私の半生と配偶者ビザ申請1回目

バングラデシュ人夫と結婚するまでの私。
幼少期
物心ついた頃には父親はおらず、2歳年下の妹と母親と暮らしていた。笑顔の写真が1枚も無い私、妹は満面の笑みで写真に納まっているのに。
小学校に上がると2番目の父親が現れる、「お父さん」と呼んだことは無い。しかしながらキャンプや旅行に連れて行ってくれたり、躾にも厳しかった。育ての親と思っている。しかしながら2番目の父親も居たり居なかったりでよく分からない人だった。

中学時代
私は性格は暗く大人しいタイプだったので中学ではいじめの対象になるタイプではあったが、仲の良い友達もいたのでそれなりに楽しく過ごした。今も中学時代の友達とは仲が良い。軟式テニス部に所属していたが運動神経も悪かったのでいつも試合は1回戦負け、身長が伸びたことが救いだった(笑)とにかく何をやっても中途半端で熱し易く冷め易いタイプ、勉強は全然できない、習い事も何ひとつ続かない子供だった。自己肯定感もゼロ。

高校時代
高校生になるとバイトを始めた、母親に何か言われたわけでは無いけど家にお金を入れながらお小遣いなどは一切もらわず携帯代なども自分で払ってという生活をしていた。バイトをした事で性格が一変した、スーパーのレジでバイトをし始めたのだが何故か明るくよく喋る様になった(笑)バイトのおかげだと思う。高校3年間同じ所でバイトを続けた。高校時代はバイトをしていた記憶しかない。バイトばかりしていたので友達もおらずわりと孤独な高校生活だった。相変わらず勉強は出来なかった。2番目の父親はいつの間にか居なくなってた、多分離婚したんだろう。

就職後
私が高校を卒業してしばらくすると母親は授かり婚して出て行った。自由な母親だなぁと思う、まあ母親の人生だからね、幸せになってもらえればいいかなと思って送り出した。私も一人暮らしを始めて、医療事務の仕事にも就いてそれなりに何とかやっていた。相変わらずジム通いしてもダンススクールやピラティス、英会話、色々やってみても全く続かない。どれだけダメ人間なんだ自分と思いながら日々過ごし、高卒という学歴コンプレックスも私の自己肯定感を更に下げた。一人暮らしに慣れて仕事も4年目を超えた頃、学歴コンプレックスを打破するため通信制の短期大学に入学することにした、ここではじめての転職。スクーリングで休みを取らなければいけなかったりが出てくるので医療事務では有給はあったものの働いていた約4年間一度も使えなかった事もあり休みの取りやすい派遣で事務をすることにした。運良く派遣された会社の方が通信制の短大に通っていることを理解してくれて休みも取りやすく2年で卒業することが出来た。お金もなかったので学費面を考え絶対2年で卒業すると決めていた、働きながらの勉強はなかなかに大変だったけれど結構楽しかった、レポート書いたり、スクーリングでグループワークをしたり、毎月のテストはしんどかったけど仲良くなった友達もいたので乗り越えることができた。しかしながら学歴コンプレックス消えず、自己肯定感が上がる事もなかった。卒業して達成感はあったものの私ごときが卒業できるなら皆卒業できるだろう、周りの仲間も2年で卒業したし別に凄いことはないじゃんって思ってた。頑張った自分を受け入れられず褒めてあげる事も出来ない、だから自己肯定感なんて上がらない。そんな生活がここから10年以上続く。

最初の結婚
数年後1回目の結婚をする事になる。友人の紹介で16歳年上の日本人と結婚した。もう1人で生きていくのにも疲れてたし、結婚しちゃえと安易な考えで入籍をしてしまった。間違いの始まりだった。結婚を機に派遣から正社員を目指して調剤薬局の事務の仕事に就いた、医療事務の資格はあったが調剤事務の資格はなかったのでユーキャンで勉強し資格取得。仕事は楽しかった。処方箋の入力作業や調剤の補助をしたり薬の名前を覚えたりするのも楽しかった。結婚生活はというと子供が欲しいと強くは思っていなかったが結婚したら子供っていう流れなのかな?ってここもあまり深く考えずにいつかできるかぐらいのスタンスでいたが、一向に妊娠する気配なし。妊娠しないのは私に原因があると責められ、不妊外来へ行って一通り検査をして、私には問題がなさそうだと言われた。排卵誘発剤を注射してタイミングを計ったり、働きながらの不妊外来通院は大変だった。毎月生理が来るたびにひどく落ち込んだ、それでも私に原因があると責める夫、仕事も家事もあった。本当に疲れた。3年頑張った、もう無理だった。この夫の子供なんて欲しくないって本気で思った。そんな中、義父の癌が発覚、余命1ヶ月の宣告を受けた。余命宣告通り1ヶ月で亡くなった。ここで義母を1人にするのは心配だと夫が言い同居の話が出て、実家をリフォームし同居することとなる。これがまた私の苦痛の始まりだった。義父が亡くなったのはあなたたちが結婚したからだ!とか言われた。料理も掃除もできない、私はお金を稼いでくる家政婦の様だった。とにかく自分を殺して耐えて耐えて耐えて。辛かった。同居から約4年で離婚する事となる。計画を練りに練って家を出た、離婚は渋られたが私の気持ちは変わらなかった。

趣味の話                              辛い結婚生活の中でも楽しみはあった、ひょんな事からフラをやらないかと誘われた、ダンスなんて私には出来ないし、何をやってもどうせ続かないから新しいことを始めるのは嫌だった。「部活みたいな感じでダイエットだと思ってさ」って言われて始めてみる事にした。これがどハマり、とても楽しかった。最初はゆる〜くフラをやっていたが先生がだんだんスパルタになっていって苦痛を伴う様になっていった(笑)でも踊れる様になると楽しかったので続けていた。2年続けた所で先生のスパルタについていけなくなって辞めた。しかしその後またフラをやりたくなり別のお教室に通い始めた、こちらの先生はとにかく優しい、心穏やかにフラを習うことが出来た。すごく褒めてくれるので自己肯定感が少しだけ上がった気がした。ハワイに合宿にも行ってとても貴重な体験ができた。私が唯一続いた趣味がフラ、これもコロナの流行によって辞める事となる。今現在はまた趣味なし人間に戻ってしまった、またフラやりたいな。

1回目の配偶者ビザ申請                       日本での婚姻届けが受理されてから2か月、出会いから半年ちょっとというタイミングで1回目の申請をしました。結果から言うと1回目の申請は『不許可』でした。結果が出るまで40日これは不許可だったから早く結果が出たと思われます。とにかく結果が出るまではストレスで、ただ待っていればいいのだけれどアレコレ考えてしまったりネット検索してみたり落ち着かなかった。不許可理由を聞きに行政書士の先生と東京入管へ行きました。そこで言われた事についてはまた次回書きたいと思います。ごもっともな不許可理由でした。次回の申請に向けてのアドバイスのような話もあり、入管の人優しいって思っちゃいました。コロナ禍という事もあったためか、夫に国に帰るように言い渡されることは無かったです。その点ではかなり優しめな結果だったのかな?と思っています。

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