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【8話】せめてウサギは逆しまに【ディストピアSF小説】

「嫌な雨。何の臭いもしない」

雨は足音を消す。
雨は臭いを消す。
雨は襲われる獣の集中力を乱す。
雨降る夜は、狩人が繰り出すには都合がいいのだ。
弱い遊沙は、そんな狩猟日和に悠長に寝ていられない。

今までだって。
これからだって。

「よう、久しぶりだな。ウサ」

唯一空いている道から、ふいに一人の男が入ってきた。
雨に紛れて近付いてきた危険の名は、設楽瑪瑙。金髪で長身。革のジャンパーを着て、整った顔に軽薄な笑みを浮かべている。
遊沙の所属していた『リング』の構成員で、偵察部隊の隊長である。

「……」
「なんだよ、こっちが挨拶してるってのに、反応なしかよ」
「……人を閉じ込めといて、よく言う」

瑪瑙は入ってきた道を塞ぐように、立ちはだかっている。
逃げ道を塞いで、遊沙の逃亡を防ぐ気だろう。

「閉じ込めるとは、人聞き悪いな、ウサ。旧友を訪ねてやったってのに」
「そうなの?じゃあ、場所を変えましょう。もう少し人目の多い所が良い」
「いいよ。こっちの用なんてすぐ済む」
「そういえば、出かける予定があるから、今度にしてくれない?」
「『上級街』にでも行く気か?」
「……そこから追われたのね」

遊沙は何処から付けられたのか思い返そうとしたが、記憶が断裂していて検証しようもない。

「あれだけ派手に動けば、当たり前だろ?つーか、今まで大人しくしてたのに、急にどうしたんだよ」
「人間らしく生きたくなったの。仕事をして、ご飯買って、食べて。そう言うの」
「そんな事、リングに居ても出来ただろうが」
「あれが人間らしい行いだと思っているなら、アナタも相当毒されてるよ」
「ガキが、分かった風な口をきくなよ」

瑪瑙は感情的になりかけたが、思い出した様に一歩退いた。

「いや、そんな事はいいか。全て手遅れだ。あの時ああしてればよかったとか、これからは心を入れ替えるとか、全て意味のない行為だ。一般的にも、お前に当て嵌めてもな」
「要するに、ギャングを抜けた奴を許さないんでしょ?回りクドイ説明をしてないで、襲ってきたら?」
「焦るなよ。そりゃ俺達は抜けた奴を許さないさ。でも、許さない相手への処置は二通りあるだろう?」
「殺すか、贖わせるかって言いたいの?」
「ああ。だから、許しを請うための猶予をやっているんだよ」
「許しを請えば、どうだっていうの?」
「命まで取らず、足の二本程度で許してやったっていい。心温まる提案だろう」
「ええ、気持ち悪くて頭が沸騰しそう。許しは請わないから、懐の拳銃でも抜いたら?」
「おいおい、挑発的だな。自分の立場分かってるのか?」

瑪瑙は反抗的な態度に語気を強めたが、遊沙に詰め寄ってくる訳でもない。
何かを待つ様子で入り口に立ち続けている。

「立場……分からないわね」
「それはお前の頭が悪いからだ」
「むぅ…」
「なら抵抗しろよ。口だけじゃなく、反抗を行動で示せよ。そうすれば、話は早くなる。お前としても、その方が望みだろ?情に流された誰かに助けられるより、自分で行動を起こして罰を確定させる。お前はそういう人間だ」
「勝手に人の行動心理を決めないで。というか、そうやって人の心を操ろうとするところ、相変わらず嫌い」

「それは良かった。俺の事が好きだとか言われたら困ってたところだ。お前だって、自分を愛するモノを殺し難いだろ?ああ、どうやってこの愛をへし折ってやろうかとか、どこまでやったら愛は憎悪に変わるのかとか、尽きない興味のせいで中々殺せなくなる。
その点良いぜ、お前は。冷徹にして、氷徹にして、凍徹な目。糞の様な人間のする目。
スラムに落ちたばっかの餓鬼のする、しかし、いずれすることの無くなる目。それをずっと保ち続けるクズだ。誰も信じず、誰も愛さず、どうやったら俺を籠絡できるかなんて考える余地もなく、純粋な憎悪に塗りたくられている。
ああ。だから、見せてくれるのは汚い自己保身だけでいい。それなら得意だろ。ああん?」

「かける言葉も見つからない位、外道ね」
「かける言葉も見つけられないのは、お前の頭が悪いからだ」
「この……」

ギャングの存在理由は様々だ。好き勝手やりたい奴らが集まったり、非合法に金を儲けたい奴が集ったり、生きる術を持たぬ者達が身を寄せ合ったり。
いずれにせよ、ギャングが弱い者の集合である以上、彼らは裏切りを許さない。

(囲まれてる)

ここは四方を背の高い建物に囲まれた場所で、建物の壁に窓はない。入り口も瑪瑙が立つ狭い路地しかない。
瑪瑙はタイマンで負け知らずであり、遊沙が何とかできる相手ではない。よしんば瑪瑙を抜けられたとしても、路地の先に待ち伏せている他の隊員に捕まる筈だ。

だからといって、悠長にもしていられない。瑪瑙が遊沙を襲いもせずに、待っているのは別働隊の配置が進行中だからだろう。それが済み次第、襲ってくる筈だ。
ここの地形なら、襲撃者は建物の屋根を伝ってくるべきであり、瑪瑙達は実際そうしているだろう。ただ四方の建物の内、左側の建物の屋根は脆く足場も悪いため、そこからの襲撃の可能性は低い。
警戒すべきは前、右、背中側の三方。

(足音は九人)

遊沙の耳が、襲撃者達の潜めた足音を捉えた。
思った通り、左側を除いた三方向、其々から三人ずつ近付いてきていた。

「聞いてるのかよ、ウサ」
「うんうん、聞いてる。聞いてる」

瑪瑙の話を聞き流しつつ、遊沙はいずれ来る瞬間に備えた。

「『復讐は成されなければならない』。リーダーの言葉だっけ」
「ああ。覚えてるんじゃないか、ウサ。その言葉はこの世界の真理さ」

遊沙が瑪瑙の好きな言葉を吐きかける。
瑪瑙は両手を広げ、大仰に打ち立てた。

「種の保存とは、種の持つ最低限にして、最高のシステムだ。たとえば、体に毒を持つ毒性生物がいるだろう?その多くは毒を発射できる訳じゃなく、敵に食われて初めて意味を持つ。奴らの存在理由は何だ?命を落として初めて成り立つ復讐とは」

遊沙は答えない。瑪瑙も気にせず言葉を続ける。

「同種の命を守るためだ。個の生命の存続に意味は無く、しかし種の存続の為に『復讐』を成す。それこそが美しく、力強い生命の営みだ。そうは思わないか?」
「思わない。見逃してよ」
「見逃す訳ないだろ。話聞いてんのかよ」
瑪瑙は下卑た笑みを浮かべ、遊沙の脚を見る。
「その脚を差し出せよ。そうすりゃ命は助けてやる」
「お優しい人……」

因みに瑪瑙は女性の四肢を切断することで、性的興奮を覚える異常者である。

「この制裁は、リングの復讐なの?それとも瑪瑙の趣味?」
「リングの復讐だろ。お前、やっぱり頭悪いな」

「確かにフグを食べたら、中毒で死ぬよ。でも、人はその『毒』に貴重価値を見い出して、おいしくもない魚に高いお金を払うんだよ?復讐なんて無意味で、復讐なんて無価値で、寧ろそのせいでフグは人に飼われる不自由を被った。それを思えば、復讐なんて疲れること止めるべきだよ」

「お前の言うことも多少は認めよう。人間は罪深いさ。物珍しさ故にフグが余計に殺されてるのは間違いない」
「それが人間の倒錯だよね」

遊沙はわざとらしく、扇情的に煽った。

「瑪瑙も復讐の結果じゃなくて、過程が好きだよね」
「…何が言いたい訳?お前」
「だって瑪瑙、女の子が苦しんでる姿見るの好きだもんね?脚を切ると上がる、悲痛な悲鳴が好き?それとも無くなった脚を見て、醜い未来に絶望する顔が好きなの?」
「お前……」
「残念、私は貴方が請うたって、声の一つも上げないし。貴方が頼んだって、表情の一つも変えてあげない!」
「……分かったよ、殺してやる!今すぐにな!」

瑪瑙が怒りに震え、殺人を決めた瞬間、

「うわああああ!」
「ぎゃあああ!」

後方の建物から、天井が崩れる音と、男達の悲鳴が響いた。

待っていた瞬間は、今ここに。
遊沙は両足に貯めていた力を一気に解放した。

「やああ!!」
「はあ?お前、何やってんの?」

壁に向かって飛び上がる遊沙に反応し、瑪瑙は拳銃を引き抜こうとした。
遊沙は、助走無しで二メートルに迫る、超人的な跳躍力を持つ。
が、建物の壁は七メートルある。

――跳べる筈がない。

そんな常識的な本能が、瑪瑙の動きを鈍らせた。時間にしてコンマ数秒の遅れ。
しかし、元より奇跡を掴む瞬間に臨んでいた遊沙には、その間隙だけで十分。
遊沙はつま先を壁に引っ掛けたままエアシューターを抜き、斜め下に向けて発射した。

「ここは自分の寝床だよ?緊急脱出の手段位、用意してるに決まってますよーだ!」
「くそ…何から何まで滅茶苦茶な奴だな!」

遊沙はエアシューターの反動で、上空に吹き飛ばされた。
瑪瑙が銃を撃つが、既に遊沙は建物の上に消えている。

「うお!上がってきやがった!」
「もたもたすんな!銃構えろ!」

突然飛んできた遊沙に、屋根で待機していた部隊が驚く。
遊沙の読み通り後ろ側の建物の屋根は抜けており、落下した三人が伸びていた。

「もう私を追ってこないで!」

遊沙は空中に居るままに、もう一丁のエアシューターを引き抜き、右手側の建物の三人に狙いを付ける。
右手側の三人の内の一人は良く組んで仕事をしていた大山崎健次。彼は遊沙が飛んでくることを予測していたらしく、他の五人と違い、既に銃を構えていた。

「ウサ!逃げ切れる訳ないだろ!投降しろ!」
「いや!戻らないって決めたもん!」
「撃ってきた!屋根に捕まれ!」

螺旋に渦巻く空気が放たれ、健次達の足元に着弾した。

「うぐ…」
「うわ~~!」

空気砲は、右手側の建物の屋根に着弾し、保有する威力を開放する。
右手側の三人は吹き荒れる風に煽られる。屋根の縁に捕まって落下は阻止したが、遊沙を追うどころではない。

「ウサ!待て!」
「そのまま落ちてよ、健次!」

遊沙は発射の反動で飛ばされ、後ろ側にあった建物に着地する。

「逃がすな!」
「追え!」

残る追手は向かいの建物の三人。その三人の撃った弾丸が、遊沙の近くに着弾した。

「あんた達みたいな下手くそが撃っても、中る訳ないですよーだ!」
「なにを~~!!」
「べ~~!」
「追え!走られたら、終わりだぞ!」
「追えないって!左側から回ってったって、追い付ける訳ないだろ!」
「なら、足を撃て!足だ!」

三人は銃を構える。しかし三つの銃口に狙いを付けられても、遊沙はたじろがず、パッシブワンダーを起動させる。

遊沙には見えているのだ。全盛期程ではないが、銃口から発射されるであろう弾丸の軌跡と、引き金を引く指の動きが。
さながら、狙いを付けるレーザーポインターが、回避の手助けをしている様なモノ。

「さよならですよーだ!」
「この野郎!逃がすかよ!」

ベーと舌を出す遊沙に乗せられ、三人は狙いも定まってないのに引き金を引く。
その引き金を引く指より早く遊沙は走り出し―

――迫る危険に身を屈めた。

「頭を下げろ」
「わ、わ!」

凄絶な悪寒が遊沙を襲う。
反射的に下げた遊沙の頭上を、唸る空牙が駆け抜けていった。

「うわあああ!」
「ぎゃああああ!」
「え?」

響く悲鳴に振り返る。

――リングの三人が切り刻まれる光景が網膜を焼き尽くす。

「なんで……」

そんな事をするのかと。
遊沙は震える声を、殺人の主に向けた。

「なんで、あんたがここに居るの!てゆーか、なんで!あいつ等を切ったの!」
「お前の監視に来たんだ。状況的にあいつらが悪だと思って、介入させてもらった」

静かに語るのは、別の屋根から飛び移ってくるディアスだった。
遊沙はディアスにエアシューターを向ける。しかし遊沙の銃は、充填中を示す緩いモーター音が鳴っていた。
発射可能になるまで後三秒。ディアス相手には絶望的な無防備だ。

「止めておけ。エアシューターでは、このアマノハバキリにダメージを与えられない」
「……やってみなきゃ、分からないよ」
「こちらに敵対の意思はない。大人しく退けと言ってるんだ」
「どういう事?私を監視しにきたんじゃないの?」
「ああ、監視していた。そして、今のお前は悪を成していないと判断した」
「ふぇ?」

何を言うのかと理解できなかった。
いや理解するのを農が拒否するくらい、ディアスの回答は常軌を逸脱したものだった。

「俺は、この世には罪人は居ないと思っている。悪を成す『行為』こそが、断罪されるべきだと考えているんだ」
「罪を憎んで人を憎まずってこと?」
「安い言葉で言ってしまうとな」
「信じられない……」
「フクロウは、今から大きな仕事をするつもりだ。それをお前に手伝われれば事だと思い、監視をしていた。しかし、お前は手伝う気が無い様だったのでな」
「それで助けたの?私が『善良な一般人』になったから?」
「ああ。今のお前は守るべきモノだ」
「ああって……」

眩暈がする。頭痛がする。なんという自分勝手。なんという聖人君子。
こいつは何を言っているのかと、耳を疑いたくなる。

「守るべきモノが、悪漢に襲われていた。だから助けたんだ」
「私がフクロウを助ける素振りをしていたら、殺したっていうのに?」
「そうだな。フクロウを助ける行為は悪だ。それを成す者は断罪されるべきだ」
「あんた……!!」

切り刻まれた三人の死体はディアスの視界に入っている筈だ。
なのに、どうして正義面出来るのか理解できなかった。

「逃げろ!遊沙!」
「っ!!」

遊沙がエアシューターの引き金を引こうとした時、聞き慣れた声に止められた。
健次が屋根の縁から生還し、ディアスに向けて銃弾を撃ち放った。

「ぬう!!」

銃撃に反応したディアスは、目の前の空間を殴る。
殴られた空気は振動で固まり、拳銃の弾丸を弾く盾となった。

「なに……?」

空気の盾に銃弾が弾かれ、健次が愕然とする。
その一瞬に、ディアスが健次に向かって走り出した。

「逃げて!健次!」
「遊沙……」

健次は遊沙の泣きそうな顔に、勘違いしてしまったらしい。

「とにかく撃ち続けろ!遊沙を殺させるな!」
「おう!」
「はい!」

右側の建物にいた三人は体勢を立て直しており、敵性であるディアスに銃を撃ち続ける。
だが秒速で距離を殺すディアスを捉えられることができない。僅かに中った弾丸も高振動の剣に弾かれて意味を成してはくれない。

アマノハバキリ。
ディアスの使う外部装置の名だ。

全身に付けたベルトやマントのような装置と大きな刀が共振し、高速の振動を生み出す。生み出された振動を筋力や衝撃波に変換して高速移動したり、空気を固めて剣や盾にしたり、果ては振動を地面に伝わらせて相手を停止させたりする事が出来る。
使用者に強いる負担は生半可ではないが、一対一で押し勝つことは不可能と言われる凶悪な外部装置である。

「な……速過ぎる…!」
「力無き悪は、哀れだな」
「くそ!」
「遅い!」

高速で突っ込んだディアスが剣を切り上げると、一切の抵抗なく健次の右腕が飛ばされる。冗談みたいな量の血が噴き出し、雨を赤く染めていく。

「ぐああああ!」
「その傷は、自ら負ったものだと知れ」
「ぐふ!!」

ディアスに蹴り飛ばされ、健次が屋根の下に落ちていく。

「お前!」
「うわあああ!!」

目の前から消失したディアスをやっと見つけた残りの二人は、一心不乱に乱射する。

「な……あ?」
「動け……ない…」

いや、乱射しようとした。
しかし地面を伝う振動が二人を捕らえ、指一本動かせなくなってしまう。

「哀れな悪よ。消え去るがいい」
「や…やめて……」
「お助けを!」
「そう言って命乞いした者を、お前らは今まで助けてきたのか?」

目に涙を浮かべる二人の命乞いを唾棄すると、

「消えろ!」
「あ!!!」
「ひゃ!!!」

ディアスは剣を振るい、二人は胴体から真二つに切り裂かれた。
馬鹿みたいに上半身が宙を飛び、万歳するみたいに地に落ちた。出来の悪いオブジェの様に下半身が立ち、噴水のように赤を噴き上げた。

「ひどい……」

遊沙は動けなかった。助けに入った所で誰も助けられない事を……いや、助けに入れば、自分が殺されることを本能的に理解してしまったから。
なんて浅ましい自分だ。健次達は自分を助けようとしたのに。

「じゃあな。これからは真っ当に生きるんだぞ」

ディアスは死体には一瞥もくれずに歩き出した。
彼の言葉が自分に向けたモノだと気が付くと、遊沙は我慢できずに彼を引き留めた。

「どこに行くの?」
「フクロウが仕事を始めると言っただろ。それを止めに行く」
「いつ?」
「もう始まっているかもな」

ディアスは月の位置で、時間を確認した。
アマノハバキリは全身が高速振動するため、時計や他の外部装置などの精密機器は付けられない。付けられるとすれば、頑丈で単純な簡易フローターくらい。

「夜明けまでには片を付ける。お前が寝て、起きる頃には終わっているさ」
「この世界を悪夢みたいに言うね」
「お前にとって、この夜は迷い込んでしまった異世界だ。大人しく目を瞑り、過ぎ去るのを待つんだ」
「人を子供扱いしないで」
「お前は子供じゃないか」
「そうやって、何でも決め付ける所が嫌い」
「お前こそ、そうやって決め付けるじゃないか」
「だって、アナタの事知らないもん」
「なら、知ればいい」

ディアスはとても難しい事を言う。

「じゃあ、アナタはなんでこんな事をするの?正義が好きなら一般市民してるとか、政府に入るとかあるでしょ?」
「俺が自警団をやってる理由を聞きたいのか?」
「そうかも!」
「こういう場所でなければ、世界を変えられないと思ったからだ」
「世界?はい?大きな話になった!」
「そうでもないさ。俺は昔官僚だったんだ」
「かん……え?超エリートじゃない!世界を動かすレベルの」
「……そうでもないさ。そこで見たのは、そのエリート達の腐敗だけだった」
「いや、そういう感じのとこかも分かんないけど……自分も腐れば良かったんだよ!」
「それは無理だ。俺は世界を良くしようと考え、国を動かす場所に飛び込んだ。しかし、目にしたのは私腹を肥やす政治家や、弱者を食い物にする大企業達の姿だった」
「強者が強者でいる事は仕方ないと思う」
「そんな動物みたいな考えで、世界を動かされて堪るか」
「でも、メカである必要もないよ」

「機械であれとは言ってないさ。官僚はAIを押し退けて選ばれているのだから、身を粉にして働くのが責任だと述べている。その分の給与も出ているし、せねば詐欺だ」
「……それは、まあ」
「誰も全体の幸せなど考えず、個々の怠惰を貪っている。目の前の幸福が、本当に正しいものであるかどうかなど考えずに、非効率に人生を使い潰す。愚かなモノは愚かなまま成長し、賢いモノは賢さを独占する」

ディアスは底の無い瞳を遊沙に向ける。

「この世界は歪んでいると思わないか?間違ってると思わないか?」
「……不満がない訳じゃないけど」

遊沙だって、この世界には苦労させられてるし、もっと楽に生きたいと思う。この世界が改善出来るのなら、協力しようという正義感だってある。
だがディアスの物言いは、この世界の改善を望むものではなく、『人が生きて歪んでいった世界』以前の、神様の世界に挿げ替えたいという話。
人の幸福より先に、世界の秩序がある倒錯したお伽噺だ。

「人の涙を笑顔に変える度に、この世界は一つ歪んでく。確かに人が苦しむのはこの世界の歪みのせいかもしれないけど、世界の歪みの一つ一つに人々の人生が記されてるの。正しい世界はあると思うけど、貴方のしてる間違い探しの中に、正解なんて無いと思う」

「それはお前が、狭い世界しか知らないからそう言えるんだ。俺は、この世界を動かす立場を見てきた。そして、この世界をもっとよくできる方法がある事を知った。しかし、誰もそれをやろうとはしない」

「そりゃ、やらないよ。理由がないもの」
「理由なんて、人が生きている事だけで十分だ」
「それは傲慢だよ」
「なんとでも言えばいい。嘗ての場所では、それを正せなかった。だから、俺はここでこうしてるんだ。世界を正しいものにするために。誰も悲しまなくていい世界を作るために」
「…私には、貴方が何を言ってるのか分かんない」
「それでいい。ただ、正しい世界を願っていてくれ」

ディアスは屋根を飛び降りた。雨混じりの風に吹かれながら、遊沙はしばらくディアスのいなくなった空間を眺めていた。

『アイツ』が何を言いたいのか分からない訳じゃない。

正義の反対は悪ではなく、別の正義だなんて言う人が居る。しかし、目の前の問題にスタンドアローンで対処するから、そんな事が起きるだけである。
皆で協力して一つの答えを出すのなら、それがただ一つの正義であり、正解だ。
皆が笑って、皆が幸せで、満ち足りた世界っていうのがきっとある。皆で正しい行為を積み重ねて、正しいその世界に辿り着くのが正義であると信じている。

そんな妄想くらい持ったことは有る。
しかし残念ながら、頭の足りない遊沙では『正しい行為』なんぞ決めきれない。自分の考え着く程度の事では、絶対的な基準など編み出せず、そんな曖昧な物差しで世界を測り直したって歪みが直る筈なんてないと理解している。

大体、『皆』とは誰を指すのか?
貴族が贅を尽した時代を言えば、『人間として認識されていた』貴族は全員幸福と言ってもよかったかもしれない。下地として多くの労働力が使い潰されたとしても、それが人間と認識されていないのならば不幸の換算には入らない。

幸福な人を人間と呼び、不幸な者を紛い者と呼ぶ。人間の考え着く程度のこんな答えを良しとしない限り、『皆』が幸福な社会など訪れないと思えてしまうのだ。

「勝手な奴……世界の為に人がいるんじゃないのに。無理な事に心を砕いて、より深い不幸に陥る人を生み出して、どうなるっていうの?」

ディアスの正義に見捨てられた嘗ての仲間は、止み始めた雨に濡れていく。屋根を赤く染めながら、存在価値が流れ出て行く。
今以降、誰も彼らの名も覚えず、これ以降、彼らは誰も笑顔にしやしない。彼らが歩く筈だった道は閉ざされ、幸福な筈だった全ては悲痛に堕ちる。

もっとも彼らは極悪非道なギャングだ。彼らが失った幸福は、社会に生み出す悲劇の量を下回っているかもしれない。
社会的に見ればディアスは他の全ての人の幸福度を上げたと言えたかもしれないのだ。

それでも、それを『良し』とは誰が決められるのか?

「誰にも決めさせやしない。この世界は神様の物じゃない」

遊沙は唇を噛むと、ポケットの上からエアシューターの予備弾倉を握り締めた。

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