やってみることに失敗はないのだ。
19世紀頃の図面が好きだ。知りたい!作りたい!という熱量を感じる。
これは韮山の反射炉製作の参考とされた当時の図面のコピー。製作用の特殊工具類が描かれている。治具とか工具とか、地味だけど不可欠。
ここは世界遺産に登録された、韮山反射炉。
幕末の最新鋭兵器製造工場の遺構。
産業遺構は目的が明確だ。リターンを求めて合理的に判断されている場合が多い。実行された時代の判断基準、検討の限界、投資とリターンのバランス感覚を実感することができる。宗教遺構より分かりやすい。
このプロジェクトの実行判断が、なぜその時に、この場所に、成立したのか。
誰が、何を目的に判断したのか。その目的は達せられたのか。
ここだけじゃなかった。
当時、日本のそこここで、外国船の出没に怯えていた。オランダからの技術情報を知る学者が、諸国に出入りしていた。
同じ動機とタイミングで、各地にいくつも建設されていた。韮山が特別に重要だったわけではなく、たまたま今日までこの姿を残したことで、私たちは他の場所の物語も想うことができる。 残さなきゃ。
韮山には、江川英龍がいた。
彼に、実現可能な技術情報と、資産と、組織と、判断力があった。産業化は思い付きでは実現できない。彼にゴールが描けていたから、彼は突っ込めた。
東京湾に今も残る、外国船から江戸を守ろうと建設されたお台場。彼が企画し、幕府を動かし、建設の差配まで請負っている。
この模型には痺れた。
彼がこの模型を家臣に作らせて、幕府にプレゼンしたのだろうか、作業員に説明したのだろうか。図面も重要だが、模型には圧倒的なリアリティーと情報量がある。それが人々に伝わりプロジェクトを成功に導く。
彼が勉強家で、優秀で、知己も多く、判断力に優れ、表現力もあり、先を見通していたことは、有名だ。しかし、兵器を造る先端技術の開発を、安政の大獄を実行するような江戸幕府が、よくも地方の代官に許したものだと不思議に思っていたが、彼は、最も大切な「信用」を、過去のプロジェクトで既に築き上げていたのだろう。
彼は困った時に鍋島藩からアドバイスを受けている。国防秘密に近い最新の武器製造技術を他藩と共有するとは、鍋島藩はなんて太っ腹なのか、英龍はどれだけ信用があるのか、外国船にたいして国防意識が藩を越えていたのか、国家単位「日本」の意識が共有されていたのか、驚きの連続。
彼は軍隊調練のために「回れ右」「気をつけ」「右向け右」などをオランダ語から導入したという。世界情勢▪国防ビションから、マネジメント手法まで実行している。反射炉建設は、彼のビションのほんの一部なのだろう。
彼本人は反射炉の試運転中に病没している。安定運転を見ていない。彼の死後家督を継いだ息子はまだ若かったことから、彼が生前に既に、新技術である反射炉の運転を実行できる組織、材料の調達スキームなど、全部作り上げていたことが推察される。凄まじい優秀な家臣団。そんな組織を幕末に作れたのだ。
一方で、アメリカ南北戦争の終結や、西欧各国からの兵器輸出が本格化したことなどから、「自前主義」的な製造では兵器の消費に追い付かなくなる。特に高性能だったわけではない韮山は、早々に忘れ去られる。未来は誰も分からなかった。
韮山の反射炉着工は1854年
日清戦争は1894年、
八幡製鉄所の第一高炉の火入れは1901年。
ここまで50年足らず。壮絶な産業成長の速度。
動機は戦争
この川は、動力であり、工業用水だった。英龍の自由になる範囲では最高の立地だったのだろう。
八幡製鉄所の面積や立地選定と比較すると小さなスケールかもしれないが、英龍のビションの大きさは個人としては、関わった誰よりも大きかったのかもしれない。
調べてみたらまだまだ出てくる。すごい人物だ。
さらに、英龍ほどの人物が、日本各地の諸国に反射炉の数ほどはいたとなると、なんと豊かな時代だったのか。あるいは恐怖の底の時代だったのか。
彼らはいてもたってもいられず、大砲がほしくて反射炉を、とにかく造ってみた。産業、投資としては成功とはいえ言えないかもしれないが関わった人全員に挑戦と経験を残した。
やってみることに失敗はないのだ。
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