【つながる旅行記#262】深夜徘徊と『三浦按針』と伊東
前回は伊豆シャボテン動物公園で凄まじいパラダイスを楽しんだ。
そして今、大室山方面から伊東市の市街地に戻ってきたのだが……?
なにやら川の上のステージで練習をしているシーンに出くわした。
建物も非常に歴史がありそうな感じで素晴らしい。
そしてホテルに戻ってしばしの休息をとる。
いやー、今日は本当に伊東を満喫できたな。
……でもなんだろう。
良いものが見れたせいか、熱量がまだ収まらない。
いくか、深夜徘徊!!
まあまだ20時なので別に深夜でもないのだが、夜にこうやって気軽に出歩けるのも日本の良いところだ。
(海外行ったことないけど)
……おや、昼間に練習風景を見た場所で本番が行われているようだ。
ちょっと見ていくか。
あれは……フラダンス……?
なんだか昼間見ていた扇子の演舞とは違う人達のようだが、これはこれで優雅で良い。
そういえばフラダンスは一見楽そうに見えて常に中腰の姿勢らしく、初心者は足がガックガクになるという話を聞いた。
あの優雅にたなびくスカートの中では鍛えられた足が常に中腰を維持しており、外からは見えない頑張りがあの優雅さを生み出しているわけだ。
まるで白鳥のようだね……!
……いや、白鳥は水に浮いて楽してるらしいので、例えとしてはアレか。
あとフラダンスの「フラ」は「踊り」という意味らしいので、サハラ砂漠やチゲ鍋的な同じ意味の繰り返しな名称なのだが、気にしてはならない。
こういうのはわかりやすさが大事なのだ。きっと。
そして流れでオレンジビーチへと向かう。
海なし県民にとって、夜の海に行くのは非常にレアな体験だ。
さて、そのまま海沿いを歩いていたら、『日本初 洋式帆船建造の地』というものがあった。
伊東に造船のイメージなんてなかったが、どういうことなのだろうか?
実は日本初の洋式帆船の誕生には、伊東を訪れた一人のイギリス人が関わっていた。
名前はウィリアム・アダムス。
またの名を、三浦按針。
では、日本ではまさかのゲームの主人公にもなっちゃったりしている彼の話をちょっとだけしよう。
ウィリアムはイングランド南部生まれ。
若い頃は船大工の棟梁に弟子入りしたものの、造船よりも航海術に興味を持った。
なのでウィリアムは造船技術を学びつつも船大工にはならず、奉公を終えてからは海軍に入ってアルマダの海戦に補給船の船長として参加したりした。
戦争後には航海士(船長)として船会社での仕事をこなしていたが、あるとき極東を目指す船団の航海士を探しているという募集があり、ウィリアムはそれに応募する。(運命の分かれ道)
極東を目指す5隻の船団のうち、リーフデ号に乗ったウィリアム。
しかしマゼラン海峡を越え、太平洋を横断して極東の日本を目指すという行程はあまりにも困難だった。
途中で補給しようにも、南アメリカ大陸は敵対するポルトガルとスペインの支配領域であり、先住民の抵抗もあるわ、船では壊血病・赤痢が広まるわ、もう地獄のような状況。
どうにか日本の臼杵に到着したころには、リーフデ号の乗組員は110名から24名に激減しており、船団は色々あってリーフデ号1隻だけになってしまっていた。
なお時期はいつかというと、関ヶ原の戦いの半年前である。
ちょっとさっき紹介したゲームの話をするが、思えばこのウィリアムのやってきた時期がまた絶妙で、戦国オールスターがほぼ健在かつ、関ヶ原の戦いや大阪の陣などの大戦もこのあとに控えているのだ。
スタートが九州の臼杵なので、日本各地を巡りつつ政治の中心である近畿へと進んでいくというストーリーにも改変しやすい。
ウィリアムを主人公に据えたコーエーのゲームクリエイターは、相当に歴史に詳しい人だったのかもしれない。
・・・
話を戻そう。
臼杵に着いたはいいが、リーフデ号はそこそこ武装もされていたため、大砲やらは没収されたうえでウィリアムたちも拘束された。
当時はもう豊臣秀吉は病没しており、豊臣秀頼の指示を仰いだが、結局は徳川家康が船員たちを大阪に護送させることを決め、リーフデ号も関東まで回航させることとなる。
なお当時日本に居たイエズス会の宣教師たちが、「イングランド人なんて即刻処刑したほうがいい!!海賊だからあいつら!!」と家康に進言しており、家康は当初海賊船が流れ着いたのだと思っていた。
だがウィリアムらがプロテスタントとカトリックの紛争状態についてしっかり説明した結果、誤解は解ける。
家康はその後も「処刑しないと!」と言い続ける宣教師たちの意見は無視し、江戸にウィリアムを招いたのだった。
ウィリアムは家康に帰国したい旨を伝えるも、外交交渉の時に使える人材ということで許されず、通訳や様々な知識を教える人として使われることになった。
その後、関ケ原の戦いの後処理などで家康は忙しくなり、浦賀に係留されていたままのリーフデ号も沈没してしまう。(修理は許可されていなかった)
それを知った家康は、「じゃあ帆船作ってよ」とウィリアムに指示。
作れと言われても船大工をやっていたのは遥か昔のことなので、ウィリアムは普通に拒否するのだが、家康の命令に刃向かえるわけもなく伊東に造船ドックを作り、80tの帆船を建造する。(やっと伊東がでてきた)
家康は「やっぱり作れるじゃないか!」ということで、さらに大型の船を作ることを要求。
ウィリアムは3年かけて120tの船を作り、これに答える。
家康はこの功績に対し、相模国(横須賀市逸見)に領地を与え、『三浦按針』の名前を授けましたとさ。
……ということで、伊東とウィリアム・アダムスとの関係がわかってもらえただろうか?
そしてこんな繋がりから、伊東では夏に『按針祭』が開かれ、オレンジビーチの花火大会は毎年凄まじい人で溢れるのだ。
なお、三浦按針が作り上げた120tの船「サン・ブエナ・ベントゥーラ」を模しているのが、さっきの銅像である。
そしてこの船は、当時千葉県沖で沈没して現地民に助けられたサン・フランシスコ号の乗組員300名を、ノビスバン(当時のスペイン領メキシコ)まで送り届ける船としても活躍した。
このときのお礼として、スペイン王が家康に贈った時計が久能山東照宮に現存している。
まあ日本の暦とは違うので時計としては使用されなかったのだが、逆にそれがよかった。
家康が亡くなったあとも神宝として保存されたこの時計は、ほぼ動かされることのないまま400年経過し、16世紀のオリジナル部品がほぼ完全に残ったままの時計となったのだ。
他にも面白い裏話があるようなので、気になる方は以下のPDFもオススメ。
いやはや、深夜徘徊によって素晴らしい知識を得ることが出来た。
外国人を雇ったのなんて信長のヤスケくらいのものだと思っていたが、家康もまたウィリアム・アダムスという外国人の力を借りていたのだ。
なお120tの大型船建造のあとに、西国大名に対しては大型船の建造を禁止しているのが家康のちゃっかりしたところである。(貿易利益独占のため)
なんにせよ、また魅力が深まった伊東の地。
明日はどんな場所へ行こうか。
次回へ続く……!