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【インターネットエッセイNo.2】オタク趣味、25歳限界説

 最近めっきりオタク系趣味に傾倒することがなくなってきたように見え、なんか成長とか老化とか感じなくもないなあとか思いながら日々を過ごしているわけですが、昔から「何かを提唱する」とか格好いいなあとか思っていたので、n番煎じか分かりませんが、『オタク趣味、25歳限界説』というのを唱えてみたいと思います。

 まあ、酒に酔いながら(密林で四千円くらいの良さげな芋焼酎的なものを買ってみた)人生に迷いながら書いてるので真に受けないでほしいのだけど俗に言う「オタク趣味」(アニメ、漫画、ゲームetc)を恥ずかしがらずに大手を振って「趣味」として他者に紹介できるのは「24歳くらいまで」かなあとか最近思ったりする。

 これには偏見とか自験とか関係なく理由があって、大学+大学院を修了し社会へと羽搏いていくのがこれくらいの年頃だからで、社会に出れば自ずとそれ相応のふるまいを求められざる(可能/受身)を得ないよなあという確固たる実感があったりする。
 

 エコーチェンバーじゃないけれど、ネットのオタクというか蛸壺みたいに集まって紋切り型のコミュニケーションを今日も今日とて飽きもせずに繰り広げているオタク達は自覚も薄いかもだけど成人というのは「20歳」(今は改正されたので18歳)くらいなわけで、この頃にはわざわざ言われずとも「大人の常識」とか「年相応のふるまい」だとかを求められていたりする。

 私は成人式とかいう振袖とか着て昔の武勇伝ならぬ黒歴史を引っ提げ暴れまわる謎イベントに出席しなかった(出来なかった、そもそも引っ越ししたし中学から私立なので出たところで昔からの知り合いとか一人もいねーよ)ので偉そうなことは言えないけれど、「普通」の人は「大人」になったらアニメとか漫画とかゲームとか「現実を描いていないもの」(全てがそうとは言っていない)から自然と(興味がなくなって)離れていき華々しい現実とやらで「リアル」な日々を育んでいくらしい(伝聞形)なのだけれど、どうにもそういう潮流にも乗り遅れ、なんだかなあなあな日々を送っていたとしても、それでも行きついてしまうのが24~25歳の壁だろうかなとか身勝手にも思ったりする。

 自分の個性とか才能だとかそういった芽吹きの可能性に背を向け、労働や学問や家庭とかいう柵に絡めとられ(偉そうに宣ってるが私はそのいずれもから目を逸らした)、次第に幻想への飽くなき探求が色褪せていき現実への安楽へと置き換えられてしまう。それは悲しくもあるけれど、確かに一つの成長であるのだと思う。中高生の頃とかはいくらでも空想とか妄想に耽溺できたけれど、漫画とかいつまでも恥ずかしげもなく立ち読みできる気がしたけれど、現実てか社会でまっとうに生き抜こうとすれば自然と選択肢の優先度からは外れていってしまう。そういった境界の年代がこのくらいなのかなあとか今を生きていて思ったりする。

 勿論、サブスクの発展だとかオタク趣味のカジュアル化(言うほどか?)によりいい年をして現実と乖離した(故に尊くもある)幻想世界へ没入していても眉根を顰められにくくある現代だとしても、何処とない居心地の悪さだとか、「同類」と馴れ合いそのうちに擦り切れるように消滅していくことへの恐怖だとかもっと端的に現実での自分の立ち位置だとかを気にする内に次第次第に幻想から剥離し現実へと回帰していくわけです、その過程で未だに非現実にシガミツク負け組(仮)へ「幼い」だとか「不気味」だとか「いい加減現実診ろよ」とかそういう言葉でなけなしの反抗と自己正当化を試みてみたりもする。自らの至らない振舞いの羞恥と周知に悶える日々。いっそ突き抜けた狂人にでもなれればいいんだろうけれど、それも難しいよなあとか、痛々しいよなあとか、第二の思春期かなあとか、思ってみたりもする。周回遅れの生を送ってる身とすれば。本当に何言ってんかわからないなあ。

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