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【3話】せめてウサギは逆しまに【ディストピアSF小説】
軒先に並ぶ干物みたいな視線を受けながらスラムを抜けると、目の前に大きな川が現れた。貧民街と上級街を分かつ境界で、橋を渡ると上級街を囲う壁が待っている。
二つの町を繋ぐこの場所は不戦協定が結ばれており、安全地帯となっている。
遊沙は足早に橋を渡り、上級街外殻の入り口を通る。
壁が消え、汚い汚物が隠され、突如広がった景観に圧し返されそうになった。
「凄い…これが人間の住む所」
遊沙の脳味噌が壊れてから、初めて目にする光景だった。
道がコンクリートで舗装され、ボロを纏う人も歩いておらず、バラック小屋もビルに置き換わる。全てが清潔で時計のある景色。この整然こそが文明かと立ち尽くした。
ピピッ
入り口付近に備え付けられたセントリーガンが、遊沙のICチップを読み込んだ。ICチップには市民のレベルが記録されている。スラムまで入れるモノ、上級街外殻まで入れるモノ、上級街中核まで入れるモノと分けられている。
下の階級の住民が上の階級の町に入ろうとすると、セントリーガンに打ち抜かれる仕組みだ。
ギャングの支配する土地であるスラム街。
行政の統治する土地である上級街中心街。
そのどちらからも外れたのが上級街外殻である。
元々、行政は上級街の全てを監視下に入れていたが、求心力の低下から機能を中心街のみに限定する事となった。上級街外殻は庇護を失い、法律などの適用されない無法の土地となってしまったのである。
とはいえ、街は綺麗に保たれており、一見すると暴漢もいない。
ここに住む人々は『この土地は元々上級街だった』という過去を誇りにし、街の外観も治安も変わらずに保持しているのである。
――少なくとも、お天道様が世界を照らしている間は。
ただ同じ上級街とは言え、長い時間の末に中心街と外殻では生活水準は天と地ほども差が出てしまっていた。
上級街外殻を中心に向けて時速40キロ程度でのんびり走っていると、高い見張り台が見えてきた。
見張り台は100メートルおきに設置され、間は二重のフェンスが置かれている。フェンスとフェンスの間は約20メートルの更地となっており、無理に突破しようとすると警備員やドローンに攻撃される決まりとなっている。
ファンスには一か所だけ空いている部分があり、数名の警備員が立っている。それが中心街に入るための検問だ。
その検問を抜けた先に待っているのが、外殻よりも五十年は進んでいる中心街。行政の中心であると共に、宗教的にも大切な要地。選ばれた人間しか入れない聖なる都である。
そんな中心街の中でも更に一等地に建つのが相良コーポレーション聖都支社である。
相良コーポレーションは創業から二百年以上続く、この国きっての大企業。
鉱石の採掘から、運輸、鋳造、製造から小売り、リサイクルまで行うのは当然の事、広告、公害問題、医療、金融と、何から何まで行ってしまう総合商社である。
この国のGDPの多くを賄う利益の大きさもさる事ながら、広い業務形態や全国各地に持つネットワークの広大さこそが真の強みと言えよう。
あらゆる物資と遍く知識、重厚な人脈を背景に、この国を席巻する化物企業である。
「ほえ~…更にすっごい…」
検問を通過して中心街に入った遊沙は、阿呆の様な感嘆を生みながら、ふらふらと歩く。
舗装された道路、広く取られた区画、同じような服を着て同じような歩幅で進む人々、デザイノイドされた、あらゆる全て。
煌びやかな光に、大きな家、割れてない硝子、盗めそうな所に物を置いている商店、女性も子供も沢山歩いている歩道。
全部が興味深くて、全てで立ち止まってしまう。
通行人は遊沙の様子を見てくすくすと笑っていたが、3秒後には何事も無かったように無関心で過ぎ去っていった。
やたらと時間を掛けて街を進んでいると、大きな街並みの中でも一際高いビルが見えてきた。
「うぇ!なにあれ!」
遊沙に間抜けな声を上げさせたのが、相良コーポレーションのビルである。
百五十階建てのビルは、天に突き立つ白い槍か、天を支える柱のように思えた。
「というか!どうしたらいいの!私!」
遊沙はビルの前で立ち止まり、馬鹿みたいにビルを見上げるばかり。
空の上まで続いていそうな建造物を『建物』だと認識することを、脳が拒否しているらしかった。そうでなくとも、自動ドアを知らない遊沙は、ビルへの入り方が分からないのである。
立ち尽くす遊沙を周りの人は何事かと見やるが、遊沙は困り果てた目で『白い棒』を眺めるばかり。
そのまま長い時間立ち尽くしていたが、やがてスーツ姿の小太りの男に声を掛けられた。
「すいません、少しよろしいですか?」
「は、はい?」
「私、こういうものです」
名刺を渡されたが、文字が読めない遊沙には何のことか分からない。
「なにこれ?」
「違っていたら、申し訳ありませんが、ウサギ様……ですよね?」
「え……あ、そうです」
そう言えば、フクロウにそんな名前を付けられたと思い出す。
「それは良かった。上級街では見掛けない格好だったので、スラムの方かなと思いまして」
「分かりますか!」
「そりゃね……いえ。とにかく、お待ちしておりました。立ち話もなんですので、どうぞ、こちらへ」
小太りの男は露骨に蔑んだ表情になったが、慌ててひっこめた。
「こちらって……どちら?」
「はっはっはっ。面白い方だ。あのビルの六十階ですよ、部長の吉見がいるのは」
「あの白いの入れるんですか!?」
「え、まあ、そりゃ入れるよ」
中年男は怪訝な顔で、遊沙を値踏みする。
冗談をいう人間かどうか考えているらしかったが、遊沙のせいで時間が押している事を思い出したらしい。
「いいから、とにかく来てください」
「はいは~い」
『ビジネスっぽいし』とかなんとか思いながら、遊沙は男に着いてビルの中に入った。
「ほえ~……」
建物内は壮観だった。
内装はクリーム色を基調としており、床や壁に大理石が使われている。三階分を吹き抜けにしたロビーは、巨人でも出迎えるつもりかと言いたくなる設え。
並べられた椅子やテーブルも悉く高級物。何故か水の流れている川みたいな装置があり、木まで生えている始末である。
「ささ、こっちがエレベーターホールです」
「はあ……ぴぃ!?」
「どうされました?」
「こ、これ…えれべーたーってやつですか?動くんですか?」
「ええ。そうですが?」
「へぇ~……」
エレベーターホールには絨毯が敷かれており、宮廷の一室の様に豪華。左右合わせて12機のエレベーターが稼働していた。
エレベーターはフクロウの居たワンルームよりも広く、扉も巨大。沢山の人が忙しそうに乗り降りしていた。
遊沙は現実離れした光景に惚けてしまい、小太りの男は声に苛立ちを込めて急かした。
「あの、ウサギ様……乗らないのですか?」
「いや……ちゃんと動くんですか?」
「勿論、動きますが?初めて見るんですか?」
「はい……ドアの中に入ったら、上の階にワープする装置ですよね」
「違いますが……」
「違うんですか!?」
「いや、あの……すいませんが、人を待たせておりますので、お急ぎ願います」
「あ?はい」
案内役は乱暴に遊沙の手を握り、エレベーターの中に引き入れた。
同じエレベーターに乗ろうとした職員を、別の物に乗れと手で払い、さっさと扉を閉めてしまった。
「ほえ~」
何故か手を繋いだまま、エレベーターは上昇していく。窓から外を眺める遊沙は、事のおかしさには気が付いていないらしい。
高い所から見た街の感想を一言に纏めてしまうと、『白い』だった。
俯瞰なる視座は建物や人々の生活を剥製に変え、全てから意味を剥奪する。美しさの中には何も住まず、美しいが為に作られた街という倒錯すら感じさせたのだ。
視界を巡らせると、ふと、この街の端っこが目に入った。中心街の周りには外殻のビルが檻の様に連なり、その向こうには巨大な壁が見え隠れしている。
スラムと上級街を区切る2メートルの壁。物理的に超えられぬ訳がないが、彼我の区別は絶対的だった。
「何が違うんだろ……」
遊沙の口から、遊沙のモノではない言葉が零れた。
しばらく揺れとも言えない揺れを感じながら、地面から離れていく。やがて振動が停止し、目的地に到着した。
「ウサギ様、こちらにどうぞ」
「え?あ、はい」
案内役に声を掛けられて我を失う。エレベーターは目的の六十階に到達していた。
案内役に手を引かれてエレベーターから降りると、遊沙はまたも気の抜けた声を上げてしまった。廊下だというのに絨毯張りなのだ。それも足首まで沈み込んでしまう高級品。
「なんか、凄いですね。全部が!」
「はっは。ありがとうございます」
遊沙は案内役に手を引かれながら、廊下を見回した。
壁に高そうな絵がかかっているとか、花瓶が高級そうだとか、文字の刻まれた銅版が巨大だとか。
過剰な情報は、遊沙の頭に入ってこなかった。
ただ綺麗で!清潔な!場所。
それだけで心が躍るには十分だった。
「私、夢があるんです!」
「夢?ですか」
「はい!お金を貯めて、帝都に行って、そして家を買うんです!」
憧れの世界に高揚した遊沙は、前のめりに夢を語った。
「大きな家が欲しいんです!」
「大きな…5階建てくらいのですか?」
「い、いえいえいえいえ!1階建てで十分過ぎます!」
「そんなに首を振る程の事ですか?」
「あ、でもお風呂とトイレが付いて、キッチンとか部屋とかあったら、に、2階建てとか必要かも……?」
「それ位のスペースは必要かもしれませんね」
「ほ、本当?じゃあ、私の夢は2階建てで!」
「二階建てが夢……ねえ。やっぱりスラムの女は安いな」
「?何か言いました?」
「いいえ。その夢が叶うように、私も手伝わせて貰いますよ」
「ありがとございます!」
案内役は生暖かい笑いを浮かべながら、豪勢な扉の前で足を止めた。
暫く遊沙の手の甲を親指で摩っていたが、名残惜しそうに手を離した。
「到着しました」
「しましたか!」
「この扉の奥で、部長の吉見がお待ちしております」