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かねてから私が持つ「不安の効果」について

「やっぱりなあ、なにもうまくできないなあ。やっぱり。」
ふと得体のしれない不安が漂流してくる。
それは私の心全体を、それが滞在するだけでぞくぞくと震えさせるもので、寒い。
見知らぬ真っ暗な野外にいるみたいにも思えて、寒いのにぬるくて、ぞわぞわ、そわそわする。
その正体について確信したり、あるいは推測するとか、そんな集中した観察はできない。

それはそれが持つ、「ぼんやりとさせる」――「不安の効果」とでも呼ぼうか、というもので、自分、私、というものはおろおろするばかりである。
強烈な悲観、絶望というものとはどこか性質が異なっていて、心が感じるのは空虚さでもない。
むしろなにか、「うまくいかない」、「全体的な」、――そして想像とは呼びにくいくらいの、「『行為』ではない退屈さ」。
「不安の効果」からはそれと同時になにかに期待するような気持ち――「救われたい」という気持ちをかすかに抱く。
そして私としては、それに対しての「媚びない孤独感」と「感傷」が存在するのである。
しかしそれが破綻すれば、人生は終わるのだろう。

なんなのかというと、単純にするならば「意地」や「プライド」と表現できそうな強い感情かもしれない。
しかし、それに類するかもしれないが異なる。
自覚的にはもっと弱弱しい、己の否認に走るサガである。
自分、私、の持つそれについて言えば、大きく異なるのは後ろめたさと違和感であり、また、肯定あるいは中立的に自分を「監督」できていないということ。

自分が自分であるという感覚を持つことと、そうでなく、どこか俯瞰するような感覚が両方ある。
あるが――どちらにせよ自分をうまく操作できない。
どういうことかというと、必要なことを組み立てたりできない。
また、無計画にふらふら、気まぐれにフォーカスしたところで、習得したり、満足するまでできない。
「ちょうどいい目」まで続けたり、あるいはうまくやめるということができない。
「限界まで」をしない。
頑張れない。
ということは、「頑張った」、「できた」感覚、自分への肯定の経験が未知であるか遠いものにある。

これら「不出来の見方」が自分に対する日常的なものである――というところは、たぶんというか確実に問題である。
「不出来の見方」を、本人であるところの私より、医学的に、専門的に理解している人はいるかもしれない。
その見地からの解説もできるだろう。

しかしこの感覚に直截(ちょくせつ)対峙するのは何者もおらず、あえて言うならば「私自身」をおいてほかにはいないというのが現実である。
だからこそ、この問題は根深い。

おそらく、社会を隅々まで観察しても、この「不出来の見方」を抱き、病的になり、不全となっている人は多く観察できない。
「存在するだろう」、ということを前提としても、観測できる状態にまで「浮上」していないのではなかろうか。
――つまり、これら「自分自身への苦情」、「自分にしかない問題」を、わざわざ見えるところで言語化する人はめったにいないであろうと思う。

そもそもそこまでのやる気、そうする意義が薄いではないか。
「不安の効果」、「不出来の見方」と仮称した感覚を持つ「私」は、ひとの目を気にして萎縮するのだ。

私自身の話として、「大きな意図のない文章」は好きだが、ある文章について、「大きな意図のない文章」として読むかどうかはひとの目に触れた時点でおのおのの経験や感性に委ねられる。

そもそも私の話であるこの文章は、ひとに向けたものでなく、不安でなんとなく書かずにいられなくなったものである。
トツトツと書いているうちに文量が増え、だんだんと「説明」じみてきたので、書き始めの部分にも多少手を加えて、公開して後悔してもまあいいだろうと思ってきた次第である。

それだけのものにあえて意味を持たせるのならば、「『不安の効果』に似た煩わしさを知るひと」が辿り着き、一種の安堵を持ってほしい。

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