素敵な人に出会うと、素敵な人になりたくなる(推しの話)
私は他人に影響されやすい。
他人というのはつまり、好きな人である。推しに影響されやすい。
推しが好きな食べ物は積極的に食べたいと思う。
推しがやっているスポーツは可能ならば私も始めたいと思う。
推しの趣味を、私も趣味にしたいと思う。
そういえば、私はとある言語を、ビジネスレベルではないがしゃべることが出来る。
大学で勉強し、留学に行き、その言語を知らない人からすると「ペラペラ」と言われる程度には出来る。
その勉強を始めたきっかけも、推しだった。
推しの話す言語だったからだ。
この言語に関しては、外発的動機付けから内在化に成功し、言語を勉強することが楽しくなったので今まで続けられている。
最近ふと思った。
自分は中身のない、ぺらっぺらの人間なのではないか、と。
好きな人(推しとか)がいる時はやりたいことがあって、生き生きとしているが、熱が冷めるとやりたいこと自体に魅力がなくなってしまう。
それってつまり、本当にやりたかったことではないのだ。
推しに近づきたいためにやっていることなのである。
憧れの先輩がいれば、近づけるように頑張る。
いなければだらーんと日々を過ごす。
よく言えばお手本になるものが存在すればそちらに近づいていき、なければ最低限しか動かない人間である。
推しが磁石で私が砂鉄。そんな感じだ。
その磁石を目指している瞬間の気持ちは本物だし、頑張りたいと思っている。
ただ、その気持ちは外付けのものなので、続かないのである…。
最近それが悲しい。とても悲しい。
私ははまったらずっと推しを追いかけられる存在だと自分の事を思っていたが、しっかりと自分の気持ちを感じて楽しもうと思ったら、推しはすぐに変わってしまった。正直本当に悲しい。
自分の心変わりが悲しい。
どうにかしてずっと同じ相手を追い続けていたいと思う。
が、ここまで書いて思ったのだが、基本的に私が「沼」だと認識している時って、普通の人から見るとくるっている時なのかもしれない。
そもそも普通、推しが外発的動機付けの存在になることってそこまで多くないのでは?と思い至った。
それはつまり、素敵な人、好きな人に出会った時は、私はボーナスタイムなのである。多分。
熱がさめることを嘆くのではなく、出会えた奇跡と新しいことに挑戦できる機会を得たことに、喜べばいいのかもしれない。
やってみて熱が冷めたら、それはそれでいい経験だったのだろう。
楽しい思いもしたと思うしね。
どうしてもずーっと同じことをしたい、それで極めたい、という願望があるが、私はそもそも飽き性なのである。
飽き性は飽き性らしく、その時の熱を楽しめばいいのかもしれない。
結論としては、やっぱり私は、たくさんのものに出会うために、色々なことのフットワークを軽くして出会いに行くのがいいのだと思う。
そこまでは理解できているのだが、私はめんどくさがりで引きこもり気質である。
noteを書いていて本当に、自分の中には正反対のベクトルの存在が多いんだなあと感じる。
note書いててよかった。