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【2話】せめてウサギは逆しまに【ディストピアSF小説】

クリップ屋さんを出発した遊沙は、相良コーポレーションのある上級街を目指して、スラムの狭い道を進んでいた。

「ん~、いい天気」

スラムとは捨てられた土地に、同じく捨てられた人間が押し込められた様をいう。都市計画も区画整理もなく、構造は荒唐無稽と化している。
しかし五歳の時からギャングの斥候として走り回っていた遊沙には、慣れ親しんだ庭。記憶は損なわれようとも、肉体が道を覚えているのだ。

「運び屋って言ったって、書類届けるだけだもん。こんなの欲しがる人そういないって」

簡単な仕事でいくら貰えちゃうんだろ?と、出来ぬ計算に胸が膨らんだ。
スラムは無秩序の町だが、それでもこの町なりのルールがある。仕事の相場が決まっているのもその一つだ。運び屋なら、普通一回千円は貰える。
今夜はおいしいご飯を食べられる筈だ。

「というか、万引きせずにご飯を食べられるね~」

最近は万引きをして空腹をやり過ごしており、世間に居心地の悪さを感じていた。それが正常な状態に戻るのだから、多少の事には目を瞑りたい。

罪を犯して働いて、罪を犯さずに腹を満たす。
今日は人間らしい一日を過ごせそうだ。

「犯罪は嫌いだけど、人は働かねば食えぬのですよ」

遊沙は茶色い封筒を太陽に翳したが、真実は不可視の膜に覆われている。尤も透けて見えたとしても、何が判断できる訳でもないが。
遊沙は文字の読み書きなどできないのだから。いや、今の彼女は読み書きどころか、知性の獲得すら出来ていない。

目に映る文字は絡まった線でしかなく、耳穴を蠢く言葉は雑音でしかない。
目に映っても脳には残らず、ただ過ぎていく人生の風景。
認識できぬ機微を、示される意味を、あらゆる場所に打ち捨てる。
受け入れられぬ色彩は、いつになろうと懐かしまれることはない。
思い描けた筈の未来や罪、その全てを無関心の竈門に放り込む。

彼女が逃げ込んだのは、そんな世界。
脳味噌に麻薬を打ち込んで得た、伽藍の安寧。

――けれど、突如叩き起こされる。

「今日はいい天気だな」
「へ?」

長閑けき静寂に割り込んできたのは、異常な濃度の危険だった。
危機の襲来に、活動を止めていた脳が無理矢理に起動される。

「……襲撃者!」

気を抜いていたとはいえ、実戦経験も修羅場も潜り抜けてきた遊沙が、横合いから声を掛けられた異常事態。

気付かぬ接近に、与えられた猶予は一秒。
生死を分かつ判断は、一生に値する選択。

―声を掛けてきた男は長身で、青み掛かったロングコートを着ていた。
―危険には敏感な遊沙が、二メートルに近付かれるまで気付かなかった。
―今の『挨拶』は、遊沙の反応を確かめるためのもの。
―対して遊沙は『封筒を体の後ろに隠す』という行動をしてしまった。
―遊沙が『モノ』を持っていると判断した男は、『踏み込んでくる』。
―一切の躊躇が無い、殺すために振るわれる殺気。

「もう!楽な仕事だと思ったのに!!」
「ほう……」

男の踏み込みから、遊沙は男の得物が接近戦用だと判断。
男の攻撃軌道の中に、拳銃を差し挟む。

「うぅ……!!想像以上に重たい!?」

男の剣戟を拳銃で受け止めたが、体格差で吹き飛ばされる。
遊沙は背中から地面に落下。剣を防御した腕が痺れ、肩が嫌な音を出す。肺の空気が押し潰され、呼吸が一瞬できなくなった。

「多少は荒事に慣れているか。さすがはフクロウの雇われか」

初撃を防がれた男は、ゆらりと揺れる。
手に持つのは太くて長い刀。日本刀というより太刀と表現できる殺人物だ。

「こ…の……いきなり何するのよ!」

遊沙は麻痺する肋骨を無理矢理動かし、拳銃を男に向けた。

「そのオモチャで、どうする気だ?」
「おもちゃ?……うそ!?」

拳銃は折れ曲がり、撃てる状態ではなくなっていた。

どれほどの力で、鉄製の拳銃が曲がるのか?
この男はどういった意図で襲ってきたのか?

考えるより速く、結論は放り出し。遊沙は壊れた拳銃を男に投げつける。

「自棄になったか」
「ああもう!なんなん!!」

男に背を向けて走り出した。

「悪いが、俺は悪行が許せんのでな。その仕事は完遂させん!」

男は投げつけられた拳銃を刀で弾くと、遊沙の後ろから切り掛かった。

「あぶな!?」
「これを避けるのか!?」

男の刀は、転がって回避した遊沙の頭の上を通過。壁を粉砕した。

「背中を向けてこの速度で走れば、横殴りか突きがくること位、私でも分かるよ~だ!」
「ほざけ!敵を見ずに回避するなど、簡単にできるものか!」

男は舌打ちし、遊沙をただの少女だと思った認識を改める。

「だが、もう避けれん筈だ!」

遊沙は立ち上がり、男に背を向けて再び逃走体勢を取る。
その右足を狙って男は剣を振るった。

「わ、わ!」

無理矢理に振るわれた刃は大した速度でなかった。しかし、遊沙が右足を上げて避けざるを得ない軌道を取っていた。
まんまと避けたさせられた遊沙は、片足立ちとなって体勢を崩す。

「さらばだ。自分の巡り合わせの悪さを呪うんだな」

体勢不十分な遊沙に食い込ませるべく、男は刀を振り上げる。
遊沙は男が刀を振り上げ切った瞬間を気配で確認する。

「呪うなら貴方をですよ~だ!でも、私は今晩、おいしいご飯食べるから死なない!」

既に遊沙は体勢を崩し切り、地面とほぼ水平の所まで重力に飲み込まれていた。

「その体勢から何ができる?」
「何でもできますよーだ!私はまだ死んでないもん」
「すぐに死ぬさ!」
「いくよ!私の相棒!」

遊沙は地面に鼻先が付いた状態で、右足を地面に思い切り叩き付けた。
大型虫の羽音のような音が上がり、遊沙の右足の筋肉が震える。

「外部装置か!」
「ぐぅ……!!」

僅かに筋肉の焦げる臭いがし、パッシブワンダーが起動する。
生み出された痛みは、本来この世に存在しない人工の牙。
筋肉に食い込んでくる灼熱に、遊沙はのたうち回りたくなった。

「痛い……けど、死ぬよりマシ!」

痛みに歯を食い縛り、遊沙は偽物の筋力に全体重を預けていく。

「逃がすか!」

男が必殺の速度を持って刀を振り切る。
遊沙は振り返ることはしない。死を測ることもしない。

ただ速く。
ただ遠くへ。

「私、走るのは得意だもん!」

振動する刃は少女を両断せんと咆哮し――

「ち!これほどか!」

――地面を粉々に噛み砕いた。

己の浅慮を恨む男を残し、遊沙は走る。

その姿は青き稲妻。
初速から最速。

最高速度の速さではなく、身軽さを以て瞬時に姿を眩ませる。
空振りした男が視線を上げた時、遊沙は既に駆け抜けた後。追走しても無駄だと思わせる、活劇の様な疾走だった。

「いや、恐るべきは危機察知能力か。しかし、なんという幼さで罪を犯すのか……」

男は悪を切ってやれなかったことを悔やみながら刀をしまった。
遊沙が消えた方角を見る瞳には、憐れみや慈愛に似た何かが点っていた。


「なんなん!いきなり殺しに来るとかヤバすぎ!」

遊沙は突如襲われた驚きと、備えなく触れた死の恐怖を吐き出していた。
伝う汗は太陽のせいではなく、走り詰めた疲労のせいでもない。踏み入れた場所の不確かさと、それを認識出来ずにいた自分の不用心さ故だった。

「はぁ…はぁ…はぁ…なんなの……もう!」

攻撃を受け止めた右手はグローブの様に膨れ、腫れた肩は火のように熱い。稼働しっぱなしだった肺はびりびりと渇き、喉は水分を求めて酷く貼り付く。

空気を吸っても吸っても足りず、体に正常との乖離を感じる。自身の持つ持久力を使い切って、外部装置に頼り詰めだった脚が、粘度の高い液体になってしまったよう。

「痛い…ヤバい…痛い…しんどい…痛い…くるし~……」

男に襲われた遊沙は、後五十メートルも走れば上級街に繋がる橋に出られる所まで来ていた。しかし、足を休めようと壁と家の狭い空間に逃げ込んだ後、長い間そのままになっていた。

パッシブワンダーは衝撃を筋力として変換し、無理矢理に行動させる装置。安全性など考えられておらず、廃熱不能な程の熱さを小さな体に籠らせていた。

「あ~…怖い!でも行かなきゃ」

何回目かになる自己奮起の言葉を呟く。それがやっと分厚い壁に染み込み、遊沙はなんとか隙間から這い出た。
動いてみれば、それ程体は傷んでいない。籠っていた熱も波のように引いていく。これなら後一回の疾走ならこなせそうだと、気力も沸いてきた。

「ん?……あ~~~!!何コレ~~!」

しかし運ぶべき封筒が半分に千切れ、切断面が焼け焦げていることに気が付いてしまった。
男の剣がいずれかのタイミングで掠っていたのだろう。

「あの揉み合いの時?嘘~……」

手荷物をこんな状態にしては仕事の完遂とはならない。
報酬の千円……は無理だろう。この残った半分の書類に重要な事が書かれていたら、百円位は貰えるか?

「無理でしょ……」

死ぬ思いの結果がこれとはやるせない。
しかしトンズラをこけば、荷物を持ち逃げしたとして厄介事を抱え込む。

「とりあえず行こう……自己処理して、次の依頼に漕ぎ着けないといけないし」

出来なくても噂のクーラーとやらにあたってみたい。
百円だのクーラーだの、自分でも馬鹿かと思う報酬を描きながら進む遊沙の足取りは、十字架を運ばされる死刑囚の様であった。

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