10/23 Touching the Void
自分の記録+整理のためにnoteをたまーに書いているのですが、文章を書くことに不慣れなので舞台の感想と最近考えてることがごちゃ混ぜスタイルになっています。前半はNHKスペシャルに関する所感を書いているので、舞台の感想だけでも読もうかな〜って思ってくださる方は見出しから飛んでいただけると助かります!
2024/10/20から
10月20日。海に沈むダイヤモンドも観たいな、と思いつつNHKスペシャルをリアタイした。新会社が発足し体制が変わったことを踏まえ、NHKへの新キャスティングも再開されると発表されていた。
NHKは元々いろいろ観ていたけれど、最近ちょこちょこ見始めていたドラマが本当に面白くて、たとえばカムカムも、あなブツも、もちろんすべてが満ち足りたとはいえなくとも、確かに私にとって感動や発見があって、こんな作品に好きなアイドルが出てくれるのはうれしく、再開に少しばかり心が躍ったことは間違いなかった。
けれどどこかで、「本当に一区切りでいいのかな」という気持ちはあった。この問題に関してはさまざまな論点が混在している(し、恐ろしいほど偏見や差別が平気でおすすめ欄に流れてくる)けれども、私個人として一番大切にしたいと思っていたのは、個人の犯罪/ハラスメントがたとえ発生してしまったとしても、「それをきちんと速やかに抑制するために社会や組織の構造はどうあるべきか」ということを考えることだった。
率直に言うと、その論点からいえばNスペはやはり物足りないな……という気持ちになった。違う部分に関しても、例えば構成が個人のインタビューの数珠繋ぎの構造になっていて、時々インタビュアーの質問の意図が透けて見えるけれどもそれを決して明言化して説明せずあえて曖昧にしている部分なども(おそらくやや過敏な節もあるとは思うが)気になった。さらにいえばインタビューされる人々の発言ひとつひとつに触れるたび、その危うさをあえて言外に滲ませてくるたび、この人たちは適切なケアを果たして本当に受けられているのか、と不安にもさせられた。ジャニー氏の生育歴から性的嗜好を辿る部分も、精神科医などの専門家の監修が果たしてあったのか(しかしそもそも個人の診察を伴わず伝聞のみから精神病態を診断、一般化するのはあまり望ましくはないとも思う)。そんな様々なことを考えながら見ていた。
なにより「こんなことはひとりでは続けられない」と様々な人が話しつつ、どうやって会社のみならず社会で抑止するべきだったのか、なぜこのような問題が捨て置かれたのかという問いに対してNHKが自社内のインタビューで出してきたのが、「だれも背景を特定はできなかった」「けれど個人名があがった」という結論のみであったことに物足りなさがあった。もちろんその個人がSTARTO社内にいまは招かれているという事実を出したこと、ひいては会社がこの問題にどの程度思考を巡らし、責任を果たしているのかを再度考えるべきと改めて提示したことは大切だとも思いつつも、なにかハラスメントがあったときに、果たしてこの会社、業種、社会は間違いのない抑止の仕組みを構築できているのか、あるいは今後構築できるのか、不安になった。そして最後にあの本部長の電話対応を聞き、被害者補償の最前線にいる人がこの心情で働いていること、それをこのような言葉でぶつけてしまえたことにかなり気持ちが落ち込んでしまった。
Nスペでは「売れるから」「見てもらえるから」「引き上げると言われたら手がだせなかった」と語られていた。資本主義の前に正義は歪む。だからこそ司法があるという意見もわかる(けれどそれがかなり偏った立場で発言されるのも時々辛い)。
でもやっぱりさ、こんな発言をするような倫理観が当たり前にまかり通っているのならば、そんな会社の商品を買いたいと思うこと、ものすごく苦しくなっちゃうよ。ってその日はすごく思った。
もちろん出されているエンタメにも、タレントにも現場で働く人たちにも決して罪はなく、その中で同調することを(二次加害となりうる要素がないかぎり)責める理由なんて全くない。もっといえばあくまで賠償会社でいまは切り離されており、現会社を反映しているわけではないともいえるかもしれない。けれどもCDを買う、雑誌を読む、ドラマを観る、舞台に出かける、ライブに参加する、そういった全ての消費がこういう結果を(遠因として)生んでいるという提示をされているように感じ、だとしたら私たちの立場からその仕組みを整えるように働きかけるためできることってなんだろう……。
ここまで考えても、私は私の欲に弱くて、好きなアイドルが歌って踊るのを見たいし、演技をするのを見たいし、ライブにも行きたい。アイドルが好きだから。そう思ってしまうのが、たまらなくなってしまう。エンタメを楽しむことが悪いわけじゃない。私たちがアイドルを応援することが悪いなんてことはない。だけどすごく苦しい。
touching the void観劇
そんなすっげ〜しんどい気持ちになりながら、タッチングザヴォイドを観てきました。応援したいのに消費するのが怖くてでもエンタメに触れたいというはちゃめちゃな矛盾を抱えてみる登山舞台。
ここは素直に感想を書いていきます。
あらすじをほぼ読まずに見始めたので、「ジョーの自伝が原作のはずなのに、ジョー死んでる……?」っていう導入にまずびっくりした。正直なことを言うと、「登山」「遭難」「自然との対峙」って私にとっては対面することも、選択することも基本的にはないテーマなので、どの程度舞台に入り込めるかな……みたいな不安もあった。
けれど一幕の導入からものすごくよくて、死んだジョーが愛した登山の魅力を理解できない姉のセーラに語るサイモンの説明が徐々に具現化し、一気に実際にクライミングをはじめていくところとか、現実と記憶、夢と現実をシームレスに行き来して行く構成があまりにもうますぎてぐっときた。
正門くんはなかなか出てこないな〜と思ってたら会話にさらりと参加し(体が分厚くてびびった)、早速登山をなぜしないのかをむしろ疑問に思い、死への恐怖よりも登山へのよろこびを重視している一種addictしている人として登場してすごく圧倒された。なんかでも(割と反社会性のある行動もしているので)全然正門くんじゃないけれど、その大切にしていることへの徹底的なこだわりがどこか本人と似通っている気がして面白いな〜と思った。
一幕は中盤からとにかく痛くって、やめてよ、痛いよ〜って結構必死になってる自分がいて、それってすごすぎるが!?って観ている最中に気付いてびっくりした。だって舞台には骨組みと紙で表現された岩壁があるけれど、正門ジョーはただそこに捕まりながら演じているだけで、本当に折れている様子を直接映像で見ているわけではないのに、痛みの台詞のシークエンスをくらうととんでもなく痛かった。その没入感って……すごい。舞台として、演出演技がよすぎる。あと一幕で思っていたのは、ひとつひとつの場面がどこを切り取っても綺麗で、セットの切り替えも背後からライトで照らされる中ゆっくりとそびえたつ山の岸壁が美しかったな……。
ラスト、ロープを切るか切らないか、極限のなかロープを切るサイモン(これは後で調べたけれど、やはり二人の精神にしっかりと影を残したらしい)で終わり、え……二幕なにするの?って思いながら休憩に入った。
二幕はものすごくシンプルなステージで始まって、この前半のジョーとセーラの会話のシークエンスがものすごくよかった……。ひとり孤独なジョーが、実際に独白しながらじわじわとステージ床の上を這う演技もものすごくよかったし(正門くんは一人舞台とかも見てみたい)、自分のもうひとつの人格、思考の化身としてのセーラとの会話のシークエンスもすごくのめりこめた。ストーリーとして二幕はそこまで動きがあるわけではなく、美しい自然の風景を舞台で当然見せられるわけもなく、しかも極限の人間が思うことって究極にシンプルで、ともするとテンポが鬱滞しそうなところなんだけど、ずっと息を飲んで見続けられていた。
二幕は途中で「自分の葬式の夢を見ていたジョー」という説明が入って、実はこの舞台は最初からリアルタイムの場面なんてなく、今この時点のジョーの持つ記憶か夢かでしかなかったことが明かされるのもうますぎた〜。舞台だからこそできる違う時間違う世界を並列にならべる演出だいすき。
精神描写は、正直なこと言うとそんな状況は想像すらできず、共感なんて遠く烏滸がましい感覚がした。ただあれだけ死ぬのが怖くないと言っていたジョーが死にたくない、死ぬのが怖い、このままここで数日経つくらいなら進む、やっぱり死にたくない、動けない……って矛盾を平気で内包し(時にセーラと言い合いながら)進むのが、理性的であるなんて時と場合が許すときの権利でしかないなあと思わされた。
ラストはどう終わるのかな……と思っていたけれど、おお〜潔い決着だったなと思った。あの瞬間のサイモンの感情って筆舌に尽くしがたい気もして、田中亨さんの表情をもっとちゃんと双眼鏡で見ておけばよかった…といまは悔いている。
メイン4人でほとんど回していたけれど、キャストさんの演技の質感がすっごくバランスがよくて、そこも没入しやすい舞台で本当によかった。古川琴音さんの舞台初めてなんだけど、映像作品では想像しえないくらい言葉の力強さも軽快で体を大きく見せるような動きも、腕の筋肉もぜんぶかっこよくてやっぱりめちゃくちゃすきだ〜と思ったし、田中亨さんはジョーとの対比としてフラットでさらっとしているんだけど、綺麗な台詞さばきとテンポ感で観ていて気持ちよいお芝居だったなと思う。あと浅利さんはほんっっとやばすぎる。ストーリーテラーとしての安定感、コメディのバランスの良さ、仕事量の多さ(ものすごい数の段取りしてた)、二幕でギターと歌い出したときはうますぎてお手上げだった。
正門くん。ちゃんと演技を観るのはほぼ初めてかも〜って改めて反芻してるんだけど、先程も書いた二幕の前半、ひたすら一人孤独に進むところがやっぱり特にすごくよかった。PARCO劇場のステージってすごく見やすくて、その広いステージにひとり倒れて、ひたすらじわじわと動きながら演技をするってともすると観ている人からする集中がぷつりと切れちゃうかもなのに、全然そんなことはなく、痛みと苦しさを与えてくる演技をしていてすごくよかった。あととにかく本当に疲れそうな舞台なのに終始演技が生き生きしてて、声も通るし(最後の掠れ声も、掠れているのに確かに存在感がすごくあった)、めちゃくちゃ舞台に向いている人なんだ〜!ってしみじみ思った。
久しぶりのストレートプレイだったけれど、本当に良質な舞台だった。テーマが自分の興味のあることではなくても、共感共鳴をしなくても、舞台の巧みな構成や美しさや演技に触れると、その瞬間その空間への没入力がものすごくって、やっぱりそこにエンタメの力があるなと改めて感じた。
最後に
矛盾する感情を持ちながら(それをあまり捨てたいわけではない)、今日観た舞台も本当によかったな、と思いながらこれを書いている。
少し話は変わるけど、以前友だちとこの事務所は本当に舞台がたくさんあるって話をしてて、それってかなり豊かなことだな〜って思ってる。私は初めて自分の意思で舞台を観たのってたぶん22歳はとうにすぎてたし、なかなかチケット取るのも腰が重かったりしたけれど、アイドルが好きだともっと早くもっと軽快にそのエンタメに触れる可能性が生まれるわけで……。タレントパワーで配役することは賛否両論かもだけど、普段は積極的には選択しないようなエンタメを通して、新しい価値観、知識、舞台演出のうつくしさに触れる機会が多いのって豊かだし、本当にアイドルの力だなあと思う。
なにより平日の大箱劇場を満員御礼にできるのってめちゃくちゃすごいことだと思うんだよな〜。平日の舞台って人気作家演出家でない限り本当に埋めるのが大変なことも多いなあと感じることがやっぱりあるからこそ、予算の目処を付けつつさまざまなジャンルのエンタメを作ることができるのも幅が広くなりうるからこそいいな〜とかしみじみ思ったりもした。結局のところ、消費が生む豊かさもあれば、それが暴力的な装置になってしまうこともあるって改めて考えた3日間だった。
いまのわたしはどうしても、今持っている好きを信じたくて、だからこそ一消費者としてせめて書き残しておこうと思う。企業として、また未成年も所属する機関として、適切な教育、適切なケア、そして適切な第三者の監視とフィードバックによる改善を重視してほしい。私は世の倫理に照らし合わせその都度向き合いながら、決して二次加害となるような発言をしないようにしていきたい。
そんな日記。
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