文章は、ゴミにならないから。

物を作ることが好きだ。

幼いころから手芸が好きで、それが編み物になったり、スイーツデコになったり、絵になったり文章になったりした。

思い返せば何かしらの創作活動をしてきたが、一番続いたのが文章を書くということだった。

文章を書くのが好きか?書いていて喜びを感じるか?と聞かれると…

正直そこまでではない。

小説を書くのはしんどいし、1000文字書くのだって私にとってはなかなかエネルギーがいる作業だ。

じゃあなんで、文章だけなんだかんだ続いたんだろう?自分でも不思議になった。


最近、樹脂粘土のミニチュアを作りたいと思っている。

ミニチュアの雑誌があって、それを買えば粘土と作り方が付いてくるのだ。

ミニチュアは昔から好き、ガチャガチャのようなものも好きだ。

集めたくなるし、見ていてかわいい。

でも手を伸ばそうとすると、いつも 「それで、どうするの?」 そんなことが頭に浮かぶ。

買ってどうするの?

飾ってどうするの?

毎日手に取って眺める?いや、そんなことはしない。

ゆっくり埃が積もっていって、半年もすればもったいないと思いながらもゴミ箱行きだ。

ミニチュアを作りたいけれど、作ってどうするんだろう?

どうせそれだって最後はゴミになるんじゃないだろうか、そんなことを思って躊躇する。

私の創作は、いつも「作ってどうするの?」に悩まされてきた。

使わないのだ。

ふと思い出した。小学生のころ、ボランティアクラブでバザーに出る、という活動があった。私は一生懸命手芸で人形を作った。

目的のある創作は楽しかった。

けれど、私は体調不良でそのバザーに出られなかった。

作った人形は売り場に置くこともできなかった。

先生が材料費をくれて、それで私の作った人形はおしまいだった。

一生懸命作ったのに、楽しかったのに、扱いようがなくて小学生の私は人形をゴミ箱に捨ててしまった。


クリスマスに、両親に紙粘土で鉛筆立てを作った。

一生懸命作って、喜んでくれると思った。

実際喜んでくれたが、その鉛筆立てが使われることはなく、部屋の片隅で埃をかぶっていた。

私にとって作ることとは、そういうことなのかもしれない。

作っている時は楽しいけれど、その先がないのだ。


ただ、文章は違う。

二次創作をすれば、喜んでくれる人がいた。

好きなものを書いて、表現してほめてくれる人がいた。

数字で結果もかえってきた。

自分は書いて満足して終わりでも、そのあとも何度も読み返してくれる人がいた。

部屋で邪魔になってゴミ箱に捨てられることもなく、埃をかぶることもない。

誰にも見てもらえなくても、ふと自分で見返して、くすりとできた。

たまに少しだけ、お金になることもあった。


作ったその先があるから、文章を書くことが続いている。

もっと素敵な理由があればよかったけど、そういうことなんだと思う。

私は自分が作ったものが好きだから、ゴミ箱に運びたくないのだ。

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