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【5話】せめてウサギは逆しまに【ディストピアSF小説】

第二章『リング』

「こんな大きな仕事だなんて、聞いてなかった!あのクリップだけで、ご、五千五百万の受け渡しだなんて!」

暗い室内に、遊沙の怒鳴り声が響いていた。表情の読めないフクロウはただ座り、静かに呼吸を繰り返す。

ここはクリップ屋の狭苦しい一室。運び屋の仕事を遂行した遊沙は、帰るや否やフクロウに詰め寄り、長い事鬱憤を吐き出していた。

「額の大きさなんて、仕事に関係ありません。やることは簡単だったでしょ?」
「それは私の関わる部分が少なかっただけで、裏には沢山の血が流れてるんでしょ!」

フクロウの言葉に対して、遊沙は真っすぐな怒りを吐き出した。
それはフクロウが驚くに値する返答だった。
安い言葉で言ってしまえば、遊沙は『悪に対して憤っている』らしいのである。

「流れた血なんて、無視すればいいんです。ウサギさんがやった訳じゃないんですから」
「流れる血や涙を、私は、もう無視したくないの!」
「無視したくないって、仕事で流れる涙に、一々全部に反応する気ですか?」
「そうです!」
「無理でしょう…」
「無理じゃないもん!」

遊沙は子どもの様に駄々を捏ねる。
フクロウはあやすのではなく、静々と持論を説いた。

「この世界は皆が少しずつ汗や血や涙を出し合って、大きな流れを作り出しているんです。それが文明であり、繁栄となっていく。それを全て見続け、全ての責任を負うなんてできません。神様にだって出来ないんですから」
「分かってるけど、血や涙はもっと少なくていいでしょ!」
「だから、規模でものを考えるのは止めなさい」
「う……その辺は仕方ないじゃない」
「矛盾してますよ。既に」
「ち、違うもん!『仕事相手が時間に遅れてきた』とかのちょっとの悲しみだったら涙は流れないけど、仕事相手が裏切って一味を全滅させたとかだったら、それは涙!ほら規模が違えば全然違う。矛盾してないもん!」
「この世界の悲しみの全体量を少なくしようと?若しくは、皆で耐えられる範囲で悲しみを分け合おうっていうんですか?どうやって?」
「それは……其々思いやって、です!」
「はぁ……」
「深い溜息吐かないで!」
「まあ、発想としては間違っていませんよ」
「じゃあ!」
「大昔なら、それでいいでしょう」
「大昔?」
「裸で野山を駆け回っていた時代なら、個々の自己保存が第一課題です。労力無くして世界は作られたし、憤り一つで世界を変えることも可能だった。
しかし文明が成長し、世界は大きくなり過ぎました。人々が労力を出し合って作った世界の大きな流れは、今や逆に人々に労力を差し出せと要求しています。軟な人間は大きな流れの維持だけで人生を使い潰してしまう程です」

フクロウは、ゴーグル越しに遊沙の赤い瞳を見詰める。
少女が振り回すのは、青い炎だ。確信も核心もない、現実が気に入らないだけの我が儘。心より感情が優先され、感情が静まれば成りを潜める淡い揺らぎ。

しかしフクロウは少女がそんな理由に身を焦がされていることに、ある種の感動を覚えてもいた。
赤い瞳に、銀髪に近い金の髪、白い肌、十歳前後にしか見えない発育の悪い体。アルビノ程の弱体ではないが、遊沙が弱い遺伝子なのは間違いないだろう。

この少女は、到底スラムを生き抜ける個体ではない。だというのに、実際に彼女は十五歳になるまで貧民街で生存してきた。それもギャングの構成員という危険な立場で。人より弱い体しか持たない少女が、地獄を生き抜いてきたのには、それなりの理由がある筈だ。

罪も犯しただろう。人の闇も見ただろう。
人一倍臆病で、誰も信用せずに突っ張ってきたらしい。

そんな綺麗な道を歩んだ筈のない少女が、皆の涙を止めたいと願っている。
まるで奇跡のような輝きに感じられた。

「貴女がどれだけ嘆こうと、大きな流れは変わりません。私達はそれに乗り、他人の労力をお金に変えていくことしか出来ないんですよ」

しかし、奇跡はきっと続かない。
いつかは彼女の清廉な炎はその身を焼き、どこかでのたれ死ぬ運命を齎す事だろう。
そんな風に感じて、説教が饒舌になっていく。漏れ出る老婆心に、フクロウは自分も年を取ったなと自虐した。

「そんなこと、スラムという人々の陰に生き、ギャングという世界の隅で生きてきた貴女には良く分かっているでしょう」
「分かってる!でも、それが嫌だから、私はギャングを抜けたの!私はもっと人間として生きていたい!」

遊沙は、感情を露わにする。

「誰も傷付けず、誰も悲しませず、誰かの為になって、誰かに褒められて。そういう風に生きたい!それの何がおかしいの?」
「おかしくありません。皆、そう思ってます」
「じゃあ!」
「でも、皆そう思っているから、こんな世界になっているんです」
「それは…!」
「神様はきっとこの世界を完璧に作ったのでしょう。ならば、不完全な人間が必死に生きる度に、世界は一つずつ歪んでいくんです」
「人が人である事が、罪だと言うの!」
「その通りです。人間はとっくにバグっている」
「どうして!」

「神の意思だか生命の神秘だか分かりませんが、それが意図した人の寿命は二十や三十です。それでも動物としては長い方でしょう。しかし実際は六十、七十まで生きてしまう。それは神の設計意図を振り払い、不可侵の筈の領域を犯し続けた結果です。
それが人間の反逆である『大きな流れ』です。それを続ける以上、絶対に種としての無理が生じる。全体としての幸福を上げるために、誰かの人生から一切の幸福が奪われることだってある。生み出されるのは本来自然にある悲しみでは済まない、殺人的な不幸機構です」
「それは……そんなに酷いかな……」

「文明の負債は、そこで生きる中でも特に弱い者によって贖わさせられる。簡単に言えば、上級街の人が幸福に生きるためには、貧民街で苦しむ人が必要なんです。
まあ、そう単純ではありませんが、極限化すれば間違いではないでしょう。そして人間の更に不幸な事には、ウサギさんの様な優しさを持っているところです」
「はい?」

「私の言った種としての歪みを正すには、『全員二十年で死ね』と触れ回らねばなりません。若しくは、過剰に幸福を集めているモノを弱者が結託して撃ち滅ぼすか、です。
でもウサギさんは、他人の不幸の上に立って幸福を享受する人がいたとしても、今を幸福に生きているモノに死ねとは言わないでしょう?」
「う……」

「人は生まれてから死に続けます。無垢に生まれて穢れ続けます。完璧に生まれて老い続けます。生まれたら、ただ落ちていく事しか出来ないのです。翼の無い私達には、仕方のない事です。
でも自然落下で死にたくないから、人を踏みつけて犠牲にして、何とか生きながらえようとする。それは人を不幸にする足掻きですが、咎められるものでもないでしょう」

遊沙は何も答えない。

「勿論、別に全員が無意識に誰かを不幸にしている訳じゃないです。でも、この世界には、確かに誰かを不幸にしようと言う意識がある。魔が差した程度の悪、断罪されるほどではない些末がそれ。一億円の強盗事件が起きなくとも、百万人が千円ずつ誤魔化すのが世の中です。派手な一つではなく、多くの悪意がそれと同等の悪となる。
この世界から涙を消し去りたいなら、全ての人間を断罪せねばならないという事です。
無理でしょう?だから、規模だのなんだの言い出すくらいなら、初めから無力を自覚する方がマシです」

フクロウは親友の忘れ形見を、ジッと見詰めた。
遊沙はフクロウの内心など分からず、負けまいと睨み返す。

「一人で悪いことをしたくないから、皆でちょっとずつルール違反をするんです。愛する誰かを悲しませたくないから、知らない誰かに泣いてもらうんです。この世界に悪人なんて、そういません。そして、善人もいやしません」
「分かってるって、言ってるの!でも!」
「でも?」
「む~~~~!!」
「反論も思い浮かばない状態で、口を開かないで下さい。動物的な反応をされると、私が間抜けなので止めて頂きたい」
「私だって悪い事してるよ。ギャング抜けて、ご飯がないから、万引きしてお腹を満たしてる。でも、それは私一人で背負える罪!誰が悲しんで、誰が私を恨んでいるのか分かってる。そして、私はいずれその罪を償うの!」

遊沙は、自分の手の甲に落としていた視線を上げる。

「今回の仕事は違う!私は、何も悪くない!でも、私は何百人も殺したの!規模でモノを考えるなって?考えるよ!十人死ぬも百人死ぬも同じなんて、平気で言わないで!」

遊沙は正義か悪かで言えば悪だろう。
しかし自分が悪を成したことより、誰かの幸福を壊したことを悲しむこの少女を、誰が責める事が出来よう?

「相良コーポレーションの廊下で、殺し屋を見た。私の前任者が死んだ。部長さんの部屋は、色んな人の血と涙で真っ赤だった。
高い所から見下ろした町は美しくて、小さくて。そこでどんな悲劇が起きているのかも、分からなかった。
けど!色んな事が起きてる!積み上げられた死体の上で、彼らは町を見下ろしてたの!そして、私はそこに立った。数え切れない死体の上に立って、きっと見下ろしたの!」

感情が昂った遊沙の瞳から、涙が零れた。
その涙の意味は遊沙には理解できず、フクロウにも勿論分からない。

「……高い所から見たこの町は、小さかったですか?」
「うん」
「違います。大き過ぎるんです、この町は」
「大きい?」
「人一人が、大きな町を背負える訳がないでしょう。町を作り出した人間という名の化け物は、既に誰の手にも負えません。それに真っ向から逆らおうだなんて、思っちゃいけないんですよ」
「そんなの、誰が決めたの…」
「誰も決めてません」

フクロウは目を逸らした遊沙の頬を見ながら、話を続ける。

「ウサギさんを苛むものは何ですか?貴女を縛る縛鎖はどんな形をしたものですか?」
「別に、サイナマレテナンテないですよーだ」
「……いいですけど、言葉は勉強しましょう」
「む!仕方ないじゃない、そんな機会なかったんだから」

「そうですね。人間の能力には制限が有ります。『学ぶ機会が持てない』というのもその制限の一つです。でも、その制限内だけで生きていける社会じゃないんですよ。無理をして、無茶をして、何とか凌ぐ。その無理は、時に自分も他人も不幸にする。
それを甘んじて受け入れるべきですか?いいえ、避けるべきなんです。愛する人に降りかかるべき無茶の代償を、知らぬ誰かに投げ付けるべきなんです。それを誰も責められない。いや、責められた所でだからなんだという話です。
そんな社会を見て、貴女の正義感は何を思うのかと聞いているんです」
「正義って…私にそんなモノ……」

遊沙は反射だけでもモノを判断しようとしたが、首を振って思い直す。

「……フクロウは、正義ってなんだと思う?」
「それは……私達と対極を成すものですかね?」
「悪の反対?」
「ええ。何かの行為を悪と決める時、自然と悪以外のものが生まれます。それに付けられた名が正義です」
「私はそうは思わない」

フクロウの方を向いた遊沙の目には、僅かに理性の色があった。しかし、その色はフクロウが初めて見るモノだった。

目の前の少女は一体誰だ?
フクロウがそう思う程に、遊沙は別人の顔をしていた。

「苛烈な判断だけが、正義じゃないの」
「人は楽をするものだと?」
「ええ。それでも人は正義を求めなくちゃ生きていけない」
「正義は始めからあると?」
「この世界に正解は無いなんて言う人が居るけど、それはきっと違う。皆が笑って、皆が幸福で、満ち足りた世界っていうのがきっとある。そんな世界を目指す心が、私の正義」
「苛烈ですね。その判断は寛大であっても」
「そう?」

「人は地獄の中に落ちた時、三つの行動を取ります。そこから抜け出そうとする者。その地獄を新天地に作り替えようとする者。そして、その地獄こそが天国だと自分を騙し、他が地獄だと雑言を撒き散らす者。
その全てが悪に成り得ます。そんな人達、皆が満ち足りる方法はあると?」

「ええ、きっと。方法は分かりません。でも、考えることは止めたくないです」
「そうですか……」

フクロウは溜息を吐き、遊沙ではない遊沙を眺めた。
そして机の引き出しから分厚い封筒を取り出すと、机板の上に置いた。

「なんですか?これ」
「今回の報酬です。就職祝いもかねて、三十万入ってます」
「さんじゅう………」

予想を遥かに超える金額に、遊沙は心臓がドクリと跳ねた音を聞いた。

「さんじゅう……はわわ……」

何かが間違って異常な回転をしていた脳が正常にズレ込む。遊沙の目から理性の火が消えた。
さんじゅうまんあれば、150円の高級弁当が幾つ買えるのだろうか?いや、寧ろ400円のお弁当にだって手が届くじゃないか!いや、それよりもそれよりも……

「ち、違う!私は、自分で引き金を引かずに誰かを殺すのは、もう嫌なの!!」

無意識の内に封筒を掴もうとした右手を、咄嗟に左手で止めた。

「自分で引き金を引いて殺すより、はるかに楽ですよ」
「そんなことない!私が感じたあの気持ち悪さは、私にしか分からない!」
「ウサギさん……」
「受け取らない!受け取らないもん!」

遊沙は唇を噛み締め、封筒から視線を外さぬまま、扉まで後退していった。
フクロウとしては、悩むぐらいなら楽な道を選んでくれと口にしたかったが、遊沙の百面相は興味深かったので黙っていた。

「もう来ないから!!」

遊沙は悔しそうに叫ぶと、ドアを蹴り開けて外に飛び出した。
本当にウサギみたいに跳ねていく遊沙の姿は、不謹慎だが微笑ましいものさえあった。

「……やれやれ」

残されたのはフクロウ一人。
寂しい部屋で、可愛らしい捨て台詞を残した元従業員の言葉を思い返す。

「自分で引き金を引かずに人を殺したくない……ですか」

一人呟くと、満足気に亡き友の名前を虚空に吐き出した。

「見付けるのに時間が掛かりましたが……使えそうな子ですよ。遊人、理沙」

遊沙の成長は、人間としては間違っていない。
いや、間違いを犯し、打算を好み、様々なモノを見ない振りし、お為ごかしに日々を消費するのが人間だ。だから人間に間違ってないという評価は、どうやったって矛盾する。

だがその矛盾こそが人生だと、フクロウは思っている。堂々と遊沙を間違っていないと評そうと思った。
遊沙の在り方に、殺されたあの二人が僅かだが報われた気がしたから。

「いいえ。救われたのは私ですか」

死人は喋らない。後悔だってしない。生前の恨みも、果たせなかった想いも残さない。
幽霊としての残滓を望むのは、残された人間の勝手でしかない。

『二人が報われた』

なんて、くだらない自己肯定。
十年前のあの日、フクロウは親友達を救えなかった。
遊人達の家が襲撃されることを知って慌てて駆け付けたが、彼らの家で目にしたのは遊人達の死体、荒らされた研究成果、逃げ出す幼い子、それを追う暴漢達だった。

「……貴方達の研究は間違っていなかった」

フクロウは、義足となった脚を撫でた。
あと一分早く到着していれば、親友を失わずに済んだのではないか?
あと三十秒早く到着していれば、彼らの成果を保護できたのではないか?
心に染み付いていた後悔が、少しだけマシな色になってくれた。

「しかし、アホです。あの子は」

フクロウは平坦な声に、珍しく落胆と怒りを混ぜて吐き出した。

「ディアスから逃げられる自分が、どれだけ特別なのかを分かってない。他の検体ではああはいきません。自分の背負えない罪まで気にするのは、大層な心掛けといえます。
しかし、今、自分がその大きな仕事から抜けたら、『後任者を殺す』ことになることに位思い至って欲しい。世界全体を憂うよりは、身近な事でしょうに」

フクロウは目を瞑る。
ある意味では悲痛と取れる顔で。ある意味では諦念と取れる声で呟いた。

「戻ってきて下さい、ウサギさん。貴女には『仕事』があるんです。仕事以外に、人生の価値など無いのですから、なんの文句があるのでしょうか?」

危険を作り出すことで平和を生み出す。悪を成すことで正義を執行する。
そんな両義こそがフクロウの進んできた道。成否などとっくに捨て去り、答え探しなど既に諦めた。

矛盾こそが人生だと。
遊沙に届く筈もない、大人の言葉など。

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