【つながる旅行記#298】存在感がありすぎる『てつのくじら館』で掃海を知る【海上自衛隊呉史料館】
前回は大和ミュージアムであり得ないサイズの再現模型を見て、戦中に思いを馳せた。
では自分にしては珍しくしっかりと海軍カレーで昼食をとったところで、さっそく今回の目的地へと向かおう。
……いや、近くで見てもやはり凄い大きさだ。
街の中にこんなものが突如出現するという違和感もすごい。
ここは「海上自衛隊呉史料館」。通称「てつのくじら館」である。
そしてこの巨大な物体は「潜水艦あきしお」。
1985年に進水した、れっきとした本物の潜水艦だ。(建造は三菱重工業神戸造船所)
ではさっそく併設の建物に入っていこう。
なっ、入館無料だと!?
最高だな!!!
なんだかほっそいエスカレーターで展示へ進む。
一体どんな展示があるのだろうか。
「掃海とは何か?」
……なんかいきなり思ってたのとは違う切り口の展示が始まった。
「掃海艇」という単語はどこかで聞いたことがあった気がするが、そういえば「掃海」が何をすることなのかはよく知らない。
展示に書かれていることから察するに、掃海とは「機雷除去」のことらしい。
(機雷:水中に設置され、艦船が接近または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する兵器)
自衛隊関連の資料館かと思いきや、なんでそんな話を……?
……まず知らねばならないのは、太平洋戦争でいかに日本の海が使い物にならない状態にされたかである。
空襲の話は今までの旅行でもそこら中の博物館で見てきたが、アメリカが行ってきたのは都市への攻撃だけではない。
大戦末期、アメリカ軍は通行量の多い海峡や港湾に対して機雷1万個を投下し、海外と本土の通行を不可能にしたのだ。
(当時の日本のレーダー性能と迎撃能力では、夜間に機雷をばら撒きに来るB-29を防ぐことはできなかった)
日本にとって海上封鎖が大打撃なのは、日中戦争時点ですでに国内の食料すら賄えていなかったことだけ見ても、相当に問題であることがわかるだろう。
当然のように満州や朝鮮の港も機雷投下を受けており、物資の受け入れ先になるであろう日本海側にある舞鶴港や新潟港も多くの被害を受けた。
そして日本国内はアメリカの目論見通り飢餓状態となったのだ。
機雷の敷設状態の概要図を見ると、飢餓作戦によって瀬戸内海には極めて多くの敷設機雷がばら撒かれていることがわかる。
まだ残存していた神戸港と大阪港もこれによって封鎖され、船舶どころか小型船の航行すら支障をきたすようになった。
この状態では民間の船舶を含め、多くの犠牲が出たのも頷けるだろう。
そのため、日本の戦後復興は海上封鎖された状態をどうにかすることから始まった。
そうしなければ食料や資源の輸送や輸入もままならず、帰還事業も進まないからだ。
こういった機雷の除去(掃海)を戦後に担ったのが、旧海軍軍人たちだったのである。
また、海流に乗って押し寄せる浮流機雷なども大いに問題となった。
そして「海上警備隊」が発足し、それが「警備隊」になり、
現在は「海上自衛隊」という自分達のよく知る名称になっている。
……なるほど、最初に「掃海の展示」があるわけだ。
海上自衛隊の始まりとも言える業務が掃海だったのだから。
いやはや、自分は本当に何も知らなかったんだな……
そしてそんな掃海業務は終わった話ではなく、2023年のニュースでも機雷除去のニュースは存在したりする。
今も変わらず機雷を取り除くために危険な任務にあたっている人がいるのだ。
最初の展示にあったように、機雷を除去する活動は、終戦から現在まで連綿と続いているのである。
しかし海上封鎖や港湾への攻撃なんて全然想像したこともなかった自分だが、相当な有効打だということがわかった。
最近でも、災害時には港が使えるだけで物資輸送量が段違いだということは聞いた気がする。
やはり海上輸送はいざというときの生命線なのだろう。
となると、今後の日本でなにかよからぬことが起きたら、同じように港への攻撃や海上封鎖が行われるのだろうか。
そうなった場合、また飢餓が起こる可能性は……?
……あぁ、少しでも長く平和な世の中が続いてほしい。
新たな学びを得て、次回へ続く……。
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