、モニカがモテている事が、カンサ達に向けられた目を見てカンサは分かった。モニカが拒否しなければ、ダニエル司教のモニカへの願いは、達成し得るとカンサは確信した。

 シスター・ハンナから財布を渡されていたカンサだったが、カンサは初めから財布のお金を使うつもりは無く、買い物は全てカンサの財布から出していた。それを知ってか知らずか、レイは次から次へと、ベーコンや牛肉の塊を店員に注文していた。

「おい!買うのはいいが、シスターが調理するんだぞ?あまり食材が多過ぎても、迷惑だろう。」

「あ?平気だろ。好きなもんは買って来いっつってたじゃねぇか。あのシスターなら、喜んで調理すると思うぞ。お前は人の喜びが分かってねぇーんだよ。」

「………。」

 思い返せば、教会で食べた食事は肉類が無く、司教の歳を考えての事もあるだろうが、質素で慎ましい教会の生活に、レイが次から次へと選んでいく、魚や肉、フルーツに野菜といった色鮮やかな食材は、確かにシスターを喜ばせる事が出来るかも知れないと、カンサは思った。大きな男2人が、次から次に買い物をしながら、荷物を抱えていく姿は、モニカには珍しい光景だった様で、始終楽しげにカンサとレイを眺めていた。

「あ!わたくし、ダニエル司教からインクを買って来るように頼まれていたのでした。店は向かいのあそこなので、わたくしちょっと行って参りますね。」

 モニカはそう言って、小走りに向かいの文具店へと向かって行った。カンサが、モニカが店に入って行くのを見届けている間に、レイが次の店に向かって歩いていると、レイの目の前に1人の青年が立ちはだかった。

「あ?何だお前。俺に何か用か?」

 レイの声にカンサは気が付いて、レイの方へ目をやると、30代前半程の青年が、眉間にシワを寄せてレイの前に仁王立ちで立っていた。体格の良い、180cm程の背の高い、賢そうな、好青年の様だとカンサは思って、レイの後ろで黙って様子を見ていた。

「お前等、見ない顔だがモニカさんとは、どういう関係なんだ?」

 青年は低く発生の良い声で、見た目も態度も威圧的なレイに対し、青年は怖気づく事無く、勇敢な態度で質問した。それを聞いて、カンサはピンと来た。これはいいチャンスかも知れないと思い、間も無く帰って来るモニカに、一芝居見せてやろうと、カンサはレイに耳打ちをした。

「レイ、お前が彼に決闘を申し込んで、モニカの前で負ければ、モニカは彼に好感を持つかも知れない。」

 レイはカンサの言葉に、片眉を上げてやれやれという風に溜息をついた。

「つくづく分かってねぇんだよな、お前って奴は。全てが逆なんだよ。」

「は?」

 カンサがレイに質問するより早く、レイは目の前の青年に向かって言った。

「チラチラ様子を見るだけの男共に比べて、俺にケンカ売ってきた度胸は認めてやるよ。その度胸に免じて、お前にチャンスをくれてやる。後は、自分でもぎ取りやがれ。」

「は?」

 状況が飲み込めないカンサを他所に、レイはモニカが店から出て来たのを、チラリと横目で確認すると、突然青年の腹に向かって勢い良く拳を入れた。青年は軽く浮き上がったかと思うと、間もなく地面に倒れた。モニカはそれを見て悲鳴を上げた。

「はぁっ?!!」

 レイの行動に、一瞬で顔が青ざめ、青年に駆け寄ろうとしたカンサを、レイはモニカから見えない角度から、カンサを制した。

「????」

 モニカは慌てて青年に駆け寄り、いたわるように青年の肩を支えると、厳しい表情でレイに問い詰めた。

「レイ様!一体これはどういう事なのですか?!」

「あ?こいつが肩にぶつかって来たんで、腹が立ったんだよ。」

 『不良かお前は?!!』

 カンサはそう思いながらも、一言も口が挟めず、黙って事の成り行きを見届ける他無かった。

「……わたくしは、この方を家まで送って参ります。カンサ様はレイ様を連れて、ショーン司祭の待ち合わせ場所まで行って、そこで待っていて下さい。」

「……承知しました。」

 カンサは、レイの後ろから顔を出し、歯切れの悪い返事をした。

 モニカは青年に優しく、立てますか?と声を掛けながら、青年を支えて立ち上がると、カンサ達に背を向けて歩き始めた。カンサは呆気に取られたまま、モニカと青年の2人の背中を見届けていると、青年はチラリとレイの方へ目配せをして、ニッと笑った。どうやら、青年にはレイの意図が分かっていた様だと、カンサは整理のつかない頭でそう思った。2人に声が届かない程に、距離が取れた事を確認して、レイはくるりと後ろのカンサに向き直って言った。

「あの女の行動基準は、“善行”なんだよ。俺があの女の目の前で倒れたところで、女はあの野郎には目もくれねぇんだよ。大体なんで俺があんなクソ野郎に、負けてやんなきゃならねぇんだ。お前はちったぁ人間を学べ、バァーカ。」








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