
【つながる旅行記#160】舞鶴引揚記念館~白樺日誌と引き揚げ~
前回に引き続き、舞鶴引揚記念館の展示を見ていく。
57万5000人以上がソ連によって強制連行されたシベリア抑留。

そのあまりにも過酷な生活の中で、舞鶴市出身の瀬野修(せのおさむ)さんが残したのが「白樺日誌」だ。

瀬野修さんは白樺の樹皮を紙代わりに、煤を水に溶かしたものをインク代わりにして、日々の思いを和歌にして綴った。


まともな食事すらとれず、加えて極寒と重労働の中でこんなことができたなんて、どれだけ強い人だったのだろう……。
ふとヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」を思い出した。
あれはナチスの強制収容所での実話だ。
そしてフランクルもまた、過酷な収容所生活の中で小さな紙片を隠し持って記録を取り続けていたという。
こういう何かを綴って残すという行為は未来へと繋がる行動。
極限状態だからこそ、こういう行動が意味を持つのかも知れない。


館内には強制収容所(ラーゲリ)の様子も展示されている。
室内でも完全防寒の様相だ。-30℃以下なんて想像もできない。



手作りの天秤ばかりを使用して何かを量っている。
これは支給された黒パンを均等に配分している様子のようだ。
ただでさえ食料が不足している状況では、少しの分配の違いでも喧嘩になったという。


食事の内容はどう見ても重労働に耐えられるような内容ではない。
当然耐えられずに亡くなる人も大勢いた。
……壮絶だ。

ラーゲリに居るロシア人検閲官が日本語に堪能でなかった場合は、俘虜の郵便はカタカナのみで書けと指示された。
もちろんラーゲリでの過酷な状況について手紙に書くことは許されない。




しかしそんなシベリア抑留もやっと終わる時が来た。
引揚船による帰還事業が始まったのだ。

引き揚げ事業に使用された船のうち、舞鶴港に入港したのは延べ346隻。
館内にはその船たちの模型が所狭しと展示されている。
しかし船内の環境は過酷だった。
これらの船の大半は客船ではなく貨物船であり、人間を運ぶような作りにはなっていなかったからだ。
船内は夏は蒸し風呂、冬は凍るほどの寒さ。
ではなぜ貨物船ばかりなのかというと、日本は客船の大半を第二次世界大戦で軍が徴収し、それらの大半は沈没していたからだ。
稚内でワフー号が日本海を北上する連絡船や商船をいくつも攻撃して沈めていた事を思い出す。(#101参照)

また、船内で伝染病などが発生すると当然ながら下船は許されなかった。
地図を見ると、各所に検疫所も設けられていたようだ。

しかしこれでようやく、過酷な環境と強制労働から開放されて日本に戻ってくることが出来た引揚者達。
桟橋では、多くの人が名前を書いたのぼりを手に、喜びの声を上げた。







そして舞鶴市民は、そんな引揚者を暖かく出迎えたのである。






ああ、本当に自分は何も知らないんだなあ……。
シベリア抑留をされていた人たちがその後どうなったかなんて、気にもしたことがなかった。
しかし実際には、GHQに嘆願した人がいて、メッセージを伝えた人がいて、船を操縦した人がいて、検疫をした人が、出迎える人が、引揚者を世話する人が……もう本当にたくさんの人が動いていたのだ。

まだまだ知らなければいけないことばかり。
学んでいかないとな……。

舞鶴引揚記念館、非常に勉強になる施設だった。
・・・
そうだ、確かジオラマによると、まさにこのあたりが桟橋があった場所の近くだったはず。

ちょっと足を伸ばして、桟橋のあたりがどうなっているか確かめに行ってみよう。
せっかく歴史的な場所に来たのに、それを確かめないのは意味がわからないもんな。
(天橋立の高台はスルーしたが)

なんと高台に行くための杖まで用意されている。
考えてみれば高齢の方も来るだろうしな……。
さすがの配慮。すごい。

では、引き揚げの舞台となった桟橋を眺めに出発!!
次回へ続く……!
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