国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む⑦
上記、前回記事の続きです。
7、8 このひとの素性(一)(二)
国分は自分を取り調べた砂田周蔵の生い立ちや思想の形成について、さまざまな資料をあたって調べ、記述しています。
砂田は、1907年に山形県西村山郡谷地町に生まれています。国分は北村山郡東根町に生まれています。地図で見ると、両町(今の東根市、河北町)は隣接しています。砂田は国分の4歳年上です。
砂田は尋常小学校または高等小学校を出たあとに、上京し、有島武郎に師事したことが記録に残っています。当時の白樺派の文学運動に共鳴したことが予想されます。1924年に郷里に戻ってきた砂田は海老名光太という少年とともに4月、「青潮社文化会」という会を組織します。これは、自由な文化を求める文芸愛好青年の集まりでした。この会の機関誌には、過激な社会主義的言辞も掲載されたので、しばしば発禁処分を受けたようです。そのなかでもっとも急進的な思想をもっていたのが砂田周蔵らであったとの記録を国分は発見します。
この「青潮社文化会」は結成年からわずか8ヶ月で解散し、その会員で「政治研究会谷地支部」を結成します。この研究会は、大衆の問題を具体的につかみ、政治的闘争の共同戦線に立つという目的で政治を理解するための会だったようです。
そのころ1924年には、日本農民組合が結成されています。砂田らは日本農民組合とのつながりを持つようになっていきます。
そんななかで1926年に「政治研究会谷地支部」を「大衆教育同盟山形県支部」と改称します。そしてその支部内には日本共産党の合法新聞である「無産者新聞」の支局が設けられます。無産者新聞は、現在の共産党の機関誌「赤旗」の前身です。
山形県における左翼的な農民運動に砂田がどのていど関わり合っていたのでしょうか。国分ら東北の綴方教師たちを治安維持法違反で徹底的に調べ上げた砂田自身が、左翼的な運動に関わっていたのでしょうか。
砂田が検挙される
国分は砂田の経歴を調べていくなかで、砂田が検挙された事実にたどりつきます。砂田が所属した「大衆教育同盟山形県支部」は、「労働農民党の山形県支部」として発展的に解消し、砂田はその経理部長兼教育部長となっていました。労働者や農民で財産の無い人たちのことを無産者(プロレタリアート)といいます。この頃には無産者を守ろうとする政党である無産政党が生まれました。その一つが労働農民党です。
1927年4月、砂田はメーデーの準備をし、現地の寒河江警察署の中止命令にもかかわらず行進を決行。警察官との乱闘になり、治安警察法によって検挙、送検されることになりますが、砂田は釈放からほどなくして「メーデーに対する警察干渉の批判演説会」をひらいています。
その12月、砂田は徴兵され、満州公主嶺独立守備隊に入営することになります。「独立守備隊」は、南満州鉄道を守備する歩兵隊です。これを期に、山形県の社会運動史・農民運動史から砂田周蔵の名は、プツリと消えることになります。もし砂田がこのまま運動を続けていれば、国分と砂田は「検挙者と特高」という関係ではなく、「教師と活動家」という関係で地域の発展のために献身する同志として出会っていたかもしれません。
しかし満州から帰ってきて砂田がついた仕事は、「警察官・特高係」として故郷の民衆、農民、労働者に対面するものでした。軍隊の中でも憲兵、しかも思想係となったとするなら、そのような立場で思う存分マルクス主義や日本の資本主義の発達やその論争などについて研究できたと思われます。このような環境であるならば、地元警察に警戒されながら、しかも小学校教師をしながら学んでいた国分らに比べ、砂田の知識量は格段に多かったのでしょう。なんのメモも見ずに、訊問調書を専門用語を交えて調書を「でっちあげていく」、その様を国分は思い出し、「なるほどなあ」との感を深めるのでした。