酒と契約
書かねばならぬ。寝っ転がったまま失礼。
近頃何かとお世話になる"酒"について。皆さんは酒を飲むという行為にどのような印象、あるいは目的を持っているだろうか。友人や職場での飲み会、イベントごとでの宴会、鬱屈な気分を紛らわそうと一人酒、寝酒…。いずれにも言えるのは、飲酒という行為によってなにか現状を「ハレ」させようとする試みがあるということではないか。
"酒"の語源は"栄え"ということがあるが、酒は古くから特別な行為の場で、あるいは特別な行為をする前に飲まれることが多かった。特別な行為というのは、祭事や契約など非日常的振る舞いによって現状を好転させる(させた)イベントである。日常=「ケ」から非日常=「ハレ」に転換する際、と言っても良いだろう。
特に近頃私が関心を持っているのは、一揆の前に参加者一同で神酒を回し飲む「一味神水」である。起請文を例として、中世の決起の際には神仏への誓いという形式をとることが多い。一味神水の場合は、参加者の書いた起請文を燃やした灰を神酒に入れ、参加者全員で回し飲むことで連帯を強め、離反を禁ずる効果を持つと考えられる。このとき、一味神水に参加したということは一種の契約と見ることもできるだろう。そして酒はその契約の媒体となっているのである。
ここからはまったく感覚的な話になるが、現代においても、我々は酒を飲む際に何かしら契約を立てているのではないかと思ったのだ。会社の飲み会で職場の人間と関係を深めるにしろ、酒の場の接待で商談をするにしろ、友人と酒を酌み交わし今後の抱負を述べるにしろ…。一人酒だって今日の反省と明日への活力のためと思えば、自分との契約であると言えなくもないのではなかろうか。
かつての契約においては、酒というものの神聖性がその担保となっていた感はあるが、その頃から今なお人間が酒を飲み何かを誓うのは何故だろう。"酔い"という非日常が、次なる非日常へと足を踏み入れる私の肩を押してくれるのかもしれない。あるいはただの麻酔薬かもしれない。