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織田信長、絶体絶命からの大逆転!【桶狭間の戦い】の地~沓掛城part1
愛知県豊明市にある沓掛城址(くつかけじょう)は、日本史を動かした戦場からとても近い位置にあります。
それは、織田信長VS今川義元が戦った永禄3年(1560)桶狭間の戦いです!
信長がわずか4000の手勢で約6倍もあった兵力の今川軍に勝利を治めました。まさに信長が天下統一への第一歩を遂げたゆかりの地。
知られていない激戦のゆかりの地に注目し、今回は
・沓掛城址の概要
・城の縄張り
を扱っていきます。
桶狭間の戦いと沓掛城—今川義元が陣を張った城の歴史
愛知県豊明市にある沓掛城(くつかけじょう)は、中世の重要な城郭の一つであり、桶狭間の戦い(1560年)の直前に今川義元が本陣を置いた城として知られています。
標高約72mの二村山から南東方向に続く丘陵地帯に築かれ、城の標高は約21mと比較的低い場所に位置していました。
築城と歴史的背景
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沓掛城の築城についての詳細な記録は残っていませんが、14世紀ごろに近藤宗光が初代城主として住んでいたと伝えられています。その後、戦国時代に入り、今川義元が尾張への侵攻を進める中で、1560年の桶狭間の戦いの直前にこの城へ着陣しました。
ここで戦の準備を整えた後、今川軍は桶狭間へと進軍し、結果的に織田信長の奇襲によって義元は討ち取られることになります。
江戸時代初期にはすでに廃城となっていたと考えられ、『寛文村々覚書(かんぶんむらむらおぼえがき)』(17世紀後半の地誌)には「今ハ畑二成」と記されており、当時すでに城の跡地が農地になっていたことがわかります。
沓掛城の構造
沓掛城は、戦国時代の城郭としては比較的大規模な構造を持ち、連郭式の縄張り(城の配置)を採用していました。
本丸を中心に、二の丸・三の丸・諏訪曲輪(すわくるわ)・侍屋敷などが配置されていた
各曲輪は堀で囲まれ、本丸南側と二の丸、二の丸と三の丸は土橋で結ばれていた
本丸と二の丸の間には、敵の侵入を防ぐための丸馬出が設置されていた
城全体の規模は、東西約290m、南北234m、外堀の外周は約900mにも及ぶ
これらの特徴から、沓掛城は防御機能を重視した城郭であったことがわかります。
発掘調査と現在の姿
昭和56年(1981年)から昭和61年(1986年)にかけて行われた発掘調査では、礎石や陶磁器、木札などの遺構が発見されました。
現在は「沓掛城址公園」として整備され、歴史を学ぶことができる貴重な跡となっています。
あとがき
桶狭間の戦いと深く関わる沓掛城は、戦国時代の歴史を知る上で欠かせないスポットです。
訪れた際には、その壮大な城跡を感じながら、戦国の世に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
次回も、引き続き沓掛城についてお届けします。
・沓掛城主近藤景春と桶狭間の戦い
・発掘調査からの特徴
参考文献
パンフレット「沓掛城址」豊明市
画像引用:中日新聞「沓掛城は本当に今の位置にあったのか、現地をもう一度めぐってみた その2」