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幕末・維新の激動をカメラに写し続けた写真家大名の挑戦と遺産~慶勝の幕末動乱期
激動の幕末・維新を生き抜いた知られざる写真家大名
激動の幕末・維新を生き抜いた知られざる写真家大名・尾張徳川家14代藩主 徳川慶勝(1824~1883/よしかつ)を取り上げます!
続きで第2弾として「慶勝の幕末動乱期」です。
前回の記事は、下の記事になります。
「慶勝の幕末動乱期」
当時の幕府内では、13代将軍家定の後継を巡って徳川慶喜を推す「一橋派」と徳川家茂を推す「南紀派」が対立していました。慶勝は一橋派を支持しましたが、1858年に南紀派の井伊直弼(なおすけ)が権力を握ると、将軍後継者は家茂に決定。また、井伊は日米修好通商条約を強引に結んだため、反対派と対立が激化しました。慶勝も井伊を批判するも、結果として謹慎を命じられ、政治から遠ざかることに…
しかし、1860年の桜田門外の変で井伊が暗殺されると謹慎が解かれ、慶勝は幕政に復帰。その後も幕府と朝廷間の仲介役を務め、1864年には第一次長州征伐の総督に任命されます。長州藩との戦いでは戦火の拡大を避け、降伏を受け入れましたが、これが弱腰と批判され、再び幕政から退くこととなりました。
1867年、王政復古の大号令で幕府が弱体化すると、慶勝は徳川家の立場を新政府に近づける決断を下し、新政府側に付くことを表明します。これにより、幕府側の家臣を粛清し、尾張藩全体として新政府を支持する姿勢を示しました。また、慶勝の働きかけで東海道や中山道の諸藩が新政府軍を支持し、江戸進軍を後押ししました。
しかし、これにより慶勝は、幕府側についた実弟の松平容保(京都守護職)や松平定敬(京都所司代)と敵味方に分かれる結果となりました。慶勝は幕府側の実弟たちを助けようと尽力するものの、会津若松城の籠城戦などの悲劇を止めることはできませんでした。
幕末動乱期では、徳川慶勝にとってもっとも不甲斐なく、辛い時期だったかと推察します。弟との敵味方になる決断について、胸の内を語った記録が残っていません。
次は、才能にあふれた『慶勝の写真研究』について取り上げます。
参考文献
『徳川慶勝~知られざる写真家大名の生涯』原史彦/著、徳川美術館/編、平成25年
画像引用:Wikipedia