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10-3「日記」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。

10周目の執筆ルールは以下のものです。

[1] 前の人の原稿からうけたインスピレーションで、
[2]"さみしいときどうしているか" について書く

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center
【前回の杣道】


自分の心の「感じ」を人に伝えるとき器として言葉を使う。「感じ」はかたちを持たない霧 のようなものである。言葉はこの霧に輪郭を与える。そうすることの利点は渾然としていて 印象としてしか感知できない「感じ」が判別可能になることであり、欠点はいつも掬えるも のがあるのと同様に掬えないものがあるということである。言葉を選ぶことは霧を掴もう とすることであり、この霧にできる限り相応しいかたちの器を作ろうと試みることである。 例えば自分以外のに人に自分の「感じ」を伝えたいと思った時、自分の「感じ」を相手まで 届けるために器をつくる。しかし私から出発して相手まで辿り着くまでの間に器の中の霧 は流れ漏れ出てしまって、相手に届いた時には空っぽになっている。ではどのようにしてコ ミュニケーションは可能なのか。コミュニケーションを可能にするのは想像力である。相手 は中身のなくなった器のかたちからこれにはなにが容れられていたのか、これはなにを容 れるために作られたのかを想像することができる。人に自分の「感じ」を伝えたい時、自分 の「感じ」を自分で捉えたい時、「感じ」をそっくりそのまま表すことはできないが器を介 する方法は可能である。しかしそこでは「感じ」が対象化され限定され変化してしまうのは 避けられない、それがそっくりそのまま表せないという意味である。そうだとしても器によ って「感じ」を忘れてしまうことなく残していけるのだという望みを諦めることはできない。

日付を見てみると COVID-19 が蔓延するほんの少し前で、友人が亡くなった知らせを受け てからおおよそ 2 週間後だ。友人が亡くなったのを知った日の夜から日記を書き始め数ヶ 月続いたが、COVID-19 の世界的な流行によって機能が止まっていた大学が段階的に使え るようになるにつれて書かなくなっていった。 家の壁にこの友人の写真を飾っている。私が持っている唯一の写真は最期の別れの日に参 列者に配られたものだ。時計の下に貼り付けた写真が目に入ると背筋が伸びる思いがする。 友人は自分の写真が勝手に護符のように使われているなど予想もしなかったのではないだ ろうか。



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