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私のひと欠片を作ってくれたのは
2022年の私の投稿を見てもらえれば分かると思うけど、私はあの時、なにわ男子が好きだった。
私の一日は、彼らを推すことにほぼ費やしていた。出費の8割は、彼らに関するものだった。その時おおやけになっていた彼らの情報で、知らないものはほとんどなかっただろう。
「最推し」だった西畑大吾くん。
大吾くんのすべてが好きだった。
1日中、頭は大吾くんのことでいっぱいだった。
笑ったり泣いたり拗ねたり、百面相のように表情の変わる彼を見て、「愛おしい」という感情を知った。
私の願いは、大吾くんが大河ドラマや月9で主演を張ることでも、ノースキャンダルを貫くことでも、センターを担い続けることでもなかった。
ただ、幸せでいてくれればよかった。平穏な心持ちで過ごしてほしいと常に思っていた。
女性関係の報道やファンによる代理センター争いも、私にはどうでもよかったのだ。その問題自体より、大吾くんに浴びせられる心無い誹謗中傷が気がかりだった。彼が深く傷ついて、表に出ることを躊躇してしまわないか、彼の人生がめちゃくちゃにされてしまわないかを心配していた。
もし、大吾くんが何らかの事情で「芸能界を引退する」という決断をしたっていいとさえ思っていた。むしろ、そのほうがいいとさえ思うときもあった。表に出なければ、心無い誹謗中傷に晒されることも、プライベートを追い回されることもなくなって、彼がより心穏やかに過ごせるかもしれないと思ったから。その選択が大吾くんにとってより幸せなことならば、私はそれでよかった。それがよかった。
大吾くんの姿が見えなくなっても、彼がくれた感動や思い出があれば、生きていけると思っていた。どこかで幸せに安らかに生きていてくれるのなら、それ以上に望むことはない。
我ながら、あれは愛だったと思う。
冒頭から、ずっと過去形なのは、もう「推し」と呼べるほどその活動を追わなくなってしまったから。
嫌いになったわけでも、どうでもよくなったわけでもなくて、今は自分のことに精一杯すぎて、推し活できるだけの精神的余裕も金銭的余裕もない。この前Xもアンインストールしてしまったから、彼らに関する情報はほとんど知らない。まだ大吾くん一筋の母に教えてもらって、細々とテレビ番組やYouTubeを鑑賞する日々だ。
人生で出会う人や出来事には何の意味もなくて、ただその事実があるだけという考え方もあるけど、私は、それらに何らかの意味を見出しながら生きていきたいと考える派だ。
人との出会いやかかわり、それによって起こる出来事は、私に何かを教えるためにあると思っている。直面し、悩み、考え、立ち止まり、答えを得ようとする中で、新たなことに気が付いたり、成熟した大人へと近づくことができると思いこんでいる。
それでいえば、大吾くんを推していた数年間は、私に「愛とはなんたるか」を教え、ひとつひとつ言語化して答えを模索する今の私を形成するためにあったと思う。
大吾くんを推すことを通して、私は自分のひと欠片を知った。
大吾くんを全力で応援したあの期間がなければ、私はきっと全く違っていただろう。どういう風に違っていたのかも想像できないくらい。
話は少し変わるけど、愛着不安の強い私にとって、「見捨てられるかも」「拒絶されるかも」という心配のない相手は、気が楽だった。私がどんなにダメで、愛されるに足らない人間だとしても、「大吾くんのファンである」というだけで、大吾くんに愛してもらえる。私から離れていかない限り、ずっと関わっていける。そういう安心感が、私の推し活の原動力の一つだったのかもしれない。
現実の人間関係でも、同じ心持ちで接することができたらどんなに楽だろうかと考える。相手に期待も執着もせず、嫌われる心配もしなくてよくて、ただ相手が幸せならいいと考えられる。離れていく相手を追うこともない。
でもそれって、少しむなしいことのようにも思う。なんというか、「無」すぎて。
ただ「期待せず、執着せず、愛する」だけの推し活から、「相手に期待したり求めすぎたりしてしまう気持ちと折り合いをつけながら、関係を深め維持していく」現実の人間関係へと、私は成長の拠点を移したんだろう。
そして、推し活を通して形成された「ひとつひとつ言語化して答えを模索する私」が、その成長を助けてくれていると思うのだ。もし、生きづらさを晴らそうと闇雲に突き進むだけの私であれば、あの人とも、あの子とも、今のような関係は築けていなかったかもしれない。
「自分から逃げず、向き合う」私の最大の長所ともいえる点は、大吾くんを推すことで作られたのかもしれない。
そう考えたら、人生で起こる出会いや出来事には何らかの意味があると思わずにはいられないのだ。今だって、彼氏との付き合いの中で、たくさんのことを学んでいる。学んだことすべてを実践できるわけでもないし、苦悩の根底に「愛着不安」があることを知ってからは自分の悩みの厄介さを自覚してしまったけど、それでも、彼氏と出会ったことをきっかけに、私は少しずつ変わっていると思う。
お風呂でこんなことを考えていたらどうしても書きたくなって、夜な夜なパソコンに向き合ってしまった。明日は朝からバイト。気が重くて仕方ない。意味を見出そうとは言ったけど、やっぱり労働は嫌いだ。
おやすみなさい。