【つながる旅行記#227】福岡城跡の天守台と天守にまつわるあれこれ
前回は雨の舞鶴公園や大濠公園をなんとなく散歩した。
都会の真ん中にこういう場所があるのはやはり良いなと思いつつ、今回は舞鶴公園内の福岡城天守台へ向かう。
おお……! この辺りも桜がとても綺麗だ。
奥に不思議な建造物があるのでちょっと見に行こう。
これは祈念櫓だ。
鬼門(北東側)を塞ぐために置くらしいが、陸軍省が福岡城跡を使用するにあたって払い下げられてしまい、北九州のお寺で観音堂として使用されたという。
そしてまさかの65年後、再度この場所に戻ってきたのだ。(お寺で改造済みだったが)
櫓って再利用することがあるんだな……。
さて、では目的の天守台に登っていこう。
どんな景色が見えるだろうか……?
おお……!
都会のビル群が見える。
昔の福岡藩主もここから福岡の町を眺めていたのだろうか。
かつてはビルもなかっただろうし、天守に登ればもっと凄い景色が360°見渡せたのかもしれない。
そう、天守からなら。
・・・
天守、あったんだろうか?
……そうなのだ。
福岡城に天守が本当にあったのかどうかは、実のところよくわかっていないのである。
いや武家屋敷ゾーンも含めたら福岡ドーム35個分(致命的にわからない)の福岡城に立派な天守が存在しないわけがないだろうと思うわけだが、天守に関しては色々な説があるのだ。
ただ、最近見つかった小倉藩主の細川忠興が子の忠利に宛てた手紙の中で、「長政は福岡城の天守や屋敷を崩すと将軍に言っていた。徳川の世に城は要らないからね」と述べているのが見つかっている。(手紙は1620年のもの)
この史料が事実なら、『天守は作ったが、のちに壊した』といえる証拠なわけだ。
確かに時系列を見れば、関ヶ原の戦い(1600年)で黒田長政がこの土地を恩賞として貰い、7年後に福岡城を完成させるわけだが、この時点では徳川の世を決定付ける大阪の陣(1614年)までは、まだ期間がある。
「もう徳川の世になるから天守は要らないよ」なんてことをこの時点で考えていたとは思えないし、天守作ってそうな気がしないだろうか?
そして、大坂夏の陣も終わって徳川支配が盤石になった1620年に、「もう徳川の世だから天守とか要らないよね!(反乱の意思とか疑われそうだし)」という感じで天守を壊す流れになったと……。
唯一存在する1646年に描かれた福岡城の絵図(福博惣絵図)に天守がなかったのも、その当時はもう壊されて20年以上が経っていたのだから矛盾はない。
より詳しいことは以下の日立のサイトやみつやまさんの記事を読んでもらうとして、結果として天守は再建されないまま今に至るというわけだ。
個人的には大阪城のような『鉄筋コンクリートで作られて、エレベーター付きで、中身が博物館で、徳川と豊臣の時代のごった煮の造形』だろうと普通に楽しめたわけで、福岡城も天守作ればいいのにという感想を抱いた。
2024年現在、インバウンド需要に向けて江戸城天守の再建が再び語られていたりするわけだが、皇居周りのあれこれを心配する必要がない福岡城こそ、この機会に天守を作っちゃうとか……どうなんですかね?
いやしかし、天守の絵図が残ってないという一番の問題があるか。
まあでも模擬天守とかいうものも存在するし、やる気があればなんとかなるんじゃないですか……?(他人事)
果たして将来福岡城の天守は復活するのだろうか。
生きてるうちに再建されたら絶対見に来よう。
なお、舞鶴公園にあるこの素晴らしい桜の木は約1000本。
もちろん最初からここに生えていたわけではなく、「舞鶴公園を桜の名所にするぞ!」という先人たちの想いで植えられたものだ。
観光地としての素晴らしさを追求した結果がここにあるんですね……!
(……天守もこのノリで作っちゃえば良いんじゃないか?)
そんなわけで福岡城、なかなか楽しかった。
やはり城は階段の上り下りもあるから運動にもなっていいな。
では、次回はスルーした大宰府関連のものを見ていこう。
広い荒れ地に築かれた福岡城だったが、実はそこにはかつて歴史的に重要な建造物が存在したのだ。
次回へ続く……!