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“人”や“モノ”につながれた縁/野口品物準備室主宰・野口忠典

東北芸術工科大学校友会・リレーインタビュー「TUAD OB/G Baton」(ティーユーエーディー・オービー・オージー・バトン)では卒業生が日々歩まれてきた人生をインタビューと年表でご紹介します。

第10回目は東北芸術工科大学プロダクトデザイン学科教授・藤田寿人先生からのバトンを、野口品物準備室主宰・野口忠典(のぐち・ただのり)さんにつなぎます。
野口さんは、デザイン工学部生産デザイン学科に1993年に入学しました。ゼミ担当教員は三橋幸次(みつはし・こうじ)先生でした。

[藤田寿人先生からメッセージ]
在学中は特に一緒に遊ぶこともなく、あまり親しい付き合いをしてきたわけではありませんが、社会人になってから出会う機会が増えていきました。
東京にいたころはD&Dの店舗に会いに行ったり、イベント先でばったり逢ったり・・・。山形に戻ることになったとき、父の口から野口くんの名前が出たときはびっくりしましたね。大学に戻ってからは、相方の小野里奈さんが特別講義に大学に来てくれるとき、一緒に飲みに行ったりと、ゆる〜くお付き合いしてもらっています。たまに会っても一方的に喋る私の話をしっかり聞いてくれて、とてもいい気持にさせてくる、まさに傾聴の神。そんな人柄が今の活動に繋がっているんだと思います。また話せるのが楽しみだな~。

人とのご縁で“いま”がある

―芸工大での思い出を教えてください。

残念ながら、勉学に励むタイプではなく、今考えるといろいろとアルバイトばかりやっていました。その頃、国道13号線沿いにあったボウリング場のアルバイトは3年間続けました。特にボウリングが上手くなりたかったというわけではないのですが、そこで他学部の学生とのつながりも生まれたし、なにより社会の一端を経験できたことは大きかったように思います。

―生産デザイン学科では“商品をデザインすること”についての学びが主だったと思いますが、“商品を紹介すること”を仕事にされた経緯を教えてください。

在学中から周りにはあふれんばかりの表現力や、しなやかな発想を持つ人がたくさんいる中、デザインを自分で手掛けることを生業にすることはほぼ諦めていました。ただ、大学で学びを重ねるほど楽しさがあると思えたので、「デザインやモノづくりの周辺に身を置いていられるようにしよう」と心掛けていました。

卒業してからは、設計の仕事から始まり、今はもうなくなりましたが、七日町にあった「山形デザインハウス」で、モノを売る小売店の立ち上げに関わり、山形の職人さんたちに叱られたり、一緒に飲み明かしながら、モノの製造や流通を学び、モノを売ることの重要さと、難しさを思い知りました。

その中でも、鋳心ノ工房の増田尚紀さんらが実行委員となり、南陽市出身で、増田さん自身も師事していた、武蔵野美術大学の名誉教授である芳武茂介展の開催に携われたことは非常に面白かったと同時に、難儀もしました。
地域のモノづくりにデザインという考え方を持ち込み、地域産業を通して生活用具を良質なモノに押し上げた芳武茂介さん、この展示を通して、クラフトデザインという領域を知ることができました。

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また、今でもお世話になっているクラフトバイヤーの日野明子(ひの・あきこ/スタジオ木瓜・代表)さんは、この展示を見に、日帰りでやってきたのがきっかけで出会いました。まさかこの出会いがきっかけで東京に行くことになるとは思ってもいませんでした。

人とモノをつないだら、自分と人もつながった

―野口さんの人生にとって、日野明子さんが大きなキーパーソンとなって動き出したのですね。

次の年に日野さんから「ナガオカケンメイさんを連れて行くから、山形と宮城の作り手を紹介してくれる?」と突然連絡をいただきました。
ナガオカさんは、そのころデザイン系の雑誌でよく見かけていた「D&DEPARTMENT PROJECT」の代表であり、デザイナーとして、“ロングライフデザイン”や“モノを新しく作らないデザイン”という考えを提唱していたことに衝撃を受けていたので、知らないわけがありません。
緊張しながら2泊3日の行程をご案内したことをご縁に、D&DEPARTMENT PROJECTが発行する小冊子に、山形鋳物について文章を書かせていただきました。その後も展示会に伺ったり交流を重ね、自分も参加させていただけることになりました。
この頃、私は山形デザインハウスの職を離れていましたし、当時芸工大で助手をしていた妻も5年の任期満了を迎えたタイミングだったので、一気に上京を決めました。

―出会いとタイミング、そして野口さんの勢いの3拍子がズレなく揃ったんですね。

2007年の9月中旬に決定し、10月1日から勤務という…
東京での面接後に延泊し、住むところを決めて山形へ戻り、1週間で引っ越す、という強行スケジュールをこなし、東京へ向かいました。
後日知ったことですが、当時から友人だったデザイナーの大治将典(おおじ・まさのり)さんが、日野さんに「山形にこんな人がいるから」とプッシュしてくれていたそうです。

日本のモノづくりの原点を、自分の新しい資産に

―D&DEPARTMENT PROJECTについて教えてください。

その頃のD&DEPARTMENT PROJECTでは、47都道府県の工芸品をもう一度きちんと紹介し、伝統工芸の原点を見つめ直すプロジェクトとして「NIPPON VISION」という取り組みが始まるところで、私はその担当として参加しました。
当時、まだ今のように地域産品にはほぼ誰も見向きしない、家具や暮らしの道具も北欧や欧州製品に注目が集まっていて、地域のモノづくりもお土産品という印象が強かった頃です。

47都道府県の地場産業や工芸品から、今の暮らしに取り入れられるモノを探し出し、D&DEPARTMENT PROJECTの各店舗を会場に、毎年展示販売を行いました。
また、ナガオカさんが当時所属していた、日本デザインコミッティの展覧会として、同様のテーマで「デザイン物産展ニッポン」が、松屋銀座でも開催されました。

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百貨店の展覧会催事で、展示品の販売を行ったり、会場ナレーションとしてipodを導入したり、当時としては前例のないことをいくつか行いました。大変ではありましたが、良い経験をさせていただきました。
この展覧会がご縁で、松屋銀座のバイヤー(モノとデザインが好きな同い年)とも出会い、次の年から始まる「銀座・手仕事直売所」に関わることになります。

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2017年までの10年間、D&DEPARTMENT PROJECTに参加し、日本のモノづくりを探し出し、知り、紹介したこと、実際に現場をみせていただいた出会いが今の自分の資産になっています。

新しい感覚に出会えた嬉しさを大切に

―現在は「野口品物準備室」として、どういったお仕事をされていますか?

現在は地域のモノづくりの流通に関して相談を請けたり、催事企画などに携わっています。
いまだに“モノづくり”の現場に伺うたびに、新しい気付きや出会いがあり、素材や技術、作り手の人となりに触れることが嬉しくて仕方ありません。

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―仕事を離れたところで、楽しみにしていること、やってみたいことなどあれば教えてください。

仕事柄、一般の人よりもきっと家に多くある器や道具を使いながらの食事を楽しんでいます。
今は状況的に制限されることもありますが、この先落ち着きを取り戻したら、自分が出会った人たちのことを紹介する「場」を、小さくても設けられたらと思っています。

自分クロニクル_野口忠典

―最後に、東北芸術工科大学で学ぶ在学生のみなさんへ、メッセージをお願いします。

自分の生活を楽しむことはもちろんですが、学生のうちに社会生活にかかわることが重要だと感じています。他人と過ごすことで違う視点があることに触れておくことが大事です。
また、一つの“モノ”の周辺には、たくさんの仕事があります。焼物一つにしても、材料を採り、土を作り、形を整え、色(釉薬)を作り、焼成する。出来上がったモノが商品として小売店に並び、使う人に届くまで、全ての工程に人の手が必要で、全ての工程でデザイン(考える力)が必要です。
今、学んでいるのはその力だと思うので、無駄になることは何一つないはずです。

■Instagram:Tadanori_Noguchi 

編集後記

「縁の神様に微笑まれた人」
私が学生だった当時、生産デザイン学科の助手をされていた野口さんの奥様である小野里奈さんにとてもお世話になっていました。
野口さんご自身とは山形デザインハウスにいらっしゃったときに何度かお会いしていますが、直接のつながりがなかったので、その後は友人からお名前を聞くくらい。
山形デザインハウスで取り扱っていた商品は、デザイン雑貨から伝統工芸品まで多種多様あり、デザイン(の端っこ)をかじっていた私をとても楽しませてくれました。

このTUAD OB/G Batonを開始してから、「野口さんにバトンを渡したい!」という方が同時期に二人も現れて、「野口さんってどんな素敵な活動をしているんだろう…」と思いながら、取材をさせていただきました。

これまで取材させていただいた方、全てに言えることですが、みなさん“縁”に恵まれ、その“縁”をとても大切なものとしています。
そんな中にあって、野口さんのお話からは、その時に一番の“縁”が自ら野口さんに寄ってきて、あるいは人に寄せられて、それが野口さんを中心に“円”となり、さらに循環しているような印象を受けました。
素敵な循環はさらに人やモノを引き寄せて、幾重にも重なり、もっともっと大きな円を描いていく。そんなイメージに続きます。

野口さんの取り組んでいること、すでに印象付いている商品を世の中に新たな意味を持たせて放つことは、決して容易いことではないと思います。
でも、縁の神様に気に入られている野口さんならば、商品にたくさんの価値を見出し、これからも私たちに“新しいモノ”として届けてくれるのだという期待しかないです。

校友会事務局 カンノ(デザイン工学部生産デザイン学科 卒業)

野口品物準備室主宰・野口忠典さんからのバトンをRYUSUKE YAMADA DESIGN主宰・山田隆介(やまだ・りゅうすけ)さんにつなぎます。

『「メタフィス」ではモノを一から構築するデザインの経験を重ね、
「SATOMI SUZUKI TOKYO」では、海外(欧州)の流通まで含め、
日本のモノづくりの技術や特色を活かした製品をプロデュースする経験を経て、2021年2月に独立。
人懐っこく面倒みも良いので、信頼が厚く、周りの人たちに愛される才能を持っている方です。』
[野口品物準備室主宰・野口忠典]


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