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異世界シンドローム ~洗礼なき祝福

今、異世界転生に限らず、異世界モノがブームである。ただ、このブームは本質を理解されぬまま、商業展開し続けている印象がある。

先のTweetの様に編集が漫画原作者に聞き出している。要は編集というプロであっても、自分で見つけられていないと語っているのだ。それが数年前の現状、今はどうなっているか、ハッキリとは分からない。

だが、現在発刊されている異世界モノを読む限りは分かっているのと、分かっていないのが、両立して世に出ている印象がある。中には編集の手が関わっていないことが読み取れる作品もある。

こうみると、何も分からず、ただ異世界ブームだけが続いていると感じていている。

しかし、自分とて異世界モノの本質は分からないでいる。まあ、これを理解でき、論文にまとめられれば冗談抜きで凄いモノだと思っている。

さて、今回はそんな異世界ブーム、ある種の異世界シンドローム(同時に起きる一連の症候)に関して、自分なりに納得できる本質が見えてきたのでそれに関して語って見たい。

■洗礼なき祝福 ~マヨネーズとチート

とある機会から、ここ最近の異世界アニメを見ていて考察していたのだが、そこで見えてきたのは、主人公と異世界との距離感、付き合い方であった。

異世界モノには色々なジャンルが今となっては出来ている。その中でも異世界に転生して、赤子からやり直す異世界転生に置いても、自分が生きていた前世基準で考えているケースが多い。

それを一言で表す言葉というか、ネットスラングが「またオレ何かやっちゃいました?」である。

どうであれ、赤子から異世界で生活していながら、その世界の常識が身についてない様子を、たった一言で表した迷言である。

だが、彼に限らず異世界転生者の大半は、神、女神などから祝福といえるチートは授けられている。しかし、「またオレ何かやっちゃいました?」と語るように異世界での常識を学ばない。いや、そもそも受け入れようとすることはない。

そもそもが転生前の常識で物事を図るからだ。仕舞いには、現実システムを導入しようとする。その概念は色々であるが。それだけに「郷に入っては郷に従え」といった現地リスペクトは多くの異世界転生者には無い。

異世界から祝福、チートを受け取りながらも、主人公はその世界で生きていく洗礼を受けようとしない。そして、今住む世界でありながら「異世界」、別世界と認識している。作中の登場人物であれば、「第二の故郷」といった認識は読者であっても欲しいくらいだ。

さて、異世界から祝福は、チートという言葉で片付けられる。
では、異世界を受け入れる洗礼とは何だろうか?

それは色々あるだろうが、一つは現地の人間と結婚すること。つまり、家族を持つことはある種、洗礼といえるだろう。しかし、これは異世界モノの定番、ハーレムの前では機能していない。

次に新たな命としてのやり直す、転生。これも先に語った通り、多くの異世界転生で破綻している。転生者は前世での価値観が全て上位になっている。

そして、命を繋ぐ食生活においても、その土地の食べ物を食すというか否定する場面が多い。それがマヨネーズである。

マヨネーズも異世界モノの定番の要素だ。異世界という味気ない食事に深みを与える万能調味料として出てくる。これで異世界の味気ない食べ物も現在感覚で食べることが出来る。
そして、マヨネーズなき異世界にマヨネーズを作り、与えることでマウントを取る。

しかし、これは異世界の食事を否定する行為に繋がる。

また、異世界でレストランをやる作品も多く存在するが、これらは現地人を味の虜としている。これでは主人公の洗礼ではなく、作中の人物を現実世界に改宗させているだけになってしまう。

こうして考えていくと異世界モノにおいて、異世界を受け入れる洗礼は受けるケースはほぼほぼ無いのが現状である。そして、異世界自体を現在社会に改宗させようとするモノばかりである。チートである祝福を受け取っていながら。

当然、主人公が異世界を受け入れて生きていく作品もある。

しかし、なろう系は「またオレ何かやっちゃいました?」に代表される悪評ばかり先行して、正しく評価されにくいのもまた別の問題ではある。

しかし、今こう語っている内容も悪評とそう変わらない気もするのだが。

■異世界を拒否する ~黄泉戸喫

異世界のモノを食すことを「黄泉戸喫(よもつへぐい)」という。古事記に出てくる物語である。そして、そのエピソードから「あの世での食べ物を食べると、現世に戻れない」という意味を持つ単語ともなっている。

また、これに似た語はギリシャ神話でも存在する。そして、この「黄泉戸喫」という概念の近年の創作物でも多く出てきている。有名なのでいえば、『千と千尋の神隠し』である。

それだけに異界での食べ物を拒否することは、その世界を受け入れないことになる。逆にいえば、その世界の食べ物を食べることは仲間入りの儀式でもある。

この図式から異世界モノを考えると、実は異世界とは不快の象徴として捉えているのかもしれない。

「黄泉戸喫」という概念は先にも語った通り、今日でも語り継がれている物語である。そして、多くの人が見聞きした題材にもなっている。それだけにこの影響下は無意識であっても、作品世界に反映されているのかも知れない。

それに関連付けされる話は、ホラー小説での応募作品傾向にもあるようだ。

――昨今のホラーについて思うことはありますか。以前、日本ホラー小説大賞の受賞作は読んでいるとおっしゃっていましたよね。その後、横溝正史ミステリ&ホラー大賞に統合された後も読まれているのでしょうか。

澤村 全作は押さえていないけれど、パラパラと見ています。傾向として、土俗的なホラーが増えている印象ですね。選考委員の辻村深月さんも選評で「近年、田舎を田舎というだけで何が起こっても許される装置として乱暴に描いてしまう応募作が多い」と書かれていましたが(※「小説 野性時代」2020年9月号)、僕も同じ問題意識を明確に感じています。

土着的なモノ自体がホラーとなり、現在において不快の象徴、またびっくり箱的な舞台装置になっていると指摘されている。

そういった傾向で代表作にして、ヒット作が映画『ミッドサマー』となるだろう。

この『ミッドサマー』に置いても、「黄泉戸喫」と結びつけることが出来るシーンが多くある。あまり書くとネタバレになってしまうが、毎回、食事後に大きく展開が変わっていくことになっている。
だからこそ、食事を拒否することであの結末は避けられていたかも知れない。まあ、物語である以上、それは受け手である第三者が口出せる要素ではないが。

ただ、『ミッドサマー』において、土着的なモノを単純に恐怖として描こうとはしていない。また、多様な見方が出来るので、一概に不快の象徴とは言い切れない。

さて、話は異世界に戻そう。ホラー作品の応募でもあるように土着的なモノが、「ファンタジー世界」に置き換わっているのではないだろうか。
そして、マヨネーズでその土地の食べ物を否定することは、現在の価値観で正しい判断と言えるのではないだろうか。

この食事の価値観に関しては、『八男って、それはないでしょう!』のアニメに置いて意図して描かれているのではないかという説がある。

上記のレビュー動画で指摘があるように、最終回での食事シーンでは主人公が前世の最後に食べられなかったモノを、現世での仲間と一緒に食すシーンで締められている。

ただ、その中身は主人公と現世の仲間でわずかに違っている。
主人公は味噌汁に対して、仲間はスープであったり、主人公が箸を使用に対して、周りはフォークとナイフなど。

このシーンは明らかに絵で違いが描かれている。つまり、アニメ制作陣が明確な意図で描かれている。しかし、その意図はどう捉えるかは視聴者次第であるという考える余地を残しているが。

ただ、このシーンは細かく見ないと分からないため、表面上は主人公と現世の仲間が共に食事を取り、真の意味で現地の人間になったとも捉えることが出来る。そして、深読みすれば「黄泉戸喫」を食さない構図とも言える。

それだけに『八男って、それはないでしょう!』のアニメ制作陣は、異世界モノを理解していると感じた。また、最終回前から原作と少しだけ変えてアニメ独自のまとめに入っているのも読み取れた。

それが一般的な異世界モノと湾曲していると言われるかもしれない。それでも食事時シーン、一つで色んな事を考えさせるように演出しているのはこの作品を独自であっても理解しているからと、明確に言えよう。

■戻るべき場所とは ~貴種流離譚

貴種流離譚、物語類型の一種。運命もしくは宿命を帯びた血筋の人間が流浪で経て、得たモノから運命、宿命を乗り越える形式である。異世界転生に置いても、この流れをくむと言われている。

では、異世界転生が貴種流離譚として、その結末、戻るべき場所とは何だろうか。

貴種流離譚の結末は、大概かつての栄光、住み処などを取り戻す物語。しかし、異世界転生に置いて、悲惨な死の代償として転生が始まる。また、その過程で食事も取らず、むしろマヨネーズのように与えるばかりである。そこで迎える結末など何になるだろうか。

つまり、異世界転生は貴種流離譚と言いがたい。むしろ、戻るべき場所、結末がほとんどにおいて明言されていないからだ。

それだけに私が感じた異世界モノの本質とは、「ファンタジー世界の再構築」と感じた。そして、これは『マインクラフト』などの箱庭ゲームで、新たな世界を構築する作業配信なのではないか、と。

また、異世界モノの中には、主人公が異世界を唾棄する発言がたまに見受けられる。どのような経緯であれ、そこで生を受けたはずの故郷に対して、愚痴をこぼしても軽蔑することは、現在社会の価値観では考えられない。

「またオレ何かやっちゃいました?」という発言にしても、そういった意図を感じ取ってしまう。

そして、世界への唾棄だけでなく、その世界に生きている者に対して軽視する傾向も多く見受けられる。それは異世界を別世界、自分の住む世界ではないという認識から始まっているといえる。

そんな異世界を不快の象徴として、現在の価値観を押しつける主人公の物語を見ている読者はどう思うだろうか?それは見ている側にとって、主人公含めて不快の象徴にならないだろうか?

そして、異世界が不快の象徴に気が付いていない人間、編集、出版社が、異世界ブームを垂れ流していればどうなるだろうか?

祝福(チート)は貰うが、宿命(フェイト)はいらない英雄譚。それが大半のなろう系であるという話なのではないだろうか。

このブームを続けるのにも、主人公と異世界との距離感、付き合い方は見直すべき機会なのではないだろうか。

今期の異世界アニメを見ていて、そう感じている。

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ツカモト シュン
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