
オリバー・ツイストと、ジーニアス英和辞典と。
本題に入る前に前回の記事について一点訂正がある。
リリー・フランキーさんの仕事論を引用してプロについて書いた前回の記事の中で「プロの物書きとして、無料で記事を出すのをやめる」という宣言をした。
プロを自認するためにもうひとつ決めたことがある。それは記事は有料で出すということ。無料で記事を出すのを止めるということ。
それで実際に有料エリアを設定して100円で出してみたのだけれど、これがびっくりするくらい読まれなかった。アクセス状況を見るかぎり、ひとつ前の記事と比べてビュー数はそれほど変わらない。でもスキの数がまったく違う。
●今回の記事「だって、プロなのだから」のアクセス状況↓
【ビュー数】45 【スキ】3
●ひとつ前に書いた「小説を書くということ」のアクセス状況↓
【ビュー数】56 【スキ】26
当然ひとつも売れていない。いやあ甘くないね。「あいさつ代わりのスキなんて意味ないでしょ」と斜に構えていたのだけど、意外とメンタルに来るんだな、これが。
お世辞だとわかっていても褒められたらうれしいし、あいさつだとわかっていてもスキされたらうれしい。いつもつけてもらっていたスキが突然つかなくなることで、書くモチベーションがガクッと下がってしまった。物書きとしてモチベーションを高めるために有料記事宣言をしたのにこれでは本末転倒だ。
というわけで、恥を承知で前言撤回させていただきたい。有料記事はこれからも出すけれど、すべてを有料記事にする話は一旦白紙に戻す。様子を見ながら月に1回程度のスパンで出していこうと思う。
今回書いた有料記事も無料に戻そうか迷った。だけどどれだけ読まれなかったかを後々比較もできるだろうし、はじめての有料記事として記念に残しておくことにする。
ちなみに有料部分で書いているのは、成人式の話だったり、こたつ記事ライター時代の話だったり……。まあ100円なのでね。缶コーヒー1本より価値があるかどうかはわからないけれど、よかったら読んでやってくださいませ。
──
閑話休題。
仕事、朝活、日記、読書、勉強(簿記)、ペン字、ウォーキング、筋トレ、掃除……ここ数年、習慣化が自分の人生の軸となり、あれほど苦手だった物事を継続することが以前よりはいくぶん得意になった感覚がある。そんな中でまたひとつ、新たにやってみたいことが頭に浮かんできた。洋書だ。
ペーパーバックをスラスラ読めるようになる。英語を志したことがある人なら誰でも一度は、スタバでコーヒーを片手にペーパーバックを読む自分のドヤ顔を想像にてニマニマした経験があるはず。
東京の名門私立大学の英文科への進学が決まったときには、英語達人になって社会の第一線で活躍する自分を想像してやまなかった。ペーパーバックでも英字新聞でも軽々と読みこなしている予定だった。
ところが蓋を開けてみると、サークルとバイトと恋愛に勤しみ授業すらまともに出席しない。ペーパーバックが入り込む余地なんてどこにもなかった。都合6年も在籍したのに、結局ただの1冊だって読破できずにモラトリアム期間はあっけなく終了した。
その後いろいろあって英語そのものも避けるようになった。英語ができなくたって別に困らない。英語が必要なら通訳を雇えばいい。そう自分に言い聞かせて英語という夢の箱にしっかりと蓋をして、養生テープでグルグル巻きにしてクロゼットの奥深くにしまい込んだ。
あれから十数年、すっかりホコリをかぶったあの"箱"が、ひょっこり顔をのぞかせた。モーニングページだったりnoteだったり、心の内に秘める思いを手探りで言葉にするうち、あえて見ないようにしてきた箱の存在に気づいてしまった。
「ペーパーバックを読破したい。」
英語ペラペラになるとか、TOEICで900点を取るとか、もはやそんなことはどうでもいいの。英米文学の名作を原著で楽しみたい。ただそれだけ。
──
そんな心の声に素直に従ってウキウキしながら街へ繰り出し、馴染みの本屋の自動ドアをくぐる。地下1階から9階まで、ビル一棟のフロア中の書棚に古今東西の本がところ狭しと並ぶ都内でも随一の大型書店だ。ここ最近は通販に頼りきりでご無沙汰していたけれど、学生時代から何百回通ったかわからない。いつも通り入口そばの上りエスカレータに足を乗せ、目指すは9階の洋書フロア。
ところが、9階までたどり着いて愕然とした。あの、都内でも有数の広大な洋書フロアがすっかり消失していた。「芸術・洋書」と書かれていたはずのフロア案内には「芸術・イベントスペース」の文字が。
「え、洋書の取り扱いを止めちゃったのか……」と肩を落とし、所在なく立ち尽くす。たしか、上京してはじめてペーパーバックを買ったのもこの9階だった。英語ペラペラですみたいな顔をして、ひとつも読めないペーパーバックの背表紙を眺めながら大学の授業の空きコマをつぶすのが好きだった。思い出がひとつ失われたみたいで少し悲しい。
「ほかの書店に行こうかな」と悩みながらボーっと壁面のフロアガイドを眺めていたら6階に「洋書」の文字を発見。フロアを移動したのかといそいそ下りてみたのだけれど、そこにあったのはわずか3列ほどのミニミニ洋書コーナー。悲しい。
とはいえこのご時世、書棚に本を並べていただけているだけでも感謝しなくちゃいけない。普段は家から一歩も出ずに通販でお手軽に本を手に入れているくせに、たまに出てきてお目当ての本がないとぶう垂れるのはまったくお門違いな話だろう。
幸い今日は特別マイナーな本を探しているわけじゃない。ひとつはジーニアス英和辞典。これはミニミニ洋書コーナーの3倍ほどの書棚を設ける語学書コーナーですぐに見つかった。学生時代には、参考書や予備校講師にやたら詳しいだけの受験生のようなノリで新英和中辞典だのリーダーズだのプログレッシブだのウィズダムだのあれこれ手を出した記憶があるけれど、意味がわかれば何でもいいので一番メジャーなジーニアス。
もうひとつは、いい感じのペーパーバック。英米文学の古典、クラシックで読みごたえのある名作のペーパーバック。
第一候補だったヘミングウェイの処女作『日はまた昇る』(The Sun Also Rises)は残念ながら見当たらなかった。1953年にピューリッツァー賞、1954年にノーベル文学賞を受賞した代表作『老人と海』(The Old Man and the Sea)は何冊も置いていたのだけれど、ちょっと薄すぎるので却下。
薄いというのはもちろん内容の話ではない。物理的に薄い。値段は高いのに薄い。輸送コストの問題なのかプレミア的な問題なのか事情はよくわからないけれど、とかくペーパーバックというやつは紙面の分量と値段がまったく比例しない。老人と海のように100ページ少々でも2,000円近くする作品もあれば、500ページ近いのに1,000円で手にはいる作品もある。
それだったらできる限り分厚いほうがいいじゃないか。というスーパーの総菜コーナーで半額シールのついた商品を選ぶような目つきでじっくり吟味して、チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』(Oliver Twist) を購入することに決めた。
──
基本的には分厚くて安ければ何でもよかったのだけれど、なんとなく聞き覚えのあるタイトルだったこと、純粋に物語のあらすじがおもしろそうだったことも決め手になった。ハンドメイド感たっぷりの帯にはこんな風につづられている。
救貧院の孤児として育てられたオリバーは、食べ物も満足にあたえられず、煙突掃除屋や葬儀屋の仕事を強要される。耐えきれなくなった9歳のある日、ロンドンで出会った少年に案内された場所は、なんと窃盗団の巣窟だった。過酷な運命に翻弄される少年とそれを取り巻く人々をドラマチックに描く傑作。
主人公が困難にめげず成長していく王道のサクセスストーリー。わかりやすくて良い。本文はまだ1行も読んでいないけれどすでにおもしろい。
『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』などの代表作を持つチャールズ・ディケンズは、英国を代表する作家のひとりだ。ディケンズ自身、オリバーと同じく貧困に苦しむ少年時代から身を起こして国民的作家になった。
『オリバー・ツイスト』が書かれたのは1838年、今から185年も前のことだ。日本では天保9年。江戸時代末期。坂本龍馬が生まれたのが天保7年、大隈重信が生まれたのが天保9年と考えれば、どれだけ古い作品かが際立つ。
一応英文科に在籍していたので名前だけは知っていたけれど、翻訳ですら作品に触れたことはない。書かれた時代も違うし、英文もなかなかに難解だと聞く。
──
「ペーパーバック一冊目で挑戦するのはさすがに無謀なのでは?」という心の声が聞こえた気もした。たしかに若かりし頃のボクであれば一瞬で挫折しただろう。あるいは(もはや記憶にないけれど)すでに挫折を経験済の作品なのかもしれない。
でも大丈夫。何も1週間で読もう、1か月で読もうなんて野望は抱いていない。目標は1日1行。期間の定めなし。焦らずマイペースでコツコツ読み進めていく。
目標を一番低いところに設定する。とにかくハードルを下げまくる。これがこの数年、さまざまな習慣化を実現してきたボクの結論。詳しいことはほかの記事でも書いた気がするけれど、習慣化は110mハードル走ではなくフルマラソンだ。存在に気づかないくらい低いハードルを毎日跳び続けるイメージで続けると、習慣化はうまくいく。
最低ラインを定めているだけだから、気分が良ければどれだけ高く跳んだってかまわない。無理に跳ぼうとしなくても、慣れてくれば自然と高く跳べるようになってくる。
たとえばボクはこの方法で、何年も前からペン字を練習している。市販のペン字練習帳を最低1日1文字。どんなに忙しくても1文字くらいだったら書ける。コツコツ続けて3冊目。最近ではペン字の延長で般若心経の写経にも手を出している。まだまだお手本には程遠いけれど、はじめたばかりの頃と比べたら我ながらずいぶん上達したと思う。
あるいは筋トレ。今でこそゆるワンパンマンチャレンジと称して腕立て100・腹筋100・スクワット100・ウォーキング1万歩というメニューを毎日こなせるようになった。でも元々はどれかひとつ10回できたらOKという激ゆるなルールだった。
だから今回もきっと、大丈夫。
──
ヤバいよヤバいよヤバいよ!ヤバイよ!!まだ2行しか読んでいないのに、さっそく挫折しそう(笑)
(申し訳ございません、大変調子に乗りました。つい3時間前までイキり散らかしていた自分を小一時間説教したい気持ちでいっぱいでございます)
ある程度苦戦するのは想定して読み始めてみたのだけれど、1行目から想像のはるか斜め上を超えてきた。
AMONG OTHER PUBLIC BUILDINGS IN A CERTAIN TOWN, WHICH for many reasons it will be prudent to refrain from mentioning, and to which I will assign no fictitious name, there is one anciently common to most towns, great or small: to wit, a workhouse; and in this workhouse was born--on a day and date which I need not trouble myself to repeat, inasmuch as it can be of no possible consequence to the reader, in this stage of the business at all events--the item of mortality whose name is prefixed to the head of this chapter.
ナニコレ。1行の分量がバグってる。書き起こすだけでもめまいがしてきた。
しかも辞書と首っ引きになりながら格闘し、なんとかかんとか意味をとって次の行に進むとこう来る。
For a long time after it was ushered into this world of sorrow and trouble, by the parish surgeon, it remained a matter of considerable doubt whether the child would survive to bear any name at all, in which case it is somewhat more than probable that these memoirs would never have appeared, or, if they had, that being comprised within a couple of pages, they would have possessed the inestimable merit of being the most concise and faithful specimen of biography extant in the literature of any age or county.
いやいやいや(笑)ディケンズさん、ピリオドって知ってますか?
次の行も、その次の行も、そのまた次の行もこんな感じ。冗談じゃないですよ。誤字がないか見直す気も起らない。
最低限の一番低いハードルのつもりで「毎日最低1行読もう」なんて目標を立ててみたけれど、その1行がこれじゃ……。
よくよく調べてみたら、この何行にもわたる長文を多用するのがディケンズさんの文体の特徴らしい。翻訳家の方が英語の名作の読み方をアレコレまとめてくださっているブログに詳しく書かれていた。
また、文体にもそれぞれに個性が感じられます。芥川龍之介は歯切れの良い短文が多い(ヘミングウェイ的)ですが、谷崎潤一郎は「悦子は母が外出する時でも雪子さえ家にいてくれれば大人しく留守番をする児であるのに、今日は母と雪子と妙子と、三人が揃って出かけると云うので少し機嫌が悪いのであるが、二時に始まる演奏会が済みさえしたら雪子だけ一と足先に、夕飯までには帰って来て上げると云うことでどうやら納得はしているのであった。」というような何行にもわたる長文も多用するのが特徴です(ディケンズ的)。
芥川龍之介はヘミングウェイ的で、谷崎潤一郎はディケンズ的だって。なるへそ。
ディケンズでもオースティンでもヘミングウェイでも、いわゆる「名作」と呼ばれる作品の英語はけっして簡単ではありません。TOEIC満点レベルやふだん英語を読み慣れている方でも、かなり手こずると思います。
いわゆる古典と呼ばれるような作品に挑むには、その前段階として、英字新聞やベストセラー小説などを辞書なしで読めるレベルのリーディング力が最低限必要です。
やっぱりいきなり手をつけるべきじゃなかったのかも。いやでも「読書百遍意自ずから通ず」なんて言葉もあるし、昔の人はそうやって英語を身につけたわけでしょ。それに今はネットでいくらでも調べたり質問したりもできる。環境は恵まれているんだ。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。
とはいえ、さすがにこのままじゃまるで歯が立たない。そもそものレベルが低い上に10年以上英語から離れていたわけだし、多少のリハビリは必要かもしれない。
ありがたいことに、前述の翻訳家さんのブログの中で洋書を読めるようになるための英文解釈(精読)のテキストがいくつか紹介されていた。
オリバー・ツイストではないけれど、同じディケンズ作品『クリスマス・キャロル』の精読本もあるのか。ありがたい。
調べていたらこんな本も見つけた。ヘミングウェイで学ぶ英文法だって。これは刺さる。どストライク。
大学受験用の英文精読や英文解釈系の参考書を勉強し直すのもいいかもしれない。自分が受験生のときは予備校のテキストをひたすら音読するだけの体育会系の勉強法で、理論的なことにはほとんど手をつけてこなかったし。
これはなかなかに歯ごたえのある壮大なチャレンジになりそうですな。オラ、ワクワクすっぞ。
どうか還暦を迎えるころには英語の名作をスラスラ読めるようになっていますように。
〈了〉
いいなと思ったら応援しよう!
