書くということ

フランスの社会学者、ピエール・ブルデューの著作に『話すということ』という作品がある。ブルデューの著作は何冊か学生時代に読んだけれど、この著作は読んでいない(本棚に眠っている)。とはいえ、なんとなく素敵なタイトルだな、という気持ちはずっと持っている。扱う主題はオースティン、サールあたりの言語行為論に近しいテーマなのかとずっと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。いつかちゃんと読んでみようと思う。

いつからか、書くことがとても苦手になってしまった。小学生のころは原稿用紙を沢山浪費することでマウントをとっていたような気がするし、学部の卒論も人文系の卒論にしてはかなりの大部だった。でも、修士に進学してすぐ、アカデミックの世界でサバイブすることをあきらめた頃からか、書きたいものが何もないことに気づいた。

いつ見ても中古の大衆小説を読んでいる親からは、「私にもわかる本を書いてほしい」と言われる(卒論、修論はあるわけだし、僕の名前で検索すれば、仕事で書いた報告書が複数ヒットするのだが)。

学生の頃は、「自分の経験に即した文章を書け、語りをしろ」と言われた(なぜ、自分に極めて身近なもの、あるいは自分のアイデンティティにとって致命的にクリティカルなものを研究対象とすることが是とされるのだろうか?興味のないもの、意味の分からないもの、異質なものを扱うことが許容されにくいのか?)

コンサル界隈(特に企業の戦略・事業系コンサル)では、短期間で質の高いインプットとアウトプットを繰り返すことが大事と説かれる。彼らは「腹落ち」を何にもまして重要視する。

しかし、書きたいことも、伝えたいことも、アウトプットしたいことも、僕にはない。何かを創作(creation)してみたいという漠然とした憧れはあるが、いざ取り組んでみようと思うと一面に広がる荒涼な荒れ地の前に絶望する。

何度か、趣味で小説を書いているという人に出会ったことがある。彼らは、自分の頭の中に書きたい世界がすでに出来上がっている。勝手に現実とは違う世界が構築され続けていて、自分はただそれを文字に落とし込むだけなんだ、と言っていた。以前何かの特集で職業作家の最たる存在である村上春樹が「毎日原稿用紙10枚分だけ書くことをノルマにしている。それ以上でもそれ以下でもない」、と言っていたのとは大違いだ。

まあ、そんなことはどうでもいい。

なんとなく何かを書くということをしないと、このまま頭がぐずぐずになっていくという不安感があったから、ちょっとそのための土台だけでも用意してみただけのことだ。いつまで続くかもわからないし、どの程度書くのかもわからない。まだ、何も見えていない。


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