【つながる旅行記#159】舞鶴引揚記念館でシベリア抑留について学ぶ
前回は天橋立を往復し、あれこれ知識を入れた。
一番大事な飛龍観を盛大にスルーしたが、きっとこれはまた来いということなのだろう。
未来の自分の再訪に期待したい。
そんな現在の時刻は朝の10時。
駅近くのイオン的なショッピングセンターの中にある店でドリアを頼む人間が自分である。
朝ごはんタイム。
そしてなかなか美味い!!
というわけで現在地は東舞鶴。
天橋立に行く前に寄った土地だが、ここは色々と見どころがあるらしい。
今回はその中の一つである舞鶴引揚記念館に向かおうと思う。
一体何を引き揚げるのだろうか。期待が高まる。
そんなわけでかまぼこ手形(1000円)をゲット。
本物のかまぼこ板で出来たこの手形を使用することで、一日市内バスが乗り放題かつ、引揚記念館も無料になるのだ。
使わない手はない。あと記念品にもなるし!
バスに乗り、舞鶴引揚記念館へ到着。
やはり公共交通機関はありがたい。
結構な坂もあったので、自転車で来るのはきつそうな場所だ。
では早速中に入っていこう。
さっき入り口に巨大看板があったが、この舞鶴引揚記念館の物品はユネスコ世界記憶遺産に登録されている。
ユネスコ世界記憶遺産には他にどんな物があるかというと……
・アンネ・フランクの日記
・オズの魔法使い
・ベートーベンの楽譜
・ジェームズ・クックの日記
・世界最古のコーラン
などなど、重要で替えの効かない資料が対象となっている。
舞鶴引揚記念館にある物品が登録された理由は、シベリア抑留に関する替えの効かない資料だからだ。
以前見た池上彰さんの番組で、ロシアに渡ってシベリア抑留のことを現地の学芸員に聞いたところ、「そんな事実はない」と言っていたのを思い出す。
そう言わなきゃロシア的に危ないのか、ただ単にその人に知識がなかっただけなのかはともかく、残された証拠物品は嘘をつかない。
第二次世界大戦以前の社会状況の展示もあった。
1920年代の日本は、経済の低迷、金融恐慌、世界恐慌、昭和恐慌の畳み掛けという酷い状態だった。
かつての日本は蚕の繭から作る生糸の輸出が盛んだったが、世界恐慌によって生糸の価格も暴落し、かつての3分の1になる。
更には昭和5年の豊作による株価下落によって米の価格も半値以下に暴落。
翌年には今度は大凶作となり、東北や北海道の農村は大打撃を受けた。
米と生糸が生計の頼りだった日本の農村は崩壊し、欠食児童や少女の身売りが続出する。
そもそも昭和初期は都市部以外は近代化はあまり進んでいなかった。
ガスはなく、電気は来ていても白熱電球だけ。
上下水道が整備されているところも少ない。
そんな生活の中で、「大陸進出こそがこの貧しい生活を変えるんだ」という思いが加速したのは仕方がないことかもしれない。
農村の声も受けて軍部の力はどんどん増大し、日本は戦争へと突き進むことになる。
しかし日本は戦争に負けた。
そしてソ連の対日参戦によって、満州や朝鮮半島、樺太、千島列島は次々に占領され、各地の戦場にいた日本人達はソ連兵に捕らえられた。
「でも戦争は終わったわけだし、これで日本に帰れる……」
そう思っていた日本人捕虜たちが向かわされたのは日本ではなく、シベリアを含むソ連の各地域だった。
彼らは極寒の地で満足な食事も与えられず、強制労働の人員として利用されたのだ。
その人数は約57万5000人。
うち、5万8000人が過酷な環境と強制労働によって死亡することになる。
名前すらわかっていない方も多い。
……自分がいかにシベリア抑留について知らなかったかが入口付近で既に激しく自覚できる展示ばかりだ。
シベリア抑留がこんなに大規模なものだったとは知らなかった。
57万5000人ってことは、鳥取県の総人口(55万人)より多い。
そもそも自分はシベリア自体が何なのかを気にしたことすらなかった。
気軽な歴史探訪のつもりで来たが、これはかなり真剣に向き合わないといけないかもしれない。
この機会にしっかりと理解を深めておこう。
次回へ続く……!