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らしさって、なあに?
少し前に実家に帰った時、ちょっと懐かしいものを見つけました。
自分の部屋を整理していたら、中学3年生の時に書いた主張文が。
厨二病期を乗り越えて、少しずつ前を向こうと頑張っている時で、この頃から「書く」っていうのが武器になりつつあったなって、思い返してみると思ったりなんだり。
これ、結局全校生徒の前で話すことになった文章だったりもするんですよね。
せっかくだから、ここにも置いておこうと思って、今日。
原文そのまま、よければ見ていってくださいな。
私らしく、君らしく 三年B組 宮原桃花
「わたしと小鳥とすずと」という詩をご存知だろうか。詩人・金子みすずさんの書いた詩だ。
みんな違ってみんないい、とうたったこの詩は、ご存知の方も多いだろう。
それにしたって、この日本という国は、いつの時代も個性というものをあまり認めてくれない。
自分と違うものは批難し、普通であろうとする。
だけど、好きなものは好きでいいじゃないか。だって、それが個性というものだからだ。
好きなものを好きでいてはいけないなんて、苦痛で仕方ないだろう。
だから、普通じゃなくても、同性が好きでも、根暗でも、お調子者でも、オタクでも、それは個性だ。個性を否定する権利なんて、この世のどこにもありゃしないのだ。
こういうと、少し差別的な物言いのようだけど。
私自身も、人と違うところがある。
笑うのが苦手で、どこか作り笑いだし、人と話すのが苦手だ。個性だと割り切れているから良いものの、おかしいと批難されるのならば、それこそ個性を認めていない。
とにかく、個性というのは尊重されるべきだ。個性がないのは面白くない。辞書で引いてみれば、普通とは、ごくありふれたもの。個性はそのもの特有の性質を言うらしい。
言葉で見たら、普通はありふれていて面白くない。人はそれぞれ違う世界をもっていて、好き嫌いがある方がよっぽど人間らしい。確かに「個性的」というと良いイメージはないが、みんな違うからこそいいのだ。
無理に自分の好きなことを諦めなくていい。だからどうか、自分と違っているからと、人を批難しないでほしい。障がいをもっていようが、お調子者であろうが、オタクであろうが、根暗だろうが、それは誰しもがもつ個性であって、その個性があって初めて人間として存在できるとわたしは考える。
だって、同じような人間ばかりだったら気味が悪いだろう。ロボットじゃあるまいし、怖いし、変だ。
冒頭の話に戻るが、日本は個性をあまり認めてくれないと言った。
そんな現代の日本に必要なことは、寛容さと、コミュニケーションをとることではないだろうか。そうでなければ、誰かを傷つけかねない。少なくともわたしはそう思う。
情報社会の中で、そんなのいらない、必要無いと思われるかもしれない。
でも案外大事だったりもする。
いざというとき、最終的に必要なのは言語だ。お互いを認め合うことは、何処へ行っても大切なことだ。
その溝が埋まれば、どんなに小さな諍いも、どんなに大きな争いも、無くなるかもしれない。
わたしの個人的な期待だが、いつかそうなってほしい。日本だけでなく、外国にも届いてほしい。小さな望みだが、いつか届いてほしい。
そう。私らしく、君らしく、生きていけばいい。誰に何と言われようと、自分らしく。「みんな違ってみんないい」精神でいこう。
読み返してみて、あー懐かしいなってちょっと笑ってしまった。
拙い文章だけど、相変わらず青い炎燃やしているなって。
悩みは、変わっていなかったんだなって。
らしさ、ってなんだろう?
こせい、ってなんだろう?
わたしはしばらく、“普通の女の子”になりたかったんだけど、この頃から“普通”じゃなくて、人と違うものがほしくなって、今じゃ「変わってるね」が褒め言葉だなんて、わたし、ほんと変な子。
今もまだ、“わたしらしさ”を言葉にすることは難しいけれど、あの頃よりも確実に、今のわたしはわたし自身を愛せているはず。
周りは敵ばかりだと思っていた15のわたし、大人も案外楽しいよ。それに、大概みんなこどもっぽいよ。
と、ちょっとだけ青春は美化しておきましょう。
2025.2.26