故郷
忙しい日にも文字を生み出すことが肝要。机に向かう時間を確保したいのが本音。当分は秋口からの学びと幻想の備忘録かな。というわけでほろ酔いながら一筆。
近頃何かと「帰りたく」なることがある。周囲にもそういう人がいるから、現代の若者の願いなのかもしれない。しかしカラスが奏でる逢魔が時に、ゆらり出てゆく老人もまた幼き日の家に帰ろうとしているともいうから、これは一概には言えない。
私の帰りたい場所も同様に幼少期の故郷であるが、はたしてそれが実在する処であるかと問われれば返答に窮する。私の思い描く故郷ーーかつて住んでいた団地を出で、並木の続く閑静な住宅地を抜け、マムシ注意の看板のある林を横目にアスファルトの丘を登っていけば、そこには何もない野ッ原と雨上がりの虹が在った。
それは確かに頭の片隅に朧げながら、確かな存在感を放っている。だが八つの頃まで居たその地の記憶は、これは”ノンフィクション”と言えば嘘になるだろう。人間の脳は意図せず欠落した情報を補完するというが、それに近い何らかの”脚色”が行われていることは言うまでもない。といっても、己の道のりを色づける「並木」「マムシの看板」や、都合よく現れる虹などが実際には存在しないということではない。自らの”理想する”故郷の風景に都合が良い要素を抽出している、というべきだろう。もっとも、それらのオブジェクトの明確な実在を証明することはもはや困難ではあるが。
”脚色”と言えば、民俗学者の柳田国男の言が興味深い。郷土研究という手法を編み出した彼だが、後年に自身の故郷を回想した際、『年齢とともに変わっていく故郷の概念の中で、一番強く愛着を持って捉えられる故郷像からは、”人事関係”が欠落している』と述べている。柳田は若き日に一度故郷を離れた経験を持つ。これは八つの頃に転出した私と重なる部分であるが、なるほど確かに私の思う故郷の中に「人」はまず現れない。故郷を離れ、異郷の地でその風景を反芻するうちに、いつしかその”土地”だけが脳裏にこびりついてしまったのかもしれない。あるいは私が偶々美しい景色に強く心動かされる人間なだけかも。
とまあつらつらと書いてきたが、心中は晴れやかにはならぬ。プロフィールのヘッダーの写真は、以前奈良を訪れたときに見かけた古墳の景色であるが、何気なくシャッターを押したとき、古き奥津城の丘の中に、私は確かに”故郷”を思い出していた。実際に故郷へ帰ってみれば、また新たな気持ちが降ってくるのだろうか。私は人生の岐路にノスタルジックに浸ることが多い。逃げたい、帰りたい、たどり着きたい…色々な想い(あるいは言い訳)を巡らせながらも、心は磁石のようにあの地へ惹かれる。
みなさんも帰りたい場所、ありますか?