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西☓☓駅 満腹編

満腹とは、おそらく99%以上の生物にとって安らぎや幸福を意味するのだろう。私は、場末のトーストに促された満腹感に大きな後悔を伴いつつも、動物として安らぎを感じていることに苛立ちを覚えつつ幸福だった。そして、この満腹感を、もっとも伝えてはいけない人物が私の前に現れた。
「早く閉めたいので出て行ってほしい。」
私が握るカップには、コーヒーとして名前と値段の付けられた濁り汁が、まだ残っていた。冷めたらその汁はさらにコーヒーから遠ざかって行くが、私をその椅子に留まらせるには充分な役割を担っていると信じていたのだが。
「ほかに行く場所が無い、もう少しここにいさせてほしい。」
私は満腹感では満たされなかった費用を屋根と椅子で充当するものと値踏みしていた。店主はうってかわって、善人とはわたしのことでございますとゴシック体で顔印字されているような笑顔で応えた。
「こんなに清々しい春の日に、こんな狭い店の日陰にいらっしゃらなくても?」
正直とも謙遜とも自虐ともつかないその均衡の取れた台詞にいたく敬服した私はその台詞と引き換えに、着席と濁り汁の権利を放棄して、清々しい春の日差しの元に出ることにした。

日差しは確かにすがすがしい、この町は、この日差しに値しないという現実が、日差しの下に闇を感じさせた。
「光り強ければ闇深し」というのならば、清々しい光りの元にはまがまがしい闇があるのだろう。
私の目は寧ろ後者に向かい、その光りによって可視化された店主の笑顔がその象徴となった。

不格好な街路樹の陰でも、字義通りには木陰なのだろう。陰さえも不格好で、その下は落ち着きがない。

不格好な1本の街路樹の、間抜けな立ち位置と落ち着きのない木陰、腐りかけたベンチ。この木々の植樹イベントに際しては、件の鳩糞銅像男も、紅白のリボン付きのおもちゃのシャベルを握っていたことだろう。
どこまでが彼の思慮の範囲なのだろうか。 空地に生える雑草までもだろうか。この駅前町は、もしや、私が強烈に感じた残念な世界などではなく、彼の思い描いた完璧な作品なのかもしれない、喫茶店の店主までもが、与えられた役割を演じきっている、いや、鳩糞銅像男に操られているのだ。

私は、意思のある男の話が好きだ。使命感と人望と資金と計画と誠と愛としばしば人望と、いろいろ望むべきもの、子供が成長の過程で身につけるべきものはあるのだろうが、最後に形作るのは意思だ。彼は死後銅像にされて鳩の糞にまもれるところまで意思をもって完結したように私は感じられた。それならばと、私は手洗場を見つけると、ハンカチを水で浸し、銅像にこびりついた鳩の糞をこそぎおとすことにした。

これは意地悪なのだ。彼は鳩のふん塗れの自分を望んでいたに違いない。
糞塗れが完璧に似合っているこの空間に、清潔に磨かれた銅像が存在したらいかに不釣り合いだろうか。私はその光景を夢想しながら喜々としてハンカチを汚した。

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