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書くのくそだりぃって思ったんだけど書かずにはいられなかった。

生き生きしている人たちの特徴に気づいた。

生き生きしている人たちは、主体性のある発言をする。これが特徴の一つだと思った。「私は〜と思う」「私は〜したい」「私は〜である」という主体性のある発言ができる人は、ほとんどの人が楽しそうだし、話しているこちらも楽しい。
(参考 槇村さとる「ピンで語ろう」『話ベタですが…』89頁、河出書房新社)

「オタク活動」が楽しいのも、主体的になれるからだと思う。「私は〜が好き」「私は〜推し」「私は〜のライブに行きたい」など、公的な場所ではなかなか発言ができない人でも、「オタク系文化」を目の前にすると人が変わったかのように主体性のある発言をする。そして、それを語る彼らは驚くほど(稀に暴力的とも言えるほど)に生き生きとしている。

もう一つの例として、「もし宝くじが当たったら?」という話をするときを思い浮かべてほしい。みな、自分がしたいことをキラキラとした目で、夢を見る子どものように語っている光景が思い浮かぶ。そしてその夢物語のほとんどは、「私は」から始まる。

主体性のある発言をする人は生き生きしている

こう考えてみると、たしかにそうで、
逆に、これまでつまらないなぁと思った経験のほとんどは、主体性に欠ける時間だったかもしれないと思う。例えば、これまでに何度か大学のゼミの先生と面談をする時間があった。いつも終わったあと、つまらないまではいかなくても、なんだかよく分からない時間を過ごしたなぁと思うことがよくある。そしてその原因は、私が自分の意見を言ってなかったからだと思った。私がもっと素直に自分の意見を言えたなら、もっと充実した楽しい時間が過ごせたに違いない。「私は〜と思うんです」「私は〜と考えたんです」と言っている自分は、とっても楽しそうだ。

そういえば、私はゼミの授業を楽しく過ごしている。そこでの私は結構主体的だと思う。うざいくらいに、発言しまくる。ゼミが楽しいと感じるのも、めっちゃ発言してるからだと思う。

なるほど、ほんとうに主体性のある発言は人を生き生きと楽しくさせるらしい。(もちろん発言する時は言葉を選ばなければならない!主体的だったらなんでもいいわけではない。)

「主体的な発言は人を生き生きさせる。」

これを読んでいる人はどう思いますか?

その影響は自分だけでなく、他人にも伝播して、周りの人までも楽しくさせると、私は思っている。

キリのいいところで終わらせることもできるがまだ書きたいことがある。

これまで散々主体性うんぬんと言ってきたが、主体的になることは難しい。間違えるかもしれないし、怖いし、傷つきたくないから逃げる。こういい理由も確かにあるけど、主体的になれないのは「日本語」という言語がそうしているのではないか。

私たちは言語というネットワークの中で生きている。人間が言語を使っているのではなく言語の上に人間が立っている。日本語は、主語がなくても文脈でなんとなく意思の疎通ができる。会話なんてほとんど主語がない。主語を言わなくても良い。主体性が見えにくい。

逆に英語とかは、自分が言いたいことから始まるような気がする。(よう知らんけど…)ドーンと自分の意見を言って、その後に付け足しするってイメージ。主語が明確だからなのか知らないけど、なんか英語って生き生きして聞こえる。

英語と日本語を比較して分かるように、主語が明確な英語の方が生き生きしているような気がする。そういうことも考えた上で、やはり主体性は、人を生き生きさせるのではないかと思いました。

そして私は最近、人生できるだけ、面白おかしく生きたい…そう思ってしまった。そのためには、「自分」や「わたし」から始まることを話さなければならない......

このことを漫画家の槇村さとる先生は、「ピンで語る」と言っている。夜も深くなってきた。槇村先生の言葉を引用してこのブログを締めくくりたい。

どうか、ピンで立ってくれ。
どうか、ピンで自分を語ってくれ。

不安げでもかまわない。正しくなくっても一向に平気だ。まちがっててもいいのだ。“汚い自分”だっていい。

外づらだけよくて、不満がいっぱい、ピンで立てない「いい人」なんかでいるよりは、人生はすっきり豊かになるはずだ。

彼らがピンで立てるよう、
私はお祈りするだけである。

(槇村さとる「ピンで語ろう」『話しベタですが…』、105頁、河出書房新社)

さて、私は人生をどうしたいのかなぁ

追記:少年漫画の主人公たちも、「俺は〜になる」「僕は〜がしたい」と言う風に自分の思いを明確に伝えている。そして彼らは活力に満ちている…
、ってのも例であげたいと思ってた。忘れていた。

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