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国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む⑩

前回の記事の続きです。

13 党

 特別高等警察官の砂田は、国分に日本共産党との関わりをたずねます。はじめ国分は、自分のしごとと共産党とはなんの関係もないと答えます。国分とともに北日本国語教育連盟の理事となった東北6県12名のメンバーに、共産党員は一人もいませんでした。また、共産党から命令されるということもなければ、上部団体・外郭団体からの支持をうけるということは、けっしてなかったと国分は明言します。

 そう主張する国分に対して砂田は、治安維持法の調べの順序として、共産党のことを訊問しておくことになっていると言います。そして日本共産党の結党や解党、再建についての歴史を確認していきます。砂田は自身も活動家であった過去があるので、そのへんのところは詳しいはずなのですが、あえて国分に問う形で訊問を進めていきます。さらに当時の共産党の論争について確認していきました。

 この章では、国分の知識よりも、砂田の知識のほうが圧倒的に多く、国分がたじろぐ様子が書かれています。砂田が教師で、国分が生徒であるかのような問答が続きます。そしてそのようなやりとりの後、砂田は村山俊太郎の訊問調書の一冊をとりだして、それを見ながら、国分の「答え」を書き始めます。

「つづいて昭和七年五月には、コミンテルン執行委員会が、日本の片山潜、野坂参三らの参加のもとに『日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』というものをつくりました。これがすなわち『三二年テーゼ』といわれるもので、その後の日本共産党の戦略と戦術は、長くこれを基準として考えられるようになりました。このテーゼは、日本帝国主義が国外、国内ですすめている施策の総体をこまかく検討し、天皇制権力機構と独占資本主義および地主階級の結合関係をあきらかにして、日本における革命の性質を、ブルジョア民主主義革命とし、民主主義革命から社会主義革命への強行的転化の根拠や必然性をあきらかにしたのであります。そして革命的プロレタリアートの党としては、ブルジョア民主主義革命の達成のために、労働者や農民インテリゲンチャその他のあいだで、多数者を獲得すべきことなどを確認しておりました……」(123ー124ページ)

 砂田はこのように書き終えると、国分に署名捺印させました。そのあと砂田はもってこさせたお茶を飲みながら、国分が強情だと言い出し、宮城の鈴木道太があっさりと「自分は共産主義者であり、日本も早く共産主義になればよい。北方性といいだしたものは、みんな同じ考えだった」と言ったことを切り出します。国分は、かまをかけられていると疑います。そこへ砂田は怒りの色でこう言います。

 「共産党員ではないが、共産主義のための運動はした。こう正直にいってもらわなければ、ダメなんですよ。(中略) 君の尊敬する村山君も、ちゃんと、コミンテルンおよび日本共産党の目的遂行のための運動をしたんだと、このぼくにも検事にも述べているんですよ。」

 ここで「コミンテルン」「三二年テーゼ」の解説を、『社会科学総合辞典』(新日本出版社、1992年)から引いてみます。少し長い解説です。こういった政治的な知識については、当時を理解するうえで必要になりそうです。

コミンテルン 共産主義インタナショナル(1919〜43年)の略称、第三インタナショナルともいう。科学的社会主義を指導理論とし、民主主義的中央集権制にもとづく世界の共産主義運動の統一的な国際組織。第1次世界大戦がはじまり、帝国主義戦争に賛成した第二インタナショナルの社会民主主義諸党とわかれて、帝国主義戦争に反対した共産主義者の党の世界的結集として、レーニンの指導のもとに、1919年3月に設立された。各国共産党はコミンテルンの世界大会で選出された執行委員会のもとでその支部として活動し、日本共産党も、その日本支部として結成された。こうした組織形態や活動方法は各国の革命運動が未熟な時期には、歴史的に必要なことであった。コミンテルンは世界各国における共産党の創立と強化に貢献し、とくに第7回大会(1935年)で侵略戦争とファシズムに反対して反ファシズム統一戦線を提起するなど世界の平和・民主勢力の運動ではたした歴史的役割は大きかった。しかし、スターリンの覇権主義、専断、その他の誤りと関連して世界の共産主義運動に否定的影響をあたえた。1943年、コミンテルンは各国の党や運動が質的にも量的にも大きな発展をとげてきた段階で、民主集中制にもとづく統一的国際組織や国際指導部の存在が各国共産党の自主性の発揮をおさえ、かえって各国の党や革命運動の前進にとって障害となるにいたったことなどの確認にもとづいて解散した。

『社会科学総合辞典』(新日本出版社、1992年)、213ー214ページ

三二年テーゼ 1932年、コミンテルンで片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら党代表が参加して決定された日本共産党の綱領的文書。正式名称は「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」。日本帝国主義が中国にたいする侵略戦争(満州事変)を開始し、天皇制の軍事的警察的支配がいちじるしく強化された情勢のもとで、日本帝国主義の性格を分析し、日本の情勢の特徴と革命の展望を明らかにした。三二年テーゼは、①中国侵略戦争の性格と今後の見とおしを明確にし、日本帝国主義の対外侵略が、国内の勤労者にたいする搾取と抑圧の体制を強化する政策と不可分であり、戦争が必然的に国内の諸矛盾を先鋭化させること、②日本の支配体制を、天皇制・地主的土地所有・独占資本主義の3つの要素の結合として特徴づけ、天皇制は地主階級と独占資本の利益を代表しながらも相対的に独自の役割をもつ絶対主義的性格をもった権力であると分析し、天皇制国家機構の粉砕に日本革命の第1の任務があるとした。③そこから、日本の当面の革命の性質を、「ブルジョア民主主義革命」と規定し、この民主主義革命の主要任務として、(1)天皇制の打倒、(2)寄生的土地所有の廃止、(3)7時間労働制の実現をあげ、当面の中心スローガンとして「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者と農民の政府のための人民革命」をかかげた。三二年テーゼは、31年の「政治テーゼ草案」(「社会主義革命論」をとなえる「左翼」日和見主義の方針)の誤りを克服し、二七年テーゼをさらに発展させ、日本の社会発展の法則的な方向ーー民主的変革の不可避性をしめす画期的方針として、日本帝国主義の敗北にいたるまで、党と労働者階級のもっとも重要な指針となった。しかし三二年テーゼは、当時、世界の共産主義運動で支配的だった「資本主義の全般的危機」が切迫しているという主観主義的情勢評価や、セクト主義を批判しながらも「社会ファシズム」論をいっそう明確に定式化するなどの弱点もふくまれていた。

『社会科学総合辞典』(新日本出版社、1992年)、233ー234ページ

 

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