【つながる旅行記#294】建設中の金印公園と、再び起きた相棒の悲劇【志賀島】
前回は名島神社と名島城跡を訪れ、福岡の歴史(金印)についての記憶を思い出した。
そんなわけで、金印発見の舞台に行くべく相棒(自転車)と船で志賀島へと渡ったのだった。
折りたたみ自転車はこうやって電車でもフェリーでも、簡単に連れていけるのが強みである。(輪行袋は必須)
さて、そんなわけで志賀島にたどり着いた。
まあ前回も言ったが、志賀島自体は車でも行けるんだけども。
志賀島はともかくとして、完全に島な能古島(のこのしま)は、フェリーで10分らしい。
島に住みつつ大都会博多に船で出勤なんて人も世の中には居るようだ。
福岡市はコンパクトシティの成功例だと自分は常に思っているが、島&アクセスの快適さをも網羅しているとは……!
海の向こうを見ると、大都会福岡の象徴たる建造物たちが大量に並んでいた。
これはこれですごい光景である。
そして早くも登場した巨大金印にテンションを上げつつ、さっそく島を見ていくとしよう。
相棒にまたがり、出発!!
こ、これは爽快だぞ……!!
やはり島に渡ったからなのか、前回とは全然違った雰囲気だ。
(道繋がってるけど)
海を覗いてみると、なにやら打ち付ける波の中に新鮮な海藻がいっぱい。
味噌汁に入れたいような色をしている。
……と思いきや、その壁際を沢山のフナムシたちが歩いていた。
舞鶴で見た彼らをまさか福岡でも見るとは……!
まあ道路の方には出てきていないようなので良しとしよう。
そしてなんかすぐに金印公園に到着。
金印はわりと今の港からすぐのところで発見されたようだ。
そして思いっきり建設中である。(2017年だから)
来るの早すぎたなこれ……。
※現在は整備されて高台から展望を楽しみつつ金印が見れるらしい。
まあそういうこともあるよねということで、先を急ごう。
志賀島は金印公園しか見どころがないわけではないのだ。
すると道端に石碑を発見。
これは蒙古軍供養塔。
志賀島も元寇の舞台になった場所なので、日本と元の双方で戦死者が出たことだろう。
これはその時の蒙古軍を供養するためのもので、日蓮宗の僧侶の提唱によって1927年に建てられたそうだ。
なんだかそこそこ最近だなと思いつつ、昭和金融恐慌の年によくこんなものを建てたもんだなと関心したのだった。
こ、これが福岡の景色……?
目の前に広がる綺麗な海の色に思わず立ち止まってしまった。
都会の喧騒が嫌になったら速攻でこんな場所に来れるとか、最高すぎやしないか?
そんなこんなで真夏に坂を必死にこいでやってきたのは休暇村である。
その名の通り、本当に博多の人とかが休暇の際に来てそうだ。
ではビジターセンターの展示をチラッと見ていこう。
しかし金印が見つかった志賀島だが、そもそもなんでこんな辺鄙な場所に歴史上の重要アイテムがあったのだろうか?
展示によると、色々な説の中で「墳墓説」が妥当じゃないかとのこと。
自分が学校の授業で金印の話を知ったときは、「畑をクワで耕してたら土から出てきた」みたいなストーリーを自分で勝手に作っていたものだが、
発見者の甚兵衛の言によると「一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存した」とのことなので、そこらへんに無造作に埋まっていたとかではないっぽい。
「3つの石で金印を囲い、その上に巨石を乗せた」というのは、明らかに意図的な行為だ。
墳墓説が妥当と考えられているのもわかる気がする。
2000年前に大陸とやり取りをしていた歴史がこの土地にはあるんだなと感動しつつ、ビジターセンターを出た。
福岡のポテンシャルの高さには本当に驚かされるばかりだ。
それはそうと、次の目的地へ行こうと相棒の自転車にまたがった。
・・・
な、なんか感触がおかしいぞ。
こう……ぐにゃってしてる。
そう、またパンクである。
「学習能力ないのか?」と思う人もいるだろうが安心して欲しい。
学習能力はあるし、今回はパンク修理キットもあるから!!
いや焦りすぎたのか一切写真はないが、自分はちゃんとパンク修理を済ませ、再び走り出したのだった。
うん!備えあれば憂いなし!
経験が生きたな!!!
(本当に大丈夫かはともかく)次回へ続く……