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煉獄《紅蓮終期》

 「……ッ!!」

 ハッとなって思わず目を開ける。ぼやけ切った視界では認識しづらいが……自室のベッドの上だ。白い質のいいシーツが、温い汗を吸ってシワになっているのが指や身体に触れて伝わってくる。スースーと言う栗丸の寝息が聞こえてきて、これがたしかに、現実なのを理解した。全身に汗をかいていて、休むためのゆったりした寝間着がそれを吸いこんでじっとりと湿り、皮膚に張り付いて気持ちが悪い。長く深い溜息が漏れる。頭の中で聞きたくもない声が反響し、振動して染み込んでくる。蝕まれる。頭の先から足の爪の先まで。金属を腐らせるようにどす黒い恨み言が侵食してくる。

『お前が忌子だからだ。幼いうちに殺しておけばよかったのに生かしておいたから皆んな殺される。忌子のせいでみんな殺される。お前のせいで。お前が全ての災いの元だ。赦してなるものか。』

何年経ってもその夢が俺を捕まえて離さない。村中に火を放たれて、焼け出されて逃げ惑う村人達を帝国兵たちが待ち構えて殺していく。焼けていく家から逃げ出せないまま焼け死ぬ奴もいた。俺達の両親のように。火に巻かれ、逃げることが叶わないと悟った両親は、俺と兄貴に生きて逃げろと伝えてそれきりだった。燃え盛る家共々、それこそ生きたまま骨になるまで焼かれ続けたんだろう。助けたくても、何の手立てもなく。俺と兄貴はどうすることもできずに逃げるしかなかった。長が囮になって帝国の連中を引き付けている隙に、村を何とか逃げ出した。燃え盛る音に、追いかけてくる足音に混じり、裏切りの者と罵る思念が山ほど溢れてきて俺に流れ込んできた。

『助けようともしなかった、親ですら見捨てて逃げた。お前が忌子だから村は滅ぶ羽目になった。お前の安息を赦さない。永遠に生きたまま焼かれ続けろ。』

俺のせいじゃない……。

 アレを手引きしたのは同じ一族の迅と言う奴で俺は本当に何も知らなかった。それこそ俺がアレを手引きしたのなら両親を死なせないように裏で工作もしただろう。現実はそうじゃなかったんだ。村を焼いて多くを殺して滅ぼしたのは迅のやつだ。それなのに。お前のせいだと呪詛を吐かれ続ける。
村を出て逃げる途中で兄貴とも別れた。生き延びるために。追っ手を二手に分けて逃げるために。一緒に居たかった俺は兄貴の手を掴んでいたが、兄貴はその手を振りほどいて離れていった。振り返ることもなく。

『ほら見ろ、お前が忌子だから。悍ましい力とさして見えもしない目のせいで足手纏いになるから兄にすら棄てられる。そのまま独りで朽ちてしまえ。』

五月蝿い……。

 体が震えてきて、息の乱れが酷くなる。俺を呪う言葉が止まることなく渦巻いて聞こえてきて気が狂いそうになる。頭を抱え込んで知らぬうちに小さな唸りを上げていた。これ以上、狂えって言うのか。俺はもう十分に狂ってるのに。うまく呼吸出来ないまま、ヨロヨロと立ち上がって自室から出て、ふらついたまま辿り着いた台所で水を飲む。喉が焼けるような、乾きのせいでひりついて感じるのを水でどうにか湿らせようとする。たしかに水を飲んだのに、喉を通り過ぎて胃に落ちていったのに喉の焼け付くような渇きは消えていかない。どうして……。ふっと自分の手が火に包まれるような幻覚を見て息を呑んでしまう。焼かれ……て……?

『煉獄で焼かれ続けろ。災いを引き寄せる忌子め。』

 俺が、俺が何をした?ただ生きていただけで何もしてない。アレは俺のせいじゃない。俺は……俺は、何、も。

 息をうまく吸い込めなくなってきて、気道の細くなったとわかるヒューっという音が喉から漏れてくる。空気を奪われる。内側から燃やされる。違う……俺は何もしてない……俺のせいじゃない……!どうして……村を焼いた奴は、皆んな殺そうとした奴は俺が殺したのに。父さん達を死なせた迅は、倒して仇はとった。それなのに。俺じゃない……俺じゃないのに……元凶を殺してもまだ、アンタ達は俺を呪うのか……?違う……俺のせいじゃない……!

 手足の先から、胸の内側から火が立ち上る。燃やされる。同じ目に合えと消しても消しても気づけば火がそこにある。俺にしか見えない火。俺の事しか燃やそうとしない火。燃え移る事も無いが消えてしまう事もないまま全身火に包まれて焼かれ続ける。そのまま彷徨い続けろと嘲笑う声が響いてきて。

『お前に救いがあるものか。煉獄で焼かれながら彷徨い続けろ。立ち止まるのも座るのも眠るのも死ぬのも赦しはしない。』

どうして

 村の掟を破った事も確かにある。一度きりだが、外の者を助けるために彼らを村へ招き入れた。余所者はすべからく追い払い、排除するのが掟だった村に、余所者を連れ込んで介抱したのは確かだ。長の許しも得て、周りの連中には関わらせないようにしながら彼らを手当てして、死なせまいとして、命を助けたアレ一度きり。村の掟より人の命の方に天秤を傾けた事を、俺は間違えたとは思っていないし正しいと思ってる。だからこそあの一度きりの掟破りで、永劫呪われるとは思っていない。村で暮らしていた時だって、俺はお前達に関わらないようにしてきたじゃないか。何が、何が気に入らないんだ。影のように暮らして、村にいるのに居ないかのように暮らしてきた。関わりを持たないように、目立つ事がないように。影からコソコソ忌子だと罵られるのを、それで気が済むなら勝手にしろと咎めた事もない。なのに。お前達に助けてほしいと思った事だって無い。どうせ助けてくれるわけもないと知ってるんだ、当然だ。だが恨まれる覚えだってない。何故……何故お前達に赦されなきゃならない……恨まれる必要も無い筈だ。俺が何をした……。お前達に赦しを請う必要なんかないのに。

『赦しなどない。お前は忌子だ。それだけで永劫赦されない。生まれた時に殺しておくべきだった。』

 あぁ……いっそそうしてくれて良かった。母さん達は辛い思いをしたかもしれない。けど初めから終わりにしてくれていたら、きっと今こんなに苦しまずに済んだ。……今となっては死ぬ事すら赦してもらえない……。苦痛と苦悩を、絶望を目一杯、背負わされたまま煉獄を行かなくてはいけない。……誰なら、助けてくれる……?燃えたまま彷徨う姿を誰も知らないのなら、誰も助けようとはしてくれないだろう。俺にしか見えない。この生き地獄は俺にしか認識出来ない。救いの手なんか有るはずもない。……いつまで焼かれていれば良いんだろうか……。何処まで足を引きずりながら歩いていけば良い。終わりは何処に有る?俺の終わりは何処に。……もう終わらせてくれ……。……何処へ、何処へ行けば……誰に願えば……誰に縋れば……誰に……。……助けてくれ……俺は休みたい……。……助けてほしい……救いなんぞとっくに諦めているから……《終わり》が欲しい……。

 ふらふらと無意識のうちに自宅を出て、覚束ない足取りでそれこそ彷徨うように歩く。何人かすれ違った夜中が勤めの時間の町人達は俺が幽霊のように見えたかもしれない。生気のない、正気でも無さそうな男がヨロヨロと先を行く姿は不気味だろう。何処を目指しているのか良く分からないまま足は止まらなかった。立ち止まりたい。座り込んでしまいたい。それこそ倒れてしまいたいのにアンデッドの如く足だけ先へ進もうとする。あぁ……元々アンデッドみたいなものか俺は……死んだように生きているだけなんだから。生きているかの様に死んでるでも間違ってないだろう、多分。寝汗を拭きもせずに真夜中、外に出てきたから身体が冷え始めているのに、あの火が全身で燃えていて寒いと感じない。冷えているのに、寒さを覚えないまま。何処をどう歩いていたのか分からないまま、ふと気がついた時には焼け落ちた故郷に立っていた。どうやって俺はここに辿り着いた……?海を渡ったりしなきゃならない筈なのに記憶が定かじゃない。帝国に支配されていたドマとアラミゴを解放してから、幾度か兄貴とここへ来て捨て置かれたままだった遺骸をかき集めて石碑を用立てて供養した。焼け落ちた家々も、仲間達が手伝ってくれて多少片付けた。それでも荒れたまま、襲撃されて焼かれたままの村。不気味な程に静かで誰も居はしない。巻き添えで焼かれた森の木も、年月が過ぎるうちに若芽が伸びて息を吹き返している。その木々が夜風に吹かれて葉を鳴らす音に、虫の鳴き声に梟の声。凍りついた沈黙に染み込んでくる音には人の営みも気配も無い。俺の細い呼吸と、ふらついた時の足音くらいが人間の立てる音として微かに鳴るだけ。

 どうして此処へ……今の俺には悪夢でしかない。此処に居たくない。今俺がいるべき場所は此処じゃない。ずっと頭の中を巡る憎悪の声が激しくなってザワザワと膨れ上がり始めたのも分かる。違う……俺は……俺は忌子なんかじゃない……違う……!

 頭を抱え込む。五月蝿い……五月蝿い……!!俺は何もしていないのにお前達は俺を虐げ続けたじゃないか。まだ足りないとでも?もう沢山だ。それこそ殺しておけば良かったと言うなら今ここで殺してくれ……!何度死のうとしてもお前達はそれを赦さなかったじゃないか……。何度も何度も死のうとしたのに……!お前達は死ねばよかったのにと言いながら無理やり生かして俺を苦しめるのか。死なせるより、殺すより、中途半端に生かして苦しめるのを選ぶのか。もう、もう充分だろ……手を離してくれ……!せめて、せめて眠りくらいは返してくれ……。

「……ぁ……あ……!」

 喉から唸りが漏れる。眠りたい……休みたい……。何度も何度も死のうとしたのに……死なせてもらえない……。眠らせてもらえない……休ませてもらえない……。燃え続ける。身体中を余す事なく炙られる。酷く熱くて苦痛なのに気を失うこともできない。夜の空気に寝汗が冷え切って凍り付くように感じるのに、同時に芯まで焼き尽くされるような熱に襲われる。それなのに焼き尽くされる事は無い。憎悪の声が内側を浸食して腐らせていくのに、完全に腐り落ちて崩折れる事もない。生かされながら殺され続ける。息の根を止められる事はないまま、死ぬ寸前の苦痛を与えられ続ける。何度も何度も繰り返し。煉獄で焼かれながら彷徨えと、その言葉の通りに救いのない拷問が永遠と繰り返される。……全て取り払って生きていくような救いなんぞいらない……苦痛のまま焼き尽くして、ぼろぼろに崩壊させて灰にして捨て置いてくれ……。誰からの慰みも弔いも要らないから……救いなど諦めているから……。だからもう、俺を放っておいてくれ……。ゴホッと咳が出る。一度出たらそれを皮切りに止まらなくなった。ゴホゴホと咳混み過ぎて、胃液を吐くほどに。頭が痺れる。……あぁ、もう、耐えていたくない……耐えられない……。震えたままの手で、寝ているときにも服に仕込んであるナイフを引っ張り出す。もう耐えたくない。なんとか握りしめる。

「刹!!」

 急に名前を呼ばれて、驚いてどうにかヨロヨロしながら振り返る。どうせ大して見えはしないが、人影だけで誰なのかは判別できた。急いで家を出てきたんだろう、乱れた服装の兄貴の影が見えた。俺が自宅から消えてるのに気がついたのか。

「なに、を。何をしてるんだ?ナイフを放すんだ。」
「……もう、助けようとしないでくれ……放っておいてくれ……こっちに、来ないでくれ……。」
「刹!!」

落ち着いてくれと兄貴が必死な顔になる。ゆっくりと距離を詰めようとしてくるのを、無意識に後ずさって同じ分だけ距離を取っていた。

「……疲れた……。」
「ならゆっくり休めばいい。だから自分を傷つけようとしないでくれ。消えてしまおうとしないで、俺達を置いていかないでくれ。」

置いて行くなと言われた途端に、暗い、刺々しい感情が湧き上がるのが自覚できる。酷く醜悪で、勝手すぎる怒りが滲み出る。ダメだ……これは、口にしては駄目なモノだ。ずっと黙ってきたじゃないか。駄目だ……。兄貴を責めたくない。優しいこの人を攻撃したくないのに。あの時抱えてしまった絶望感が、一気に膨れ上がって広がっていく。無意識のうちに口の端が持ち上がった。酷く醜悪な、邪悪ともとれる笑みが浮かぶ。楽しいから出る表情では無くて、絶望に負けて壊れた末の、狂ってしまったが故の笑み。ダメだ。壊れた。今の俺は正気じゃ無い。

「……兄貴はあの時、俺を置いていった。」
「!?刹……?」

 あぁ
駄目だ。伝えてはいけないのに。止まれない。止められそうにない。俺しか止められないのに、肝心な俺が壊れていて何も出来ない。ヒビ割れて砕けた箱から、隠し通してきた膿混じりのドス黒い血が溢れて止まらなくなる。それを塞いで漏れ出さないようにする事が今の俺には出来ない。それどころか真逆の、全て砕いて粉々にしてもう全部垂れ流してしまえと箱を叩き潰してしまう。血も破片も混じり合ってぐちゃぐちゃにしながら。止まれない。止められない。

「要らないから、足手纏いになるからだったんだろう?なのに、自分は置いていくなと?」

 そう言葉を浴びせた瞬間、兄貴が見たことの無いような顔をする。絶望と悲痛が混じり合った、酷く悲しそうでありながら驚愕もしている顔。少しの沈黙の後に、そんなつもりは無かったと弱い声で応えるのを見て、自棄になっていた俺は笑った。《俺にはそうだった》と。生きて欲しかったからこそ二手に分かれようとしただけで、それ以上でも以下でも無かったと絞り出す兄貴を、俺は酷く醜悪な気持ちで見ていた。都合のいい事を言う人だな、と。俺は一緒に居たかった。兄貴にならば苦痛を話せるし、頼らせてくれる。焼け出された村を逃げるときに聞こえてきた俺を呪う言葉の事も、聞いてもらうつもりで居た。彼奴らは俺のせいで村が焼かれて自分達が死ぬ羽目になったと俺を呪ってきたと、俺は何も知らないのに俺のせいにされているのを、伝えてしまいたかった。兄貴なら、ソレを否定してくれると思ったから。でも。伝えられなかった。何一つ。去っていく背中に手を伸ばすことさえ出来ないまま、置いていかれた。置いて……。

「頼る人もいない、何も知らない土地に碌に見えない俺を放り出したのに?……あの時、死んでいた方が俺はこんなに苦しまずに済んだ……!」
「刹……。」
「……あぁ、そうやって、哀れんだ目で見ないでくれ。そうだ最初から全部俺のせいなんだ。父さん達が苦労したのも死んだのも村がああなったのも全部!」
「なに、何を言って?そんな筈が無いだろう!?」
「俺が忌子だから、厄災を呼び寄せる。どいつもこいつも俺を呪いながら死んだ。俺のせいでみんな死んで村が滅んだと俺を呪った。だから俺は死ねないし休めないし眠れない。」
「どう、して。違う。お前は忌子なんかじゃ無い!厄災を呼ぶ?そんな訳があるか!」
「……でも置いていったじゃ無いか。俺を、独りにして。手を振りほどいて振り返りもしなかった。……俺がいると邪魔になる。足手まといは要らなかったんだろ?」
「違う……!!俺は、俺はただ助けたくて……!俺が囮になっておけばお前だけでも助かると思っただけで疎んだんじゃない!!」
「……皆んな俺を置いていく……俺を置いて俺の行けない所へ行ってしまう……。アンタですら俺を棄てた。棄てたじゃ無いか……!ッぁはははッ……!誰も!誰も助けてくれないじゃないか!最後にはゴミ屑みたいに棄てられる!なのに消えるな?棄てたのに?あの時死ねば良かったんだ……!呪いごと、俺だけ死ねば!俺だけ死ねばよかったのに!アハハハッ!」

 歯止めが効かなくなって、笑いながら抱え続けてきた絶望を吐いてしまう。こんな話をしても何もならないのに。兄貴を傷つけるだけなのに。優しいこの人を、追い詰めるだけなのにもう俺自身が止めることが出来ない。しまい込み続けた絶望と歪んだ被害妄想が、堪え切れなくなって次々に溢れ出て吐き出してしまう。独りになりたくなかった。一緒に居たかった。それを伝える事すら出来ないまま逸れて、呪いの言葉を浴びせられたばかりだった子供の俺はどうにも出来なくてそのまま呪いを受けてしまった。あの時。嫌だと言えたら。一緒に居たいと兄貴を追えていたら狂わずに済んだのかもしれない。結局、俺のせいでしか無い。自業自得なのに。全部俺が悪いのに。離れたくなくて俺から掴んだ手を、兄貴は振りほどいたのだ。そうでもしなければ俺が離れないと思ったからだろう。だが、無理矢理、手を解こうとするなんてされた事が無かったからこそ、俺にはそれが衝撃だった。無理矢理、力づくで振りほどきたくなるほど俺は邪魔なのか。俺が……嫌いなのかと思い込んだ。あぁ、最後には、誰より頼りたい人にまで忌子として棄てられるのか、と。そしてそのまま、振り返る事なく俺の側を去ってしまった。俺の事を確かめもせずに、足を一度も止める事なく。……。置いていかれた。気に留めてもらう事もなく棄て置かれた。……誰も、俺の側には居てくれない。だってそうだ、俺の側にいたら皆んな呪われる。薬士達のようになすすべも無く殺され、両親のように逃げ遅れて死に、長のように取り残されて死ぬ。

 だから
兄貴でさえ俺を棄てて去っていく。

 皆んな皆んな死んで、去って行って。残された俺は、一体何なんだ?どうして生きている?誰からも必要とされないなら、居るだけで禍になるのなら、どうして生きている?

「刹……!!」
「……煉獄を生きたまま焼かれて歩かされ続けるんだよ、凄いだろ?消しても消しても火が消えないんだ。あはははッ!止まる事も座ることも休む事も寝る事も死ぬ事も出来ないまま、ひたすら彷徨い歩くんだよ、めちゃくちゃだろ?……もう耐えたく無いんだよ。」
「だったら消す方法を探そう。呪いを解く事を考えればいい。だから……。」
「……耐えたく無いって言ってるだろ……。探すのも解くのも、方法が分かるまでまた耐えなきゃならないんだよ!もう、もうイヤだって言ってるだろ!!」
「刹……!」
「誰にも、分かってもらえない。俺にしか見えてないから。《此処には俺しか居ない》んだよ。助けて欲しいのに、誰にもそんな事出来やしない。……例え見えたとしたって、アンタでさえ俺を棄てんだ、誰も手を伸ばしてなんかくれないんだよ。ははははッ……!!アハハハ!!」

 散々探した。どうしたら眠れるのか、呪いが解けてくれるのか。好きでもない俺を呪った連中を弔えば良いのか、仇を打てばいいのか、思いつく限りのことはしてきた。それでも何も変わらなかった。炎は俺を焼き続けるし、休ませてもらう事も結局出来はしない。耐えながら、こらえながら、呪いを解きたいと足掻いてきたのに。何も変わらなかった。どうして、こんなに耐えていなくちゃいけない?俺が何をした?生きていただけなのに。狂った笑いが止まらない。何一つ楽しくはないのに。愕然とした顔の兄貴が、それでも俺を止めようとする。何か言われているらしいのだが正気が一時的ながらも崩壊してしまった俺にはその言葉がもう理解できなかった。

「終わりにしたい。全部。生きてても何にもならない。苦しいだけで。」
「駄目だ……。」
「死なせてくれ。」
「駄目だ、駄目だ!!刹!!」

 何か兄貴が叫ぶのは分かったが、それだけで何を言われたのか分からない。勢いよくナイフで胸を刺した。兄貴の手が伸びてくるがそれよりも俺が自分を刺すのが早かった。血が溢れ出して痛みが広がり始めて少しだけ空咳が出る。胸元を抉ると同時に乾いた咳が湿ったモノに変わって血と唾液を吐いた。胃液も混じってるだろうが。兄貴が俺の片手をつかむのが分かる。抉り続けようとする手を掴まれて動かせなくなった。どうして。どうして邪魔をするんだ。俺は眠りたいのに。アンタまで眠りを赦してくれないのか?

「死なせたく無いからに決まってるだろ!」

 俺は死にたいのに。もう解放して欲しいのにどうして。こらからも焼かれろって言うのか?これから先も苦しみ続けろと?もう沢山苦しんで焼かれ続けたのに。もう厭だ……耐えられないんだ……耐えたくないんだ……。

「……寝させてくれ……。」

 細い声で絞りだして、兄貴の手ごと無理矢理引っ張って強く胸を抉る。そのあたりで意識が明滅し始めて手からも力が抜けた。あぁ、《今度こそ》死にたい。頼むから死なせてくれ。もう疲れたんだ……休みたいんだ……俺は生きてちゃいけないんだ……だからお願いだ……死なせてくれ……。

 景色が歪み始めて掠れてぼやけ始めて。膝が崩れ落ちてそのまま受け身も取れないまま土の上に倒れこんだ。泥が跳ねて口に入ってしまった。咳も止まらないから吐き出したり飲み込んでしまったりとめちゃくちゃだがもう構わない。元々大して見えない目が、どんどん見えなくなって行く。角が拾っていたいくつかの音も、聞こえなくなって行って何もかも曖昧になり始めた。……ぁあようやっと……気を失える……。気を失うことすら簡単にはさせて貰えない。このまま、目覚めることがなければ良いのに……。


 誰かの声が聞こえる。泣き声?誰かに触られている感じもする。自分が生きていると悟って愕然となる。……どうして……どうして死ねないんだ……。死にたい……死にたいのに……。

「……気がついたな……?」

低い、抑揚のない声。誰だったかこの声は。酷く無感情な声だ。眩しく感じて目を開けられない。静かな声はジーキルだと知らせてくる。仮眠しているが側に兄貴とレンもいる、と。冒険者仲間の、ジーキル。俺にとっては冒険者の先輩であり父親や兄のような、そう言う位置付けの人だ。無感情に話をするのは彼の癖のようなもので、別に無感情ではない。ただこう言う人と言うだけだが、今はその無感情な音の方が聞いていて気が楽だった。酷く心配そうにするわけでなし、怒ったり悲観したりしているわけでもない。ただ淡々と目を覚ましたかと確認してくるだけの事。

「……細かな話は今は良い。お前の方も聞きたく無かろう。」
「聞きたくないだろうけど言っとくからな、この馬鹿野郎……!」

ジーキルと似た、それでも彼より高い声が割り込んでくるのが分かる。ジーキルの双子の弟であるメッシが、弱々しい力で俺の手を一度だけ握ってきて、何か他に言いたいのを飲み込んでいる。ジーキルと正反対の、快活を絵にかいたような人だからきっと酷く心配して怒っているだろう。彼は……それこそ、俺が村の掟を破って助けたその人だ。お前は私の命の恩人だからと俺のことを大事に扱ってくれるような。傍にいるだろうジーキルが、メッシに静かに今はそれ以上、何も言うなと伝えているのが聞こえてくる。それに対して、分かってると応えてメッシが足早に近くから去っていく足音がした。それを見送ってからだろう。ジーキルが一度、息を呑んでその後に、深いため息が聞こえてくる。その吐き出した呼吸に、僅かながら涙が混じっていると感じ取れた。あまりはっきりと感情を表に出さない人が、泣きそうになっているのが分かる。飲み込んだ息の中に、彼なりに零したかった言葉があったのだろうとも感じ取れたが彼はあまり多くを口にはしなかった。

「……お前が消え去るのは、私は哀しい。」
「……。」

 その言葉だけを告げて、医師を呼ぶから、そのまま大人しくしていろとジーキルが軽く、俺の額に触れてから去って行く気配がする。同時に寝ていると話していた兄貴とレンが起き上がってくる気配も感じ取った。ジーキルがこの部屋から出る前に声をかけたんだろう。すぐに二人分の気配が近づいてきて、二人ともに手を弱く握られる。

「……なんてことすんのよバカ……。」

弱い泣き声で、レンが絞るように言うのが聞こえる。キュっと俺の手を握る力が強くなったのも分かる。その手が小さく震えているのも。……。死ねなかった。どうして……?もう十分だろ……また焼かれながら生きないといけないのか……。何も応えられない。口を開いても今は死にたい想いを零してしまうだけと分かっている。どうして……どうして《いつも》助かってしまうんだ……。俺は死にたいのに死なせてもらえない……。眠りたい……休みたい……。どうして……。

「……本当に、ごめんな……ごめん。」

兄貴が泣いているのを、隠しもせずに謝るのが聞こえてくる。俺が置いていったと、棄てて行ったと罵った、あの事を謝っていると分かる。……伝えてはいけなかったのに、とうとうぶつけてしまった。二手に分かれたあの時に、俺が忌子で目も悪くて足手まといで邪魔だから置いていかれたんだと思い込んだ、被害妄想でしか無い事を、とうとうぶつけてしまった。責めたいわけじゃ無いのに。ただの八つ当たりだと分かっていたから隠し通すつもりでいたのに。……謝るのは俺の方なのに、声を出す気にならない。口に出るのは死にたかったのにと、歪んだまま死を望む言葉ばかりになりそうで。

「……俺はただ、生き延びて欲しかっただけなんだ……。なのに、追い詰めただけで……本当にごめんな……。」

……独りになりたくなかった……。あの時、逃げるのをやめて、クガネを目指すのを諦めてあのまま野垂れ死んだ方が良かった。こんなに歪んでしまうくらいなら、歪みきる前に死んだ方が楽だった。約束をしたから、また兄貴と生きて会うために生き延びると約束したから、それを守りたくて生きようとしたが、それが恐ろしい程に負担になって苦痛になった。だって俺は置いていかれたじゃ無いか。棄て置かれたのに再会の約束を守って何になる?もう一度棄てられるだけかもしれないのに。でも。約束をした。兄貴はたしかに頼れる人の筈だと、正常な俺と狂った俺が鬩ぎ合う。もう今となっては正常な俺なんてカケラくらいしか残ってないんだろう。それ程に、日常的に死にたいと感じている。それが普通だと思うほどに。皆んな、死にたいと思いながら生活をしてないと知った時は本気で驚いたんだ。皆んなは死にたいと思ったことがないのか?こんなに生きるのが苦しいのに?理解出来ない。

「でも頼むから、死のうとしないでくれ……。また別れる事になるなんて俺は耐えられない……。」

ギュっと兄貴の手が、強く俺の手を握る。再会した後、新しい約束をしていた。今度こそ、長く一緒に暮らそう、と。分かれてしまわずに済むように。その約束を結びながら、腹の奥底で渦巻いていた暗い、歪な絶望は燻り続けた。今度こそ一緒に?置いて行ったのに?俺を独りにして、棄てて行ったのにどうしてそんな約束をする?要らないんじゃないのか?本当は俺が邪魔なんだろう?ぐるぐると混沌とした想いに引っ掻き回されて、違うと自分で否定を繰り返した。被害妄想でしか無い。兄貴はそんな人じゃない。そうと分かっているのに、事あるごとに逆恨みする気持ちも持ち上がってしまう。違う……追い掛ける選択を出来なかったのは俺自身なんだ。待ってくれと、置いていかないでと訴える事すら出来なかったのは俺自身なんだ。二手に別れる事を分かったと応えて、消えて行く兄貴を追い掛けられなかったのは、俺がそれを選んでしまったからで。……兄貴は悪くない。俺が選択を間違えた。縋りつけばよかったのに、出来なかっただけで。……。

 ジーキルが医師を連れて戻ってきて、傷の確認や手当をされる。運び込まれてすでに数日は経ってるらしい。その間、当然俺の意識は無かったから実感はない。胸元の痛みだけは確かだし、間違いなく俺はここを刺した。なのに。医師が手遅れでおかしくなかったと言う。応急処置をして、ここに運び込まれて来た時、ほとんどの医師はもう駄目だろうと思ったそうだ。だがそれでも幻術と医師としての治療を施していたらなんとか持ち直して今に至っている、と。奇跡的に助かった、と。……奇跡的に……?その言葉をもう何度聞いたか。死のうとした時も戦闘で重傷になった時も、もう駄目だろうと言う怪我からいつも回復して死にはしなかった。奇跡的だと医師たちは口を揃える。助けられるとは正直思わなかった、と。……俺は死にたいのに、いつも助かってしまう。……死なせてもらえないんだ……まだ……。何時になったら死なせて貰えるんだ……。何時になればその奇跡とやらは起きなくなるんだ。頼む、もう自由にさせてくれ……。閉じたままの目から、一筋だけ涙が落ちた。助かる度に皆に負担をかける。死に切れてしまえば気を揉ませることも無いのに死に切れない。医師たちが手当ての確認をして俺の容態を確かめてから、また時間が来たら見に来ると去って行く。具合や気分を聞かれたが到底答える気になれなくて無言のまま、過ごしてしまった。ジーキルが察したように声を出せる心持ちにないと説明してはくれたが。

「……私は一度席を外そう。メッシも外に待たせている故な。」
「ありがとねジーキル。メッシにも伝えて。」
「何かあれば、呼んでくれれば良い。」

ちらと俺の方を見てから、ジーキルが部屋を辞して行く。静かなままの気配と足音で、まるきし影のように立ち去るのが分かる。メッシはきっと、ここにいたら辛くて、俺に怒ってしまいたくなるから部屋に戻ってこないのだろう。ジーキルもそれを理解しているから外で待たせておいて、これから一緒に帰るらしい。……見舞いにきてくれていたのに、俺がおかしな状態なせいで追い出してしまったかのようだ。でも今の俺には、普段なら嬉しいはずの友人の気配ですら負担だった。疲れる。ヒトの気配があるのが。誰かが疑問もなく生きている姿を感じ取るのが、それだけで疲れる。

「……話したくなるまでなんも言わなくって良いから。」

レンが、何時もよりも穏やかな声を出すのが聞こえる。彼女の声は何時でも力強いのだが、時々こうして柔らかな声に変わることがある。相手を少しでも《和らげたい》時や慰めたい時に。……悲しませたくなはい。パートナーである彼女を悲しませたくはないのに、死んでしまいたいのも本心で。彼女だけじゃなく家族や仲間たちはきっと、俺が死ねば悲しむんだろう。俺なんぞと付き合い続けてくれる優しい人達だ。皆んなを悲しませたくはないのに、でも俺は死にたい。彼らの中から俺と言う存在が、記憶から消えてしまえれば遠慮なく死ねるだろうか。そうまでしてもまだ、死ねずに終わるだろうか。腹の底から、ゼロから百まで気を違えて仕舞えば、狂い切って仕舞えばそんなもの御構い無しに死にに行けるだろうか。いっそ完全に《俺が壊れて仕舞えば》楽であろうに。まともな部分がカケラでも残っているが故に、大事な人たちを見る目も残り続ける。これも見えなくなって仕舞えば、自棄を拗らせて彼らの事を顧みる事なく死ねるかもしれない。……どうしたらいいのか、もう解らない。

「劉にぃはお水だけでも良いから飲んで来て。朝からなんも食べてないんだから。」
「……分かった。」

泣き腫らした震えた声で返事をして、兄貴が一度、俺の手を強く握ってから部屋を出て行く。ここはクガネの近くにある東方の病院で、容態が安定するまで入院する事になっているとレンが説明をしてくれる。安定してきたら西の実家近くの、いつも行く病院に引き継いでもらう予定だ、と。移送に耐えられる体調に戻るのを、ここでしばらく待つことになる、と。

「……死にたかったのは承知で言うけどさ、助かって良かった。」
「……。」
「私はアンタに死んでほしくないもん。」

微かに震えた声で、レンが伝えてくる。俺に死んでほしくない、助かって良かったと。……。慕ってくれるようになったのは彼女からで、何かある度に俺のところに来ては話をするのを繰り返しているうちに一緒に居たいと請われて、断る理由も無く、一緒に居るのは楽しいと思ったのも本当でパートナーになった。俺が時々、破滅的な行動をとるのも承知で隣に居ようとしてくれる。死にかける度に直ぐに駆けつけて、長く側に寄り添おうとしてくれる。……優しいヒトだ。なのに俺は……死を眺めるのを止めることが出来ない。常に死ぬ事が頭の片隅にあって、それが何時成し遂げられるのかを何時も何処かで夢想している。慕ってくれる人を目の前にしてすらそうなのだから、やっぱり俺は何か壊れているんだろう。それが、何が壊れているのか、自分ですらもう分からない。……彼女を、俺から遠ざけた方が良いのでは無いかと思った事もある。だが、何時だか、死にたがってしまう俺からは離れて良いんだぞと伝えた時、彼女には酷く怒られた。一緒に居たいから此処にいるのだ、と。

―アンタがどう言う苦しさで死にたいのか解ってないけど、死のうとするなら意地でも助けに行くからね。私は死んでほしく無いもん。―

苦しいのならそれをちゃんと話してと、何度も言われたのだが話す気にはならなかった。話してなんになる。俺のこの歪んだ痛みは歪みすぎててとても人に話せない。なにせ俺が全部悪いのだから。色々なことが絡み合ったのも事実だが、それを狂った目で歪めてしまったのは俺自身で。ならそれは全部の俺の責任だ。俺が何もかも悪いのに、零したところで結局は俺のせいだと再認識して終わる。百も承知な事を反芻する必要なんか無い。何も変わりはしない。何も。

 黙って彼女が側にいるのを感じながらしばらく、兄貴が部屋に戻ってきた音がした。レンがちゃんと水を飲んだのか念を押して確認するのに、きちんと飲んだよと弱い声で返事をしていた。

「ちゃんとご飯も食べてよ。」
「……夜に何か食べてみるよ。」
「お粥とかでも良いんだかんね。」
「……試してみる。」

会話の内容からして、兄貴は食事が喉を通らなくなったようだ。食わなきゃ倒れてしまうだろうに、俺よりずっと頑丈とは言え。ゆっくりベッドに近寄ってきて、椅子に座る音がする。そっと、手に触れてきたのも。

「……ごめんな……。」

弱々しい声。涙は相変わらず流しているらしい。……こんなに泣かせてしまった。どれほど傷つけてしまったろう。生涯黙っていようと思っていたのに、出来なかった。兄貴を責める言葉は零しては駄目だと思っていたのに。……こんなでは誰も、幸せになれない。死に切れてしまえばそれで終わるだろうに終われないまま。これだけの回数死ねないのなら、せめて眠りだけでも返して欲しい。意識を持たない時間がもっと欲しい。休める時間を、眠りにつけるという当たり前のはずの時間を返して欲しい。悪夢を見ずに眠る事が出来たら、どれ程、気が楽になるか。眠りにつけたとしても、何も見ていないのは僅かな時間で直ぐに悪夢に連れて行かれる。それを見ていたく無くて、飛び起きるように目を覚ましてしまうのを繰り返して。……もう、どうしたら良いのか分からない。生きているのは俺が辛いし、死んでも誰かしらを苦しめるらしい。……。……解らない。

 側についてくれているレンや兄貴は愚か、時折診察に来る医師とも、会話する事なくただ黙って過ごしてしまう。ベッドから起き上がる力もないのは、たしかに身体に負荷をかけたからなんだろう。胸を刺したのは夢だったのかとも考えたが一応、間違いなく俺は自分を害したらしい。痛みもあるし手当てされて包帯がぐるぐる巻かれている。決まった時間になると注射をされたがアレが何なのかはよく分からない。レンと兄貴には説明されてるんだろうが聞く気にもならない。回復を前提にした何かなのは間違いない筈だ。俺は助からなくて良いしこのまま弱って死んで良いのにと、どうしても思ってしまう。医師たちは基本的に命を助けるのが仕事だから、彼らは勤めを全うしているだけなのだが。横たわったままぐるぐると考え続けてしまう。なぜ死ねないのか。死にたいと願うのは間違いなのか。でも俺は死にたい。死にたくて死のうとしてもこうして生き延びてしまう。呪殺される方が良いくらいなのに俺が浴びた言葉は死なせてくれない呪いだった。休むのを、眠るのを、死ぬのを、許さないという。殺されるよりも残酷じゃないか。12〜13歳のガキにそんな呪詛を吐けるんだからアイツらはロクな連中じゃない。それ程、無念だったろうとは解るがだからと何も知らない俺が呪われる筋合いなんぞ無かったのに。……生まれてきてはいけなかったんだ、俺は……。

 日毎、体の傷は回復していった。ベッドの上でなら上体を起こせるようにはなった。ならなくて良いのに。回復しなくても良いのに回復していく。未だに、声を出す、喋る気力は無い。会話する気力は戻らない。それでも医師たちやレンや兄貴、時々見舞いに来る仲間達は俺の返事がなくてもアレコレ言葉をかけてくる。その全てが気遣いで優しいモノなのに、絶望から抜けていない俺には虚ろに聞こえてしまう。がらんどうの器に放られた言葉は、ガラガラとした音を立てるだけ立てて奈落に落ちていく。俺の方に言葉を受け止める力が今は無かった。目を開けるのも億劫のままで、夜暗くなってからわずかな時間、開くだけになっていた。病院が眩しいからと言うのもあるが、もう何も見たく無いと言う気持ちに負けている。見てなんになる……?どうせロクに見えないし見えても虚しいだけになっていた。……本当に、どうして助かったんだろうか……。こんなに無気力な状態で生きていて何になるんだろう。死んだように生きているくらいなら死んだ方が良い。なのに。

自死の危険もあるからと言う理由で、俺が何も答えなくても反応しなくても、誰かしら側にいる形になっていた。それこそ兄貴はほぼずっとそこに居て、時々ポツリとごめんと謝り続けていた。四六時中、側にいたら兄貴の方の身体に障ると仲間たちや医師が何度も家に戻って休むように勧めたが兄貴は頑として動かなかった。……置いていった、棄てて行ったと罵ってしまったあの言葉のせいで、兄貴まで身動きが取れないでいる。この人は本来、とても強い人だ。優しいが強くもある、剛柔と評したら良いんだろうか。それが、罵っただけならいざ知らず目の前で自害しようとしたのを見せてしまったからかこうして側で固まってしまっている。……。どうして俺は、兄貴を苦しませる事しか出来ないんだろうか。子供の頃から俺を散々助けてくれる人を、泣かせて苦しませて。……ごめんなさい……初めから、俺は、居なければ良かったんだ……。

 どのくらい経過したのかよく分からないまま、ウルダハの病院に移送された。船だと一月かかるがテレポを使ったので即座な移動。俺がキチンと詠唱の効果に着いてくるか確かめるために先に飛んだジーキルとメッシが側から消えたあと、レンと兄貴が俺を見ていた。あれからまだ、口を聞けていない。声を出す気力が長く戻らない。こんな状態で飛べるのかと考えもしたが、上手くいかなくて地脈に溶けちまうならそれはそれで構わないかと魔力の波に乗る。幸か不幸か普通にテレポは発動して、見慣れたウルダハの薄暗いエーテライトにたどり着いて居た。久しぶりに空間を移動したのもあってフラフラと目眩に襲われたが先に到着していたジーキル達が当然のような顔でそれを支えてくれる。そのまま支えられて病院へ半ば運ばれるように連れ込まれた。十代の頃。ウルダハに転がり込んだ頃から俺を診てくれる先生に無言のままで叱られた。なんの言葉も無かったが半泣きの顔になって俺の肩を一度だけ掴んだのが解る。……俺が自害を試みたのはこれが初めてじゃ無い。先生はそれを知ってる。兄貴やレンが遅れてやってきて、先生とアレコレやり取りをするのを、連れ込まれた病室のベッドに座り込んだまま人ごとのように聞いていた。内容を理解する力もなくてただ話し声がするとだけ感じながら。二人と、ジーキル達がそうして先生と相談なのか報告のしあいなのか、している最中に義理の両親が慌てたようにやってきた。俺を拾って養子にしてくれた育ての両親。大柄なルガディンの夫婦が揃ってベッドの近くまでやってきた。兄貴達から、俺が何をしでかしてどう言う状態にあるのか、恐らくもう散々聞いたのだろう。名前を静かに呼んで、何か言うわけでもなく頭を撫でてから手を握りしめてきた。目を閉じたままでも、解る。

「……苦しかったのね。」

ポツリと養母のスティムブリダが呟くのが聞こえてくる。気づいてあげられなくてごめんなさい、と。……何も悪く無い。スティムブリダは、皆んなは何も悪く無いんだ。俺は苦しかろうが何も言わなかったし悩んでるように見せたことも無い。見せたく無いから見せなかったし、辛いと話したく無かったから話もしなかった。なんでも無いような顔をして過ごしていたのは俺なんだから、気づかれてる方がおかしいんだ。優しくスティムブリダが抱きしめてくる。身体に障るだろうと本当に優しく。……俺はこれ以上無いくらいに親不孝者なのに。実の親どころか育ての親まで不幸にする。俺に優しい人達を、俺のせいで災いに巻き込む。大好きなのに。父さん達もスティムブリダ達も大好きなのに側にいると苦しめる。苦しめるどころか実の両親なんか見殺した。いつかスティムブリダ達も同じ目に合わせてしまうんじゃ無いかと不安で仕方がない。側にいたら迷惑にしかならない。だから一人暮らしをし始めて、金を貯めてどうにか家を持った。それなのに、結局。

「……でもお願い、居なくなってしまわないで……。貴方を亡くすのは嫌よ?」

弱い泣き声で言われて、俯いてしまう。こんな出来の悪い養子を、失いたくないなんてお人好しが過ぎる。俺は何も返せてないのに。力の入らない身体に、どうにかして力を込める。ゆっくり、俺よりも大柄な養母の身体を抱きしめ返した。

「!」
「……ごめん……なさい……。」

どのくらいぶりかに出した声は、掠れて小さな音にしかならない。長く喋らないでいると声は出なくなる。そのせいで酷く力のない声になった。

「謝らなくて良いのよ。でも、お願い、生きていてちょうだい。」

きゅっとスティムブリダが少し強く抱きしめ直してくる。角が当たってしまいそうで怖いのだが構わずに。ゆっくり頭を撫でられるのも感じた。俺が十代だった頃、見ず知らずの土地になかなか馴染むことも出来ず亡くした両親や逸れた兄貴を思い出して真夜中に泣いていた時、同じように抱きしめながら大丈夫と言い聞かせてくれた。私達が側にいるから、独りじゃないのよ、と。それが彼女達自身、実子を亡くして辛かったのを、悲しかったのを抱えていたからこそ出た言葉なのはその当時から知っていた。彼女達が本当に抱きしめたいのは俺じゃない事も。それでも、実の子のように世話を惜しまずに慈しんでくれているのも知っていた。……知っていたのに、あの頃の俺は何度も死のうとした。今よりもずっと頻繁に自害を試みた。その度に彼女達に負担をかけて、心配をかけて。でも、絶望に耐えきれなくてまたやらかすのを繰り返した。成長するにつれて回数は減って、今回は……かなり久々だ。だからこそ彼女達も驚いただろう。落ち着いているように見えていただろうから。

 しばらく抱きしめられたままで居て、ゆっくり離してもらったのはそれなりに時間が経ってからだった。俺を放した後に、横になっていた方が良いわねと寝直すのを手伝ってくれる。側で見ていた養父であるマスター……ウィルフトゥームが遅れて俺の頭を撫でた。お前は何時も何時も頑張り過ぎるから、と。

「全部嫌になったら帰ってこい。皆んな追い払って静かに過ごせるようにしてやるから。だから……だから死のうとなんかするんじゃねえ。」

いつも堂々と、陽気な声で話すマスターが泣き声になっている。震えた大きな手で俺の顔を撫でて、こんなに窶れちまってと辛そうに呟くのが聞こえてくる。

「お前だって一人の人なのに、不滅隊の連中ももう少し考えてくれねえと。」

俺がエオルゼア同盟軍に協力し、あちこちで戦争に参加しているのを、マスター達は知っている。帝国属州だったドマとアラミゴを解放するためにオサード大陸からギラバニア地方まで、本当にあちこち駆けずり回って戦ってきたことを。光の戦士だとか西の英雄だとか、そんな嬉しくもない肩書きを与えられた末に、あちこちの戦場に赴くことを願われて、その通りに前線へ出てきた。戦う事は嫌いではないし、ソレは別に構わないが俺を最後の切り札のように扱かわれるのは気持ちのいいものじゃ無かった。責が重過ぎる。俺は所詮、無責任な冒険者でしか無いのに国を背負わされるなんて荷が重い。一国だけならまだしも同盟国全部の域なのだからタチが悪い。俺を頼ろうとする連中は俺を追い詰めている自覚もない。そこにあるのは信頼と慕いだからこそ面倒な事になる。ドマもアラミゴも、解放は成せた。俺にとってドマの方は故郷に縁ある土地だった。だからこそ解放した後、複雑になった。解放しても俺の両親は別に戻らないし、長や薬士達も戻らない。かつてあった帰る家も、もうそこにはない。戻ってこない、何も。分かりきっていたソレを改めて自覚するうちに精神が陰に引っ張られる感覚になった。両親と暮らしていた頃を思い出し、村が焼かれて自分達だけ生き延びた事を思い出し、その時に浴びせられた恨み言を、呪いの言葉も鮮明に思い出してしまった。毎日のように悪夢を見ていたから常に呪いは感じていたが、だからこそ激しくは自覚しないでいられた。嫌悪のある事でも慢性的になってしまうと自衛の為に鈍くなるのは良くあることだ。それが、あまりに鮮明に蘇ってしまって次第に耐えられなくなっていった。どうして。解らない。何も解らない。
ボンヤリと、横たわったままで過ごす。傷の経過は順調で、まだ跡が生々しいし痛みもあるがきちんと回復していた。傷口が傷むこともなく、感染症にも掛からずに。大事をとるために入院させられている。退院の許可が出たとして、しばらくは西の実家で過ごすようにと先生にも義両親にも念を押されていた。……一人になりたい。まだ不安定だからこそ、今も側には誰かが交代で付いている。でも一人になりたい。今一人にしてくれと言っても、誰も許してはくれないだろう。一人にしたらどうする気だ?と詰め寄られてしまう。また死のうとするのだろうとお人好しな皆んなが心配するからだ。俺なんかそこらで野垂れ死んでも困ることなど無い筈なのに、皆んな心配するから。……早い事、動けるようにしておかないと一人になることもできない。みんなと一緒に居たいのも確かだがいくらかの時間を単独で過ごさないと大きな疲れが出る。身体は回復して来ているとは言え、戦闘を難なくこなす程に戻すのはいくらか時間が必要だろう。

 相変わらず、会話する気力は戻らなくて声も出ない。そんな状態では戦闘もクソもないが戦う事だけは、無意識のうちに出来るようにしておこうと考えていた。家族達にも仲間達にも隠している、戦闘狂の部分はしっかりと此処にあって息づいている。突然湧き上がる殺人衝動も、どうやら表にないだけで維持されているらしい。戦うことも殺すことも、身体が動かなくてはできない。どうせまた帝国との戦争に駆り出されるのだし、動けるようにしておいて損はない。戦場でなら死ねるのでは無いかと同盟軍への協力も惜しみはしなかったが、結局、そういった戦地で重傷を負っても《奇跡的》に助かるのを繰り返すだけだった。死神という奴がいるなら、俺はソイツから嫌われているか、ソイツの目には見えてないんだろう。周りでは同じ傭兵扱いの冒険者や正規軍の奴らが死んでいくのに、俺だけはどうあっても生き延び続けた。ガンブレードからの銃弾を被弾しても、刀でバッサリやられても、魔法で盛大に火傷にされても運び込まれて手当てされれば《奇跡的》に回復してきた。積極的に死のうとせず成り行きで負傷したとしてもやはり死ねない。これが呪われたせいじゃ無いなら一体、なんのせいなんだろうか。

 ウルダハの病院で療養した後に、同じウルダハにある義両親の家に、西での実家に帰った。身体の回復はキチンと出来ていて、問題が大きいのは精神的な方の回復が頗る悪い事だった。兄貴とレンも一緒で、何時もは人の気配の少ない家に少しばかり人の気配が増える。歩いたり日常生活を送るくらいの動きは出来るようになっていたが、とにかく気力が無い。誰かと一緒に過ごすのも苦痛で、食事やらは全て、自室でさせてもらっていた。ただ、先生からの指示もあって一人きりにはさせてもらえない。誰かしら一人が必ず俺の側に居る。兄貴だったりレンだったり義両親のどちらかだったり。それが煩わしいと思える程度の回復はしてきたがそれでもまだ、無気力が先に出ているし感情的な反応は出ない。その日もさして変わりないまま、ボンヤリ自室のベッドで座り込んでいた。何をする気も出なくて、本を読むことも窓の外を見る事も無いまま。リビングの方から色々と音は聞こえてくると分かるのだがソレがなんの音なのか理解出来ないでいた。普段なら理解出来るのだが。だから、その小さな物音がなんの音か分からないでいて、コトンと言う小さな音と共に部屋のドアの一部が開いたのに気付かずに、自分の手を眺めているだけだった。側に居るのはレンで、彼女の方はきちんと物音に反応して振り向いていたが。

「!!!」

大きな声が頭に届いて驚いて思わず顔を上げてしまう。俺を呼んで、見上げてくるその小さいのに気がついて納得もした。栗丸。小さな人間では無い家族。ぽとぽとと音を立てながら栗丸が近寄ってきてベッドへ飛び乗ってきた。ピタリと俺の腹のあたりにしがみついてきてもぞもぞし始める。レンが言うに、栗丸も寂しがっていたし、自宅療養になったから思い切って連れてきたとの事だった。

「!!」

寂しかった、会いたかった、と訴えてきながら栗丸がピスピスと愚図る様な音を出した。……自害しようとしてどの位経ったのか自分では理解出来ていないのだが、栗丸の様子を見るにそれなりに経過したんだろう。返事ができないまま、それでも撫でる。頭の先から尻尾の方へ、背中を撫でると栗丸がぴこぴこと短い尻尾を振ったのが分かる。それから俺の方を見上げてきて半ベソのような顔をして、ぎゅっとしがみつく力をさっきよりも強くした。

「!!?」

―もう勝手にいなくなっちゃダメだぞ!?―

鳴き声を出さない栗丸の、心に直接訴えてくる言葉が響いてくる。詳しくは知らないのかもしれない。俺が何をしでかそうとしたのかを、この子は正確には理解していないかもしれない。それでも。俺を慕う、大好きだから側にいると隠しもせず惜しげも無く浴びせて来る小さな生き物。俺の中の呪いも苦悩も苦痛も絶望も、真っ正面から打ち砕くように酷く真っ直ぐな大好きであると言う想いがぶつかってくる。

―だから側にいたい。側にいる。絶対一緒に居る。栗丸の居る所は旦那の側。―

知らないうちに涙が落ちていく。人間ですら無い、小さな魔物の子供が何一つ歪みのない慕いを浴びせてくる。そこには本当に、慕いと親しみ、愛情しか存在しない。こんな生きている価値のない人間に、この子はそんなものを注げてしまうのか。俺に拾われさえしなければ、違う優しい誰かに拾われていれば、寂しい思いもさせずに済んだかもしれないのに。歪んで狂った俺のような狂人に拾われてしまって、この子の人生まで歪めてしまいそうで怖かった。

「!!」

―栗丸は旦那が良いから旦那じゃなきゃダメだもん!そばにいるもん!―

俺の考え事を察したように、栗丸が小さな手でポンポンと俺の腹のあたりを叩く。人間で言えばいい加減にしろと引っ叩いてくるように。レンにはこの子の言葉が分からないだろうから本当なら通訳してやらないとならないが、今はやはり口から言葉が出ない。彼女は分かっているのか、無理に話さなくて大丈夫だからねと目配せをしてくれていた。頷きだけ返して、そっと栗丸を抱き上げる。ふわふわで柔らかな温かい生き物。

「〜〜!!」

旦那のばかばか!と半ベソになりつつ栗丸が俺の頬を叩いてくる。小さくて細い両手で叩かれたところで痛くもなんともないのだが、ペチペチと手が触るたびに置いていっちゃイヤと、一緒に暮らすんだもん、と訴えてくるのが分かる。……詳しくは理解していない筈なのに、この子は明らかに俺が消え去ろうとしたのを察している。この世から消えてしまいたくて姿を消したのを、感づいている。しばらく俺の顔をポカポカと叩いた後に、ひしっとそのまま顔にしがみ付いてくる。頰や顎には鱗があるから栗丸には痛いかもしれないのに。ゆっくり手を引き剝がさせてから、胸元に持って行って抱きしめる。ピスピスとベソをかく音が聞こえる。ピタリと胸元に、栗丸がしがみついた。柔らかくて暖かい、ふわふわの生き物。俺がマトモな人間であったら、この子に寂しい想いをさせなくてよかったのに。……本当に、俺と言う奴はロクな生き物じゃない。魔物か化け物に生まれた方が良かったろうになぜ人として生まれたのやら。

 しばらくグズグズ言っていた栗丸は、途中で泣き疲れたのか俺に抱えられたまま眠り出してしまった。抱き上げたままでは俺が休めないなと思っていたらレンがいつも栗丸の寝るバスケットを持ってきてくれる。そこにゆっくり寝かせ直してやった。幸い目を覚ましては来ない。グスンと鼻をすするような音が時々聞こえてきた。

「……栗丸はホントに刹のこと大好きねー。」

眠っている栗丸を確かめながら、レンが優しい声になる。心配をしつつ、それでも愛情を込めて見守るような音。

「私もマスター達も劉にぃも、栗丸と同じだかんね?」
「……なんでだ……?」
「漸く口聞いたと思ったらそういうこと言うー、もうー。好きに理由なんかないわよ。好きだから好きなのよシンプルでしょ?」
「……俺は俺が好きじゃない……。」
「んー、それはまぁさ、仕方ないわ。自分を嫌いでも良いから。私たちはアンタが大好きなのよ。」

自分を嫌いなのは仕方ないと言われて一瞬何を言われたのか分からなくなる。自分を嫌いなのは頭がおかしいとか否定的に言われたことは沢山あるが、仕方ないとどちらかと肯定的な事を言われた記憶はあまりない。

「……ならきっと、俺はこの先もずっと俺が嫌いだから……多分また死のうとする……。」
「それはちょっと困ると言うか哀しいけどさ……。私たちの為に生きるってのは無理?」
「……?」
「私達はさアンタと一緒に居たいから生きててくれた方が嬉しいもん。……今迄もさ、私達のために生きててくれた節あるでしょ?」

アンタが小さな頃から死にたがるのは承知して一緒になったんだもん、私、とレンが確かめるようにいう。それでも一緒に生きようと誘った時、アンタはちょっとしか考えずに悪くないってオッケー出してくれたじゃない?と。あの時にアンタがなんでほぼ即決だったのか、不思議に思って聞いたの覚えてる?と問われる。……覚えてる。一緒に生きたいと言われて、最初は意味が分からなかったが。それでも俺はそれを受け入れた。一緒に生きるならば、それが生きようとする理由になるかもしれない。そう思ったから。そう、死にたいからこそ、生きなければならないと理由を探していた。両親も長も死ぬときに、俺に生きろと言ったから、なんとかしてその言葉の通りに生きていなくてはと足掻こうと。大好きな人たちの言葉を守りたくて。死にたいと願いながら生きなくてはと藻掻く。

「今は違う感じ?」
「……いや……。……変わらない……。」
「じゃあさ、あんま頑張んなくて良いから、そのまま私のためになるだけ生きててよ。」
「……本当に俺で良いのか……?」
「何度も言ったじゃん、アンタだから良いんだって。」

私が一緒に生きたい一番がたまたまアンタだったんだもん、とレンが言う。恥ずかしがるわけでもナシ、それが当然という話し方。昔から変わらないなと思う。彼女は自分が思ったことになにも疑問を抱かない。もちろん、違う意見を聞けばなるほどと理解して受け入れられるし頑なという訳ではないが。自分自身の決定や想いに、迷いを持ちこまない人だった。それが酷く強く見えて惹かれるし、同時にとても羨ましいとも思う。己に迷わないというのは、俺には難しい。少なくとも、今の俺には難しい。自分がなんなのか、この価値のない化け物のような人間が一体なんなのか、解らなくていつも迷っている。たぶん、レン程に芯の通ったヒトというのはあまり多くは無いのだろうが、俺のように幽鬼のごとく定まらない奴もまたそんなに大勢いないだろう。みんな多少なり、きちんと折り合いをつけているはずで。

「だから他の奴を見つけろっても多分、見つかんないわよアンタ以上の奴は。」
「……物好きだな、レンは……。」

お互い様でしょと言いながら、そっと、レンが手を握ってくる。温かい。体調が戻りきっていないからなのか、自身の体温がいつもより低く感じる。元々あまり高くない方ではあるが。所謂、女らしい手とは違うのだろう。冒険者として武器を持ち、前線にも出るレンの手は幾らか無骨だ。が、俺の手に比べれば小さくて柔らかいし、ずっと繊細な手に見える。俺の手を取って一緒に生きてみたいと告げてきたのを、よく覚えている。友達や仲間ではなく夫婦だとかパートナーとか、そう言う関係で一緒に生きてみたい、と。言われたその時は拍子抜けしたものだ。所謂、プロポーズをされたらしいと理解はしたものの俺のような碌でなしに告白してくる女性が居るとは想像した事もなかった。俺は度々死にたがるし、安全な仕事と言うよりは危険きわまりない仕事をしている。それでも良いならと受け取って正式に夫婦になった。最も夫婦になったからと親しくしていた時とあまり変わらない付き合い方だったとは思う。お互いを尊重しあう、それがずっと変わらずに続いている。俺自身は彼女にプロポーズされるまで、これと言って意識をした事が無かったのだが、言われてからどうやら俺の方も彼女を好いているらしいと自覚した。一緒に居るのが落ち着いて楽しいと言うのは、あまり他人には感じたことのない感覚で、それが好意だと言うのに気がついていなかった。彼女と生きていくためには当然ながら俺も生きていなければならない。ふとした瞬間に死にたい衝動に駆られる俺にとってはその感覚はブレーキになる。彼女だけではない。義両親や兄貴に栗丸、冒険者仲間たち。彼等と同じ時間を過ごすには生きていなくてはならない。彼らと共に過ごすためにどうにか生きる。彼らと共に過ごすのが、楽しいと思うからこそ生きなくてはと思えた。死にたい気持ちは常に頭の片隅にあったが、それでも、彼らと一緒に居るためにと生きる事をどうにか見る事ができていた。生きる理由。自然に生きていられる人にはそんな物、要らないんだろう。生きる事が普通な人達にとっては、文字通り当たり前に生きているだろうから。生きているから生きている。そんな感じなんだろう、よく分からないが。俺にはそれがどうしても理解出来なくて、生きる為に何か理由が無いと生きていけそうに無かった。レンと一緒になったのも、生きるための理由になる筈だからと考えたからだ。無論、好きでもない相手と夫婦になる気は無かったし、彼女には好意を持っていたからこそだが、パートナーと呼ぶべき人のために生きようと出来るのでは?と思ったのも事実だ。純粋に好いているのも確かなのだが、ある意味で利用させてもらっている形だった。レンの方もそれを承知していて、嫌な顔をしないで居てくれた。それで生きていたいと思えるならいくらでも利用してくれちゃって良いから、と。

「あ、でも。劉にぃとはちゃんと話し合ってよ?詳しく話してくんないし、聞く気もないけどアンタ運び込んでからずっと元気なくて。」
「……そう、だな。……俺が酷い事を……八つ当たり、してしまったから……。」
「自覚あるなら大丈夫よ。謝ればいいんだもん。劉にぃ、何か思い当たるらしくて随分反省してたわよ。何を反省してんのかまでは分かんないけど。」

 反省、か。……兄貴は悪くないのにと思いながら、そうだアンタのせいでと相反する想いがぶつかり合ってぐちゃぐちゃになる。責めたくないのに、それでも兄貴のせいにして罵って喚きたい気持ちもたしかに俺の中にはあった。腹の底から、兄貴のせいにしてしまえたらラクなのかもしれない。が、あの優しい人が俺を疎んで、棄てる筈がない。それを一番よく知っているのは他ならぬ俺なのだ。幼い時からどれだけ兄貴が俺を助けてくれていたか、どれだけ頼らせてくれたのか身を以て知っている。それなのに、真逆の本当は俺を疎んで邪魔だと思っているに違いないと言う一方的な被害妄想が消えてくれない。それ程に、俺はあの時の別れをトラウマにしてしまったんだろう。追いかけたいと思ったのに、棄てられたのだと瞬間的に思ってしまって足がすくんで動けなくなった。置いていかないでと、細くて小さな誰にも届かない泣き声を零しただけ。……俺の中で、時間が止まっている。あの時のまま。父さん達や薬士達を助けようとすることも出来ず、長が囮になっている隙に逃げ出して、死にゆく村の連中に呪詛を浴びせられ、兄貴に置いていかれる。あの時のままで俺の時間が止まってしまっている。振り返って、手の届かなくなったはずのソレを見つめて立ち止まったまま。皆んなは今を、未来を見て歩いているのに、俺だけは昔を眺めたまま立ち尽くしている。進みたいのに先を見ることもできず、足も動かせない。取り戻しようのない過去を、虚しさに苛まれながら見つめて嘆いているだけ。歩かなくてはいけないのに。生きていかなくてはいけないのに。ポタポタと涙が落ちる。表情は変わらないのに涙だけが流れる。どうして。俺だけ、取り残されていく。先を行く皆んなを追いたいのに、身動きが取れない。皆んな行ってしまう。俺の行けないところへ。……置いていかれる。地獄のような場所に、独りだけ置いていかれてしまう。皆んなの背中が、俺の方を見て手招きしているのが、見えるだけで動けないまま。手を伸ばすことも待ってくれと声を出すことも出来ない。どうして……。歩けない……着いていけない……置いて……置いていかないでくれ……。

 訳もわからずに、表情のないまま泣いて。混乱しているうちにフワリと肩を、背中を抱きしめられて我に帰った。レンが、俺を柔らかく抱きしめているのが分かる。

「……何を言ったら良いかも、何したら良いのかも分かんないんだけどさ……私は此処に、アンタの隣に居るから、ね?」

あぁ……。

俺が狂っていなければ。壊れていなければ。彼女にもこんな気を遣わせなくて済んだろうに。先を見て、踊るように前を行けるヒトなのに俺のせいで足を止めさせてしまう。

「アンタの事だから何かと自分のせいと思ってるんだろうけど、私はアンタの隣に居たいから居るんだからね?だからお願い、そばに居させて。大好きなアンタの隣にいるのが好きなんだもん。それだけよ。それだけじゃ駄目?」
「……だ、め?……駄目、じゃ、ない。」
「なら、居させてよ。独りになろうとしないで。アンタだって、私とか劉にぃとかスティムブリダ達とか、特に何してなくても心配してるでしょ?元気かなとか、何してるかなとか。私達のしてるのもソレと一緒で、アンタが大好きだから気なってるだけ。」

それはアンタのせいじゃなくて、ただ単に大事な人が元気か気にしてるだけなんだよ、とレンが言う。暫く会ってない友達がどうしてるかな?とかそういう気持ちになった事はあるでしょう?と問われて確かに、そう言う風に思う事もあると頷く。その気持ちと、レン達が俺を心配する気持ちは同じものだ、と。……そう、なのか。

「だからさ、刹はなんも悪くないんだってば……!アンタ自分で言うじゃん、怒ったり泣いたりするのは本人が怒りたいから、泣きたいからだって。心配も一緒。心配したいから心配してるだけ。」
「……心配、したいから……?」
「そう。アンタの事を想っていたいだけなの。私もみんなも。」

 だから、自分のせいだと思わないでとレンが俺の頭を撫でる。酷く温かい手。嘘偽りなく俺を心配して大切にしようとしてくれる気持ちが、その手から注ぎ込むように感じ取れた。《超える力》が引き起こす相手の心を詠みとる力が、それを伝えてくる。俺にとっては悍ましくもある力。呪いの言葉を山程浴びてしまったのもこの力のせいだった。口から声を伴って出たわけではない、死にゆく連中が理不尽な最期に理由づけしようとして思考した頭の中の言葉が《超える力》のせいで俺には《聞えて》しまった。嘘を、陰口を、呪いを望まないまま俺に理解させてしまう力。だが今その力が、真逆の俺を想う気持ちを伝えてくる。栗丸の言葉と同じように、ただただ大好きだと、大切だと思う気持ちが流れ込んでくる。……温かい。無意識のうちに、抱きしめてくれている彼女を抱きしめ返す。心配してくれる人は居るのに。想ってくれる人も側に居てくれようとする人も居るのに、それなのに死ぬことを想ってしまう。どこまで俺は屑なのだろうか。……死にたい。でも、生きていなくてはならない。彼女のように、家族や仲間達のようにこんなゴミのような俺を大切にしようとしてくれる人がいる。その人たちの側に居るために。亡くした人達の生きてくれという願いを守るために。これから先も、色々あるだろうしアンタはまた死にたいってなるかもしんないけど。私達は必ずアンタの側に居るしアンタが大好きだから。それを忘れないでと、俺には勿体無い程の慕い。だがそれが間違いなく俺を救ってくれている。いつか死にたいと思わなくなる日が来るんだろうか?想像がつかない程度にもう、死にたいと願うのが普通になっている。せめて悪夢を見ないようになれば。きちんと眠れるようになればいくらか違うのだろう。ゆっくり寝たい……。熟睡したのはいつ以来かもう思い出せない。

「一緒に生きてよう。アンタは独りじゃないから大丈夫。ゆっくり歩けばいいんだもん。」

私だけじゃなくて劉にぃも栗丸も、育ての両親も冒険者仲間達も、刹と付き合いのある皆んなが、ちゃんと側にいるんだからと彼女が言い聞かせてくる。嫌だったら、それこそ誰も見舞いにだってこないし心配だってしないわよ、と。言い聞かせてきながら、ぎゅっと抱きしめる力が強くなった。大切そうに。……。

「……ごめん……。」
「何が?何も悪くないって話したばっかりじゃん。」
「……それでも。」
「謝りたいから、ね。わかった。」
「……。」

 彼女に抱きしめられているうちに、力が入らなくなって行く。抱きしめ返していた腕が、手が、緩やかに力をなくし始めて。どこか意識が判然としなくなる。目を開けているのが辛くなってきて、ずるずると手が落ち始めてしまった。上体を起こしておく力も抜けてきてしまってレンが少しばかり驚いているのがわかる。疲れちゃった?と問われたのは分かったのだが返事をする事ができなかった。声が出ない。くたりと力が抜けてしまう。重い!と笑いながら、レンがどうにか支えて横にしなおしてくれる。彼女が力持ちで良かった。

「しっかり休んで。また何処か一緒に見に行こ。劉にぃと、栗丸も一緒にね。」

 ロクな反応も出来ずに、辛うじて口を動かせただけで声にはならない。それでも彼女は汲み取ってくれたようで、うん、と応えながら掛け布団をかけ直してくれる。体が重い。……眠れるだろうか……悪夢を見ずに、少しだけでも。此処に居るから、安心してとレンが静かに額に口づけをしてくる。いつもは太陽のように、明るく力強いヒトなのだが今はそれこそ月光のような静かさと柔らかさでそこに居てくれている。こんなろくでなしに、有り余るような慕いで。……俺はもう少し、頑張って居られるだろうか。もう少しだけでも、彼女達の為に生きていられるだろうか。俺の為に側にいてくれる人たちのために、なんとか、生きていられるだろうか。意識がぼやけて飛んでしまうまで、そんな事をおぼろげに考えた。俺は、存在、していられるのか。

……生きていて、いいのか……?


 夢を見た。
悪夢ではない夢。
十数年ぶりだろうか、悪夢じゃない夢というのを見たのは。ただ静かな場所、多分草原のようなところで座っているだけの夢。綺麗な夕焼けが暮れていくことなくずっと紅いままなのを、ボンヤリと眺めているだけ。時々、栗丸がやってきてあぐらをかいた足の隙間にすっぽりハマってみたり、レンや兄貴がやってきて隣に座って一緒に空を眺めたり、冒険者仲間達がやってきてどこまでも伸びる草原を見たり、義両親が揃って側に座っていたり。静かに誰かが代わる代わる側に居続ける。ただそれだけの夢。いつでも隣にいるからと、レンが言っていたのをボンヤリと思い浮かべていた。……皆んな、前からずっと側に居てくれていたのに、漸くそれを理解する。独りきりで、燃やされながら歩く、そればかり目についていたが。あの火は消えたわけじゃ無く、鳴りを潜めているだけでどうせまた燃やされるだろう。休む機会もなく歩かねばならない、それはまだ続いている。けれども。皆んなが代わる代わるやってきて、静かに側に居てくれている間、苦痛は減っているらしい。……。呪いが解けるのは、何時だろう。

 目が覚めて
真っ先に側にいるのが分かったのは栗丸だった。寝ていた俺の顔の近くに座り込んでじっとこっちを見ているのが分かる。俺が起きたと察するやペタペタと前足で顔を触ってくる。目をまだ開けられないから姿は見えてないが。そっと背中を撫でると、機嫌良さそうにピョコピョコと小さな尻尾を振ったのが分かった。ぎゅっと顔に一度しがみついてきて、旦那が起きた!と誰かに知らせたのも《聞こえる。》ゆっくり、誰かの手が伸びてきて額を撫でてきた。その動きが恐る恐るで。……兄貴か。これほど大きな手はレンのものではない。かといって義父のウィルフトゥーム程の大きさでも太さでもない。俺の手とあまり変わらない大きさ。怯えたような動きなのは、俺が罵ったからだろう。拒絶されるのを恐れるように。……拒絶、し切れてしまうか、あの想いを吐き出さずにいた方がお互い楽だったのにな……。拒絶なんて出来るわけがない。兄貴がどれだけ俺にとって大きな存在か。俺が一番、気を許せるのがこの人なんだから。

「……少しでも眠れたかな……。」

弱々しい声と言葉。声をかけるかどうかを迷うような。ゆっくり手が離れようとするのを、その手を掴んだ。

「!」
「……ごめん……ひどいことを、言った。」
「……良いんだ。……むしろ、言ってくれてよかった。あの時のお前の気持ちを、俺は知らなかったから。だから、ありがとう。」
「……赦して……欲しい。……兄貴は……悪くないのに……あんな事を……。」
「大丈夫。怒っても憎んでもない。……俺の方こそ、ごめんな……。」
「……一緒に居たかった……。」

旦那泣いてるのか?と栗丸が覗き込んでくる。泣くのは嫌いなのに、涙を誰かに見せるのは大嫌いなのだが目をさましてから、この実家に戻ってから、勝手に流れ出す事が増えた。それだけ俺の精神的な部分がズタボロなんだろう。気を張っている事が出来ないでいる。静かに涙が落ちていく。兄貴が頭を撫でてくれていて、栗丸が大丈夫か旦那!と俺の頰にぴとっと体をくっつけている。温かい。どっちもが。

「……二度と置いていかないから。もう二度と。」

 あぁ
大の大人が、大男が情けないなと思う。小さな子供が寂しくて、孤独が辛くて蹲るのを、俺が今。小さなままの、あの日のままの俺が、此処に居る。誰にも言えなかった孤独と絶望を今になって、繕うこともできずにぼろぼろ零して散らかしている。ソレが恥だと、弱さを見せたらまた独りにされると恐れて必死で隠してきた。忌子であり弱いから、足手まといになるから独りにされると思っていたからだ。何でもないように振る舞い、全て隠していた。さも自信があるような顔をしながら、常に潰されたままでいたのを、何人が気付いていただろうか。誰も気付いていなかったのなら、俺の演技は大したもんだったんだろう。装うことで耐え抜いてきた事が山ほどある。独りを耐えるのを、絶望を誤魔化すのを。価値のない自分をどうにかしてそこに居るだけのヒトであるはずだと装う。疲れてなどいない、苦痛などない、狼狽える事も嘆く事も無い。倒れこみたいのを、砕けて消えてしまいたいのを、《自由に生きている》と装い続けて内に隠し続けてきた。弱くて臆病な小さな俺を、必死で隠して守ってきた。そうでもしていないと、装ってでもいないと、立っているのすら辛かった。それが当たり前になっていたから、付き合いのある仲間たちや家族たちがそんな風に装ったりしていないと知った時、驚愕したものだ。皆ソレは自然なのか?と。装う事もなく、その必要もないと感じているのなら皆は……生きるのが辛くは無いのか?と本当に驚いた。煉獄を歩くのが生きることである俺には、あまりに遠い感覚で。彼らの方が普通で、俺の方が異常だと理解して、なるほどやはり自分は狂っているのだというのを再認識するだけだった。死にたいのに生きたい。生きようとすれども忌子であるならば生きていてはいけないと苛まれる。大事な人たちと一緒に居たいと想いながら、この人たちの傍にいては苦しめるから離れなくてはと考える。どれもこれも本心なのに矛盾していて、混乱して軋んで、さらに狂っていく。ただ自分で自分を壊しているだけなのだから、あまりに愚かだろう。愚かだと分かっているのに、手放せずにいる。本当に、救いようがない愚か者だ。

「……お前は本当に、なにもかも我慢し過ぎるから……。…… 俺やレンやスティム母さん達にくらいはせめて、辛いのも苦しいのも教えてくれ。何もできないかもしれないけれど、手を取ることは出来るから。だから。独りで苦しもうとしないでくれ……。」
「……怖いんだ。弱みを見せたらまた独りになるんじゃないかと。……もう、独りは厭だ……。」
「見せないでいる方が孤独になってしまうんだ。だから、ちゃんと教えてくれ。俺も、お前を知らずに苦しめるなんてもう厭だ。」

誰にも苦痛や苦悩を見せないままでいたら、皆、お前は大丈夫なんだろうと勘違いする。そうなったら皆は悪意無くお前を放っておいてしまうんだから、だからちゃんと苦しいと伝えてくれと兄貴が念を押すように言う。苦痛や苦悩を誰かに話すのは、恥でもなんでもない。助けを求めることは悪い事では無い。誰かを頼るというのはその誰かを信用しているという態度と同義なのだから、お前はもっと皆を頼ってくれ、と言い聞かせられる。旦那が独りな訳ないぞ、栗丸がずっといるぞ!と栗丸がぴょんぴょんベッドを跳ねまわるのも分かる。俺を元気づけようとして、俺の周りを跳ね回っているのが伝わってくる。兄貴がその様子を見て遠慮がちに笑顔になって、栗丸を撫でるのも。どこか得意げになって栗丸が俺の手元にやってくる。撫でろ!と頭のもさもさを押し付けてくるのが分かって、そっと撫でた。ふわふわした温かい生き物。ヒトでは無くても俺の家族。俺や兄貴やレンが、欠ける事など微塵も考えずに、ずっと一緒に居ると信じ切っている。今でこそ、この小さな家族も、俺が生きるための理由の一つだった。

「栗丸は刹が寝ている間、ずっと引っ付いていたよ。」
「……そう、か。」
「……仲直りしなくちゃダメだぞってね、小言を言われてしまった。」
「……悪いのは俺なんだぞ。」
「悪くないよ。……俺だってその当時お前がどうなるかきちんと考えてやれなかったんだ。」
「……それだって、俺が追い縋れば良かっただけだ。……兄貴に非はないよ。兄貴だって子供だったんだぞ?」

 そう、二人とも子供だったんだ。出来る事にだって大人よりも限りがあったし、経験の数も少ないから想定できる物事だって必然的に少ない。その上、あの焼き討ちされて逃げるなんて状況で、何一つすれ違わない、何一つ傷つく事も負担も無い選択なんか取れるはずが無かった。だから、仕方がない。仕方がなかったんだ。仕方がなかったと理解しながら、それでも絶望には勝てなくて、なすすべも無く壊れ続けてしまったのは、俺が弱かっただけに過ぎない。泣き喚くこともできなかったが、胸を張って立つ事も出来なかった。ただ、呆然とくすんだ過去を眺めてどうにか立ち尽くしているのが限界で。倒れて仕舞えばよかった。諦めて仕舞えば、きっと、楽になれたのに。わざわざ立ち続け、折れた足のまま歩こうと愚かな選択をしたのも、また俺だ。全て、俺の選択してきた結果なのだから兄貴が悪い筈もない。助けて欲しかったのは確かだが、助けてと伝える事すら俺には出来なかった。それを兄貴のせいにするのはおかしな話だろう。

「それでも。俺はもっと弟を気遣うべきだったと後悔してる。後悔しても何も取り返せないのに。……だから今度こそ、お前をひとりぼっちになんかさせない。」
「……ありがとう。」

 約束を。
今度こそ別れずに済むように。お互いを独りにしてしまわない、長く共に暮らそうと言う約束を兄貴が確かめるように呟く。再会してから結んだあの約束を、噛みしめるように。

 ギムリトダークでの同盟軍と帝国軍の争い。あの戦闘で前線に出た時、《ゼノスの皮を被ったアシエン》とやりあって、誰からからの干渉のせいで倒れて。それからあの争いは膠着状態のままだった。平和とは程遠い停滞の時間に、俺は死のうとして。体が回復するのに少々の時間を要したが、もう問題なく動き回れる。戦う事ももちろん。先生曰く、回復速度も奇跡的らしい。俺が望まない方にばかり奇跡的な力とやらが働くというのが皮肉でしかない。死にたいと、今でも思う。それでも。家族や仲間たちが静かに寄り添い続けてくれる。彼らと一緒にいる時間は間違いなく好きで、だから、その時間のために。もう少しだけ踠いて見ようか。倒れたまま、意識を無くしたまま目を覚ましてこない暁の連中。ギムリトダークで俺が倒れたあの時に見た、会ったというべきなのかもしれないが、あの術師が彼らに何かをして、俺にも何かをしようとしているのは確かだろう。《アチラ》に呼び出そうとしているのは理解したが、あまりにも情報と説明が足りない。キッカケになるはずの部品を探せと言われたが、ガーロンドアイアンワークスの連中が調査を買って出てくれていたので任せきりだった。自害を測ったことは当然、秘密にしてあるのだが、まるでタイミングを計ったように回復しきって動き回れると確信が持てた頃に顔を出してくれと呼び出しを受けた。念の為に旅支度も済ませておく。暁の連中のようにいきなり倒れこむような事になっても困るが《喚ばれている》以上、俺が丸ごと消える可能性もあると踏んだからだ。着の身着のままでは不便だ。レンや雷刃には仔細を説明し、義両親には暁の要請でしばらく旅をしてくるとだけ伝えておいた。本当ならスティムブリダ達にも他所の世界の話はした方が分かり易かったかもしれないが……。ともかく、遠出する支度も心算も全て済ませた。栗丸は念のために留守番をしてもらう。着いてきたそうだったが、なにせ本当にあの術師の言う通り第一世界に喚ばれるとも限らない。おかしな、それこそオメガのこさえた次元の狭間みたいな所に放り込まれてしまったらこの子を守ってやれない。

―ちゃんと帰ってくるんだぞ!栗丸は良い子にして待ってるから、ぜったいぜったい帰ってくるんだぞ!―

 共に行けるかは分からないが、それでも一緒にガーロンドアイアンワークス達が詰めている現地に行くと言い張った兄貴と一緒に出発する時、栗丸は半ベソ気味になりつつそう言って俺の足にしがみついてきた。きちんと抱き上げて胸元で抱きしめてから、きちんと帰る約束だとドングリを一粒渡してやる。それを受け取って、シュンとした顔を一度した後に行ってらっしゃい!といつもの元気のいい《声》で送り出してくれた。家を出る直前に、レンともきちんと帰る約束をして、彼女を抱きしめてから出発した。無事に帰って来なきゃ怒るからね、と背中に彼女の心の声が《聞こえてくる》のを聴きながら。

 石の家でタタルから念のために案内を聞いて、クリスタルタワーの麓というか地下というか、今までは行けなかった発掘現場に向かう。静かな空間だったがだからこそガーロンドアイアンワークスの社員達が立てる物音が響いて聞こえて来ていた。ビッグスに顔色があまり良くないが大丈夫か?と心配されてしまった。回復はしたものの、まだ血色が悪いらしい。大丈夫だと答えて、クリスタルタワーの隙間を彼らと一緒に探す。第一世界への旅。あまりにピンと来ない。それが存在するのも知っているし、そこが光が強すぎて滅びかけていると言うのは知ってるが……。静かに足音を立てながら探しているうちに、ザワザワとした感覚が頭に広がり始める。あぁ、《近い》んだなと察しがついた。どんな世界が待っていて、何を求められて喚ばれるのやら。ザワつきは胸元にも広がって来て落ち着けない。恐怖とも不安とも違う。何かしらの予感が膨れ上がるのは分かる。見知らぬものを見るのは生きがいだから、せいぜい喚ばれた先でそれでも楽しもうと、そんな風に考えていた。となりに居てくれる兄貴と、色々見て回れれば良いと。死にたがる気持ちを、幾らか忘れていられるような、そういう旅になったら良いなと。そんなことを考えているうちにあの重い違和感が襲いかかって来た。足元には、ガーロンドアイアンワークスの社章によく似た絵の施された歯車のようなものが落ちている。

 遠くへ引きずりこまれる。此処では無い遠く。静かな、それでも強い、《あの声》と共に鈍痛が頭にのしかかる。

この後に起こる戦いが、抗いが、死を忘れていられるような、そんなモノとは程遠いと思い知るのは、また少し後の話、だ。

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