[離別] 「クラシックサクソフォーン」という新ジャンル
サックスの歴史は180年(北斗神拳は2000年)。
ベルギーのアドルフ・サックスというお父さんが作ってくれました。
1840年のことですからものすごく新しい楽器なんですね。
フランスの軍楽隊が「音がでかくて、持ち運びが便利で、そんなに習得が難しくない楽器を作ってほしい」と依頼がありました。
それでいろんな楽器の「いいとこどり」をして作られたのがこのサクソフォーンです。
サックスさんの作ったフォーンだからサックス-オ-フォーンでサクソフォーンです。
そこでアドルフ父さん、この新しい楽器を軍楽隊に収めた後はオーケストラに持っていって使ってもらおうとしますが、「そんなの要らない」って一蹴されます。
このころはまだジャズはありません。ロックもありません。
教会で賛美歌が歌われ、街ではフォークソング(民謡)の時代です。
1900年代初頭、新大陸アメリカで自由な活動をしようとたくさんの移民がやってきます。
保守的なヨーロッパでは活動しにくかったプロテスタント、もちろん商人もきます。
そして革新的な芸術家も移り住みます。
なにせヨーロッパでは伝統にないことをすればまだ「悪魔か魔女か」など言われる時代。
案外最近までこんなこと言ってたんですね。
ちなみにサクソフォーンは当時バチカンから「悪魔の角笛」と呼ばれ教会での使用を禁じられていました。
そんなわけで保守的なヨーロッパが窮屈に感じた人や新天地でイッパツ当ててやろうとかそんな人はどんどん新大陸アメリカ、自由の国アメリカへやってきます。
希望にあふれていますね。別記事でもふれたように原住民や黒人にとっては災難でしたが。
さてここではそのことはさておき、新大陸アメリカで「音楽大学でサクソフォーンを教えようじゃないか」という先生が現れます。
いままで、ヨーロッパでは音楽大学にサックス科はなかったんですね。
それをこの自由な新天地なら、どんどんやればいいじゃないかということです。
ところが、作品がありません。
バッハ、ハイドン、ベートーベン、モーツァルト、名だたる大作曲家はだいたい皆さん鬼籍に入られてから作られたのでサクソフォーンのための曲なんて滅多にありません。
仕方なく、オーボエやフルートやチェロのために作られた曲をサクソフォーンで演奏するのです。
でもそうするとサクソフォーンはやっぱりチェロではないのでサクソフォーンの音がします。
わたしが思うにこの時に「サクソフォーンでやっているんだから、これで良いじゃないか!ここはアメリカだぞ!」っていうことになれば面白かったんですけど、ここで先生たちはどうにかしてチェロのように吹く技術を研鑽し始めます。
そうして「クラシックサクソフォーン」という一大ジャンルが爆誕するわけです。
かたや1900年代初頭といいますとちょうどジャズが産まれたころですね。
とうぜん軍楽隊で使われていたサクソフォーンは戦争が終わって庶民に手に渡りジャズでも使われ始めます。
1915年くらいにはかなり安価なCメロディサクソフォーンが生産され、かなり普及したこともあったそうです。
酒場に行くとピアノがあって、新天地アメリカなので地元の民謡はありませんから(原住民は自分たちが虐殺したり追い出したので)賛美歌を歌います。
このときCメロディサックスでピアノ譜の一番上の音符を吹いたら簡単にアンサンブルができるわけですね。
ジャズの世界ではごく中心的な存在としてサクソフォーンが起用されました。
このときジャズの世界ではチェロの代わりやオーボエの代わりをするなんてことはありませんのでごく普通に吹き続けます。
そうです。
ここでサクソフォーンの進化は2手に分かれたのです。
今まで通りの吹き方を踏襲し発展させてきたジャズ勢と新しい吹き方を模索し始めたクラシック勢という感じでしょうか。
現代にもこのアドルフ父さんがその手で作った180年前のサクソフォーンは手に入れることができます。
日本では国立音大の教授であらせられる雲井雅人先生がコンサートなどで披露されていましてたいへんすばらしい音色を聴くことができます。
雲井先生といえば「日本マウスピース噛まない教の教祖」と崇められていますが、この雲井先生の演奏で興味を持ったほかのクラシックサクソフォーンの先生がアドルフの手によるサクソフォーンを手に入れたところ、ご自身の従来の演奏方法ではついぞうまく扱うことができなかったと聞いております。
クラシックサクソフォーンと、それ以外のサクソフォーンの奏法、この時点で2別されたと書きましたが本来は同じもののはず。
事実、わたしもどちらのジャンルの生徒さんも途中までは同じカリキュラムでご指導しております。
もちろん音楽大学を目指すという志が固まってくる頃にはそちらのご専門の先生にお任せしておりますが、基本的な技術は同じことです。
むしろその基本的な技術がきちんと指導できていないと、どちらの道へ進んでもたいへんな苦労をすることになると考えています。