アメリカの政治集会カルチャーの血みどろっぷりを今のうちに調べておくべき感
備忘録的雑記05
石川・青識の2019/11/16イベント。
自分は見に行ってないので、ツイッターでの反応の感想。感想の前にテキストか何かで把握した方が感想にひきずられずに大掴みできそうだが、行ってない&テキストがない場合、そういうわけにはいかない。そうなると、感想が陣営の既定言説を保存して燃料にする懸念がある。それを阻止するには、司会能力か、登壇者が相手の議論の脈絡を精査し検討を深めるという合意のもとで議論をすることで、「感想を書く人」の発語を躊躇させたり認識を底上げする必要があるだろうが、そうはなっていないとみなした。
反応を見る限り、「ツイッターエコーチェンバーで消費するための素材をリアルスペースでイベント的に作った」といった結果に終わったようだ。議論の検討が進むのではなく、ツイッターのノイズが爆発的に膨らむことに寄与するという。いかに有益な争点を出しても、ツイッターの互いの勢力が変容しないための素材収集にされそう。
登壇者人間ですらなく、聴衆ですらなく、ただのツイッター野次馬が、二次創作のようにストーリー構築し始めるので、リアルスペースでの発話とイベントプランはこういうふうにやるべきではないんだろうな。対立を打ち出して対話とすると、注目を稼ぐことができるが、争点の取り扱いの水準がネットの野次レベルにまで落ちると。
野次に落とさないだけの意識で登壇者が司会能力と相互の論点吟味を駆使すれば挽回も可能かもしれないが(見込み薄そう)、登壇者はそこまでのスキルがないか意思がない、で止まる。そこは参加メンバーの時点で推定できたことなので、「人選と企画の時点でダメなのがわかる」ってことになるか。
青識みたいな人でも、アメリカならじゃんじゃん集会を開きそうだ。アメリカの集会文化が実は日本人の共同体気分からすると煩雑なのかも。
ツイッターのノイズ爆発装置化のあとで、その手段・末端・扇動の一環として集会化が起きてきているとも解釈できるが、これはけっこうきついな。
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