【4話】せめてウサギは逆しまに【ディストピアSF小説】
「ぶ、ぶちょーですか!偉そうな感じですね」
「いえいえ。気さくな方ですよ。そう固くならずに」
案内役は扉をノックし、挨拶をする。
部屋の中から返ってきたのは、テンションの高い声だった。
「失礼します」
「し、失礼しま~す」
案内役が部屋の中に入り、遊沙もおずおずと後に続いた。
分厚い扉の奥は、二十畳ほどの部屋になっていた。
赤い絨毯に、木目の綺麗な壁。硝子のテーブルに黒塗りのソファが高級感を感じさせる。街を臨む方向は全面ガラス張りになっている。
ガラス壁の前には立派な机が置かれており、仕立てのいいスーツを着た男が机に着いていた。
「ようこそ、いらしてくれました!」
スーツを着た男性が、立ち上がって遊沙を迎えた。
一音一音にお金を取られそうなテンションの高さだ。
「は、はい!いらしました!」
「ははは、面白いお嬢さんだ。こっちに来てください」
「は、はい!」
素晴らしい室内。ウツクシイ街の眺め。尊大な仕事相手。
漂うビジネス!という匂いに、遊沙は自分がデキル女の様な気分になってきた。
「そ、そうだ!書類!?」
しかし現実は確認するまでもない。
遊沙の手にある書類は半分に裂かれ、損壊していた。
「あわわ……どうしよう」
「どうしました?」
「え?はは、はい…実は途中で、変な男に襲われて、封筒がお亡くなりに……」
遊沙は頭を下げ、真っ二つになった封筒を差し出した。
「ふむ」
吉見は封筒を受け取り、書類を取り出す。
遊沙は目を伏せ、『バイショーセキニン』とか言われませんようにと、顔も見た事もない何かに祈った。
「ありがとうございます。いつも苦労をかけますね」
「へ?」
拍子抜けな事に、吉見からは柔和な笑みと感謝が浴びせられた。
困惑する遊沙を他所に、吉見はクリップを外して書類をゴミ箱に捨ててしまう。
「え?へ?捨てちゃうんですか?」
「おや?ウサギさんは、システムを理解してないんですか?」
「しすてむ?」
「ふむ……使い捨ての素人、という訳ではないと思いますが…まあ、フクロウさんは寡黙ですし、説明の抜けですかね」
吉見は遊沙を値踏みするように眺めていく。
この世の全てに値段を付けてしまいそうな視線に、遊沙は身を捩らせた。
「部下の話では、ディアスと接触したようですし、期待の新人でしょうか。それなら、話しても大丈夫ですかね」
「ディアス?」
「刀を持った、青い外套の男ですよ」
「ああ、アイツ!アイツヤバい!」
遊沙はいきなり襲い掛かってきた男を思い出し、身を捩じらせる。
「ヤバいなんてもんじゃ、ありません。凄腕の殺し屋ですよ」
「有名なの?」
「何人も業者が殺されてます」
「殺され……」
「あいつと、あいつの所属する『青き光』のせいで、少なくないビジネスが難航してるんです。困ったものですよ」
あるワードに反応して遊沙の表情が変わった。
その事には気付かず、吉見は肩を竦めた。
「殺し屋が出張るほどの仕事……」
確かにディアスはスラムで見てきた奴と比べても、随分と狂った奴だった。
どんな正義だって、どこかに悩みを抱えている。
どんな悪魔だって、どこかで破綻に気付くのだ。
そうでなければ人間でなく、人間でなければ善も悪もない。
だって日照りの中に降る恵みの雨は、雨自身が良い事をしようとして降ったのか?
だって人を躓かせる路傍の石は、石自身の意図によって人を傷付けるのか?
どちらも否だ。
雨はただ降り、石はただ在る。
あるがままのそれらを有難がるのも、疎ましく思うのも人間の勝手だ。
揺らがず、揺るがず、緩めず、緩まず。
絶対的で、圧倒的で、高圧的で、恒常的。
雨や石と同じに偶々そこに在るだけの善なんて、神の所業にも他ならぬ。
「でも、ウサギさんはそんな凄腕の殺し屋を振り切って、仕事を完遂してくれました。いや〜!助かりました」
「でも書類がダメになったでしょ?」
「書類なんていいんですよ。大事なのはクリップですから」
「クリップ?」
「ええ。貴方達は『クリップ屋さん』でしょ?」
「あ~、そーですね」
吉見は書類から外したクリップを手に載せ、遊沙に見えるようにした。
「縁が赤いのが一千万。縁が青いのが百万です」
「はぃ?」
普通のクリップに色が縁取りされ、読み難い字で番号が書いてある。高そうな素材という訳でもないし、宝石の装飾も見当らない。
「……『特殊商品』」
「ははは」
遊沙の頭の奥底が、そんな言葉を吐き出した。
『特殊商品』とは、いうなれば裏の通貨だ。電子マネーが主流のこの国では、買い物は電子的な記録に残る。現物貨幣で取引をした場合も、全て記録を残さなければならない。
しかし企業には、『記録に残したくない売買』が存在する。裏金作成であったり、違法な取引であったり、禁止商品売買であったり。国に見付からない様にそれらを行う為には、『貨幣』を使わぬやり取りが必要となる。
かといって貨幣を介さぬ物々交換や与信取引など、今の人類には無理な善行だ。そこで出てくるのが『特殊商品』。特別な『店』にお金を入れ、その範囲内で『通貨』を取り扱うのだ。
つまりはA,B,Cという者が1億、2億、3億と『クリップ屋』に入れたとする。そうすると、6臆のマネタリーベースが発生する。で、A、B、Cは入れた金の1億、2億、3億分のクリップが配られ、其々がクリップを介して商取引をする。
『クリップ屋』が信用創造を行うのなら、マネーサプライはもっと大きいだろう。
そして多分クリップ屋は、やり取りの管理だけでなく、その他の仕事もしている筈だ。
例えばAに対して国から現金精査の査察が入るという情報を受ければ、Aに一億を貸し戻し、帳尻を合わせたりもするだろう。
相当に『信頼』の要る仕事であり、国と真っ向から相対する犯罪だ。それを相良コーポレーションと密に行っているクリップ屋は、遊沙が思っていた以上に『ヤバい』店だ。
「騙された……なんで確認しなかったの……」
「どうしました?」
「いいえ、独り言」
「そうですか。独り言は大事です、ビジネスにおいては特に」
「…ビジネスは分からないけど。これは、貴方個人の仕事?」
「ご想像にお任せします」
吉見の手には赤いクリップが五個、青いクリップが五個載せられている。こんな鉄の塊で五千五百万の価値だという。体中の血が冷える気がした。
「私の想像力では、何が起きているのか分からない」
「いい回答です」
吉見は遊沙の複雑な表情に満足そうに頷く。
そして、入り口付近で遊沙を眺めていた案内役に命じた。
「これでビジネスは次のステージに進みます。交響大の皆さんを呼んでください」
「え?……あ、分かりました」
「……大事な取引の最中に、気を切らないで下さい」
「す、すいません!直ぐに呼んできますから」
吉見に睨まれた案内役は、大慌てで部屋から出ていった。
「本当、あの方の趣味は分かりませんよ」
吉見は大げさに肩を竦めると、懐から一万円を取り出して遊沙に握らせた。
「さて、貴女はよくやってくれました」
「え?」
「これは新人さんの就職祝です。今後ともご贔屓に」
「は…はい」
遊沙は無意識に差し出された一万円札を握っていた。
「ではまた」
「……はい」
ポンコツになった頭は事態に追い付けず、促されるまま部屋を出てしまった。
暫く勇気のように歩いていたが、じわじわと自責の念が沸いてきた。
ああ、馬鹿か?馬鹿なのか。
この金を受け取る意味を、自分の頭で考えたか?
いや、問題は一万円を受け取るかどうかではない。この仕事を請け負った事自体だ。
いや。最早、その意味を深く考えてはいけないと、防衛本能が言っていた。
「あ……ぅ……」
だって、それは遊沙が壊れた原因に繋がる正義感だ。
「ぅ……う……」
吉見の言ったことはつまり、どういう事なのか?
自分のしたことはつまり、どういう事なのか?
考えるまでもなく分かっている。
沢山の人が関わり、沢山の人の幸福が踏み滲られる『大きな犯罪』に手を貸したのだ。それも阿呆のような顔をして動き、知らぬ間に銃弾を吐き出した。
今届けたクリップは多くの命の代価であり、また、あれのせいで人が死ぬのだろう。
「ああ、もう最悪……どうせなら、バカな私のままでよかった」
目の前で誰かが死んだ訳じゃないんだから、大袈裟に考えなくてもいいじゃないか。今回死んだであろう人は、誰一人として顔も知らないんだから、嘆く事なんてないのだ。
血管に打ち込まれた麻酔のように、そんな言葉が血と巡る。
「そんな事で誤魔化せるなら、私はもっと賢い子に成れたわよ!」
遊沙は叩き付ける様に言って、スラムのどこにも必要ない高価な絨毯を踏み付けた。
「ん?」
遊沙は暫く途方に暮れていたが、廊下の向こうから誰かが走ってくるのが見えた。
下卑た笑みを浮かべて近付いてくるのは、案内役の男だ。
「いや~、ウサギさん。まだ居てくれましたか!」
「はぁ…」
「本当に良かった。あーそう言えば、吉見部長から一万円もらったかい?」
「知ってるんですか?」
「あの人は、良くそういうことをするからね」
案内役は、仕事中とは打って変わって馴れ馴れしく絡んでくる。
いや、へらへらと笑う遊沙は気にしていなかったが、この男は最初から底意地の悪さが滲み出ていた。
仕事の中での役割を終え、体臭を隠していた仮面を落としたのだろう。
「もう少しさ、出そうか?」
「はい?」
「だからさ……?一万円より多く、さ」
案内役は遊沙の右手を両手で握ると顔を寄せ、下心を隠し切れない笑みを浮かべた。
「下の階に休憩できるところがあってね。そこに一緒に行かないかい」
(こいつは……)
「謝礼は出すから、ね?家買いたいんでしょ?なら、お金要るよね!」
スラム育ちなんだし、売りは初めてじゃないでしょ?だの。
自由に使えるお金は沢山あるし、今日だけじゃなくてもいいんだよ?だの。
てんで勝手な事を捲し立てる。
遊沙は臭い息に顔を顰めるのも忘れ、男を眺めていた。
誘いの時点で、男のマスターベーションが始まっているのか。
何を誤魔化そうが醜悪さの滲み出るその言葉。
女性として未熟な部分をねめつけるその視線。
馴れ馴れしい態度は、理由もなく自分が優位だと信じている故らしい。
いや、確かにこの生物は上級街に於いては強者なのだろう。相良コーポレーションという国を代表する企業の一員なのだから、遊沙では及びもつかない『偉い奴』なのだ。
(ああ、でも、吐きそうだ)
蹴り飛ばしても、いいんじゃないか?
身体能力差を考えれば危険はないが、客観的に見れば自分はピンチである。ならば分かり易い目の前の悪に、八つ当たりしても許されるのではないか?
―――そんな風に考えた瞬間だった。
「っ!!?」
強烈な怖気が立ち、遊沙は大慌てで顔を上げた。
「どうしたの?あ、トイレ?一緒に行こうか?」
目の前の変態のせい……ではない。
遊沙の感覚に訴えかける危険は、廊下の向こうから近付いてくる。
「……あいつら?」
廊下を曲がってくる集団は、スーツを来た女性とそれを取り囲むボディーガード達。そして、後ろを歩くゴスロリ姿の双子で構成されていた。
「グレース姉妹!?」
ゴスロリ姿の双子は、スラムでも有名な殺し屋だった。
いや、殺し屋というより、惨殺屋。金さえ貰えば軍隊だって襲う、本物の狂綻者だ。
「それでだね―――」
かいがいしくおぞましさを吐き出す変態は、一団の接近に気付かない。
目の前の獲物?をどう食べるかしか考えていない集中力はある意味で尊敬できたが、今発揮すべきではない。
「うるさい豚だね」
「ぎ!?」
「ふぇ!?」
スーツの女性は遊沙達の近くで立ち止まると、案内役の後頭部を木刀で殴りつけた。
「痛つ…いだ……!」
遊沙ですら呆然とする、突然の暴力!
何が起きたのか分かっていない案内役は、床にうずくまる。グレース姉妹は案内役の脇に立って妖しく笑い合うと、自分達の『外部装置』のスイッチを入れた。
「自慰行為を撒き散らすのは」「あまり見たいものではなくてよ」
「っ!?ぐ……ぎ……!!?」
途端、案内役の体が音を立ててひしゃげた。
「ひ……ひ……」
「お逃げなさい」「醜い心を隠すように」
「た……助け……」
絨毯の沈み込みがすぐに消えたのを見るに、外部装置の圧力は一瞬だったのだろう。
脅し程度の拘束だったが、案内役は腹を撃たれたかのような慌てぶりで逃げていった。
「こんにちは」「ごきげんよう」
「………こんにちは」
グレース姉妹は案内役を見送ることもなく、遊沙に微笑みを投げた。
むわりと血の匂いを嗅いだようで、遊沙は顔を顰める。
「なんだい?子供が入り込んでるのかい?」
遊沙がグレース姉妹に警戒を見せていると、木刀女が遊沙に吐き捨てた。
女は背が高く、赤い長い髪をしていた。綺麗な顔立ちをしているが、纏っている雰囲気は堅気の物ではない。
「子供じゃありませんよ~だ」
「……そうかい」
女は遊沙の態度に目を細め、周りの男に指示を出した。
「言葉遣いが気に入らないね。その餓鬼に礼儀を教えてやれ」
「は!」
「ふぇ?」
女の命令に従って、男達が戦闘態勢を取った。
「なんなん!ここは綺麗な上級街でしょ!」
突然の戦闘開始に、遊沙が悲鳴を上げた。
「確かに、ここは綺麗なおべべ着た奴が行きかう上級街さ。それでも、私達もアンタもどぶ川に住む側ってことさ。なら、相応の挨拶があるだろう?」
「私は、どぶ川に住んでない!変なルールに巻き込まないで」
「そんな汚れた服着て、何を言ってるんだい。十分汚れ側さ、アンタは」
「失礼なヤツ!」
遊沙に向かってくる男は三人。
全員ガタイが良く、連携を組んでアメフト選手の様に突っ込んでくる。
「ほちゃあ!」
一番手近にいた一人が、無造作に遊沙に掴み掛かる。
「遅いですよ~だ」
「ありゃ?……ぐは!」
遊沙は男の腕を掻い潜ると、男の脇に右のつま先を叩き込んだ。
靴の先に仕込んだ鉄板が肋骨を折り、肺まで潜り込んでいく。
「こいつ!」
「強いぞ!」
残った二人は、遊沙の実力に慎重になり、突撃速度を緩めた。
しかし、そんな間抜けを晒す時点で、遊沙に追い付ける筈もない。
「ほ!」
遊沙は体勢を更に低くして男二人の足元に潜り込む。
パッシブワンダーを起動しつつ、二人の足を払った。
「ぐ!」
「ぎゃ!」
遊沙が足元に潜り込んだことすら気付かない男達は、無防備に後頭部から落下した。
「なさけないねえ!」
「は?嘘でしょ!?」
男が全員やられたことを確認して、スーツの女が突然銃を発射した。
遊沙は六メートル程一気に後退して、弾丸を回避した。
「なんなんなん!滅茶苦茶じゃない!」
壁と絨毯に穴が開いており、女の撃った拳銃が本物であることを物語っていた。
「なにって、交響大の渚教授だよ」
「名前を聞いてるんじゃない!」
二人は七メートル弱の距離で睨み合う。
渚は遊沙に銃口を合わせ、遊沙はクラウチングの姿勢を取っている。
「あの子」「リングの遊沙じゃない?」
張り詰めた空気の中、場違いなほど嫋やかな声が双子から発された。
「グレース、知っているのか?」
「ええ、渚教授」「スラムの巨大ギャング、リングの斥候ですわ」
「ギャングかい。あんな成りしてね」
「『元』ギャングですよ~だ」
「なんだい?『抜け』かい。にしちゃ、寝ぼけた顔してるね」
「失礼な奴…」
「失礼が嫌なら、ちびっこ様とでも呼ぼうか?」
「お断りですよーだ!」
「噂では」「遊沙は凄腕よ」
「そうなのか?あれが?」
「超感覚」「そういうモノがあったらしいの」
グレース姉妹の口にした単語に、遊沙はピクリと身を震わせた。
「超感覚?なんだ、それは」
「彼女は全ての感覚が優れていて」「一キロ先の埃が降り積もる音も聞こえたそうよ」
「は~、それは本当かい?」
「……そんな訳ないじゃん」
「だよねぇ…でも、噂の元になったものは実際在りそうだね」
渚は頬を伝う汗を感じ、嬉しそうに口元を歪めた。
遊沙は奇襲だった筈の銃撃を回避し、バックステップで六メートルの距離を取った。
後ろ向きでそれだけの距離を取れる以上、クラウチングの力を開放すれば今の間合いを一瞬で殺せる事を意味する。
七メートルも距離が有りながら、喉元に銃口を押し付けられているに等しい現状に涎が出る。しかし、遊沙がいくら速かろうが、音速の三倍より速い訳はない。
普通に考えれば、この状況は渚に圧倒的に有利なのだ。
だというのに、頬を汗が伝う。
――撃てば外れ、反撃を受ける。
渚にはそんな確信が在った。根拠はないが原因は分かる。
遊沙の目だ。
あのウサギの様な瞳が、冷酷に、冷徹に、冷血に自分を観察している。
自分の呼吸、筋肉の揺らぎ、引き金に掛けた指、向けた銃口、空気の流れを読み取っている。それどころか拳銃の中のパーツの動きや自分の心まで見られている気がした。
それが事実かは分からないが、見透かされていると感じた以上、迂闊には動けない。
「おしいねぇ。昔はもっと凄かったんだろ?この子」
「ええ。遊沙はある事件がきっかけで、脳味噌を壊した」「そう聞いてるわ」
「脳味噌を壊した?怪我でもしたのか?」
「いいえ。自らの脳味噌に、鎮静剤を打ち込んだみたいよ」「罪の意識に耐えられなかった。そう聞いてるわ」
グレース姉妹が、無遠慮にそんな過去を紡いだ時、
「こいつら!その口を閉じろ!」
「っ速い!」
遊沙は、怒り狂う稲妻となっていた。
「くわ!?」
「あらあら」「お転婆ね」
鳴り響く雷轟。出来事は一瞬。
遊沙が一呼吸で距離を殺し、
渚の放った弾丸は床を打ち抜き、
銃を蹴り飛ばされた渚の指が折れ、
遊沙が蹴った拳銃がグレース姉妹へと襲い飛んだ。
「他人が!人の傷に汚い手で触れるな!」
遊沙は鬼の形相で、グレース姉妹を睨み付けた。
雷撃の如くに飛翔した拳銃は、グレース姉妹に達する前に停止していた。
ベルベットムーン。
グレース姉妹の持つ外部装置。周囲に電磁フィールドを発生させ、その中の物体を重くしたり、軽くしたりできる。
「ごめんなさいね」「貴女が可愛いから、虐めたくなったの」
双子はくすくすと笑って頬を寄せ合い、折れ曲がった拳銃を手に取って、地面に捨てた。
「こいつは凄いな。これで全盛を失ったというのかい」
渚は興奮冷めやらぬと言った感じで遊沙に語り掛ける。
「なぁ、小娘。人間は二種類いる。人間を大きく二つに分けるとどうなるか分かるか?」
「はい?」
「いいから、答えろ」
「人間を大きく分けると……死ぬ!」
「誰が物理的に分けろと言った……」
渚が溜息を吐くと、遊沙は不満そうに唸る。
「じゃあ、敵と敵じゃない人?」
「荒み過ぎだろ、お前」
「む~!じゃあ、なに!」
「人を殺せる人間と、殺せない人間だ」
「なに言ってるの!人は誰だって誰かを殺せるじゃない!」
遊沙の間髪入れない反論に、渚は嬉しそうに笑った。
渚は懐から名刺を取り出し、遊沙に投げた。遊沙は反射的に掴んでしまった。
「お前は間違いなく、こっち側の人間だ」
「……全く嬉しくないですよーだ」
「とにかくいい仕事がある。手伝わないか?」
「嫌!」
「ほう?はっきり言うな。儲かるのに」
「企業犯罪とか、自分の手を汚さない悪事って嫌いなの。善人面したお為ごかしもまっぴら!貴方達の仕事って、そういうのでしょ」
「そういうのじゃない仕事など、あるものか」
「あるもん!」
「ほう、例えばなんだ?」
「なにかな?」
「こっちが聞いてるんだ。本当に脳が壊れているな」
「あなた程じゃないですよーだ!」
「私は脳が壊れているんじゃなくて、精神が破綻しているんだ」
「殆ど一緒!てゆーか、自分で言っちゃうの!?」
「一緒ではない。脳とは知性を生み出す器官だ。そして知性こそ人の尊厳、人の誇り。それが壊れているモノが、私を犬畜生の様に言うんじゃない」
「ぶー!」
「まあいい。お前と議論しても何にもならん」
渚は一つ笑うと襟を整える。
仕事モードに戻ると、床でへばっている男達を蹴り起こした。
「おら!シャキッとしろ!これから商談だろうが」
「へ…へぇ、姉御……」
やれ情けないだの、やれ役に立たないだの、渚に罵られながら、男達は大慌てで佇まいを正した。
男達のてんやわんやを横目に見ながら、渚は遊沙に念を押した。
「何かあったら、連絡位欲しいね」
「私の人生は『何か』に満ち溢れてるんで!一々連絡しないです」
「ギャング抜けたんだろ?これから大変だぞ」
「……ずるい」
「で、その名刺をどうするんだ?突き返すか?懐に入れるか?」
「…名刺は貰う!貴女の仕事はしないけど」
「ああ、連絡待ってるよ。格安で取引してやる」
渚は後ろ手で手を振ると、男達にドアを開けさせる。
獰猛な顔付きを更に鋭くして、吉見の部屋に入っていった。
「………」
久しぶりに感じた強烈な血の臭い。グレース姉妹から感じた生臭さは、掻き消え、渚の獣臭に書き換えられた。
グレース姉妹は何百という人間を殺しているだろう。だが木刀女は何万という人間を殺している筈だ。
勿論、間接的な虐殺であろうが。
「薄汚い私…………あの人達も、私の関わった仕事の関係者だよね……」
遊沙は名刺をポケットにしまい、代わりに一万円札を取り出す。
紙に描かれた偉い人は何も言わない。一万と書かれたこの紙が百円ぐらいの価値になったら、私は自分を許せたのか?
そんな阿呆な事を考え、手は汗ばんでいった。