女(男)なんか嫌いだ
この題名を見て嫌悪感を覚えた人がいるなら、それが正しい反応だと思う。私もこの言い回しはとても嫌いだ。しかしXでは頻繁に目にすることができる。「女(男)なんか嫌いだ」という主語を膨らませて膨らませきったこの構文を。
この構文が生まれる原因は、1人の異性との間に生じた問題がほとんどであろう。例えば、彼氏が奢ってくれなかった。彼女が遅刻してきた。そんな原因によって生まれたこの憎悪の感情を、過大汎用された異なる性別にぶつけて投稿し、そのモヤモヤを消化させる。プロセスは大体こんな感じであろう。
ここで疑問が生まれる。なぜ人間は、特定の個人によって生み出された憎悪を、異性全体という極めて大きな概念に括りつけ過大汎用させるのか。
ここでは1つ、経験則が原因である説を提唱する。
簡単に述べると、自分が見聞きしてきた異性がみな同じ原因を作り出しているからという説である。この説は最も単純だが、実はこれが1番タチが悪かったりする。なぜなら、たかだか数人〜数十人のデータしか持ち合わせていないにも関わらず、異性とはこんな愚かな存在であると決めつけてしまっているからである。しかもそのデータに用いられた異性は、その人が関与している異性であるため、人間性も似たりよったりであるに違いない。そんな少ない且つ偏ったデータで一括りにされてしまっては、我々部外者としてはたまったものではない。
しかも人間は、9割の良いところよりも1割の悪いところを注視してしまう特性があるため、よりこの構文を生み出す原因を加速化させているのではないかと考える。
そもそも論ではあるが、なぜ人間は同情を煽る必要があるのだろうか。特に女性によく見られる傾向ではあるが、私に賛同しろという意図が丸見えの投稿をよく目にする。その投稿に煽られた人間によって付けられたいいねの数が多いほど、その意見は本当に正しいと言えるのか。一方からの情報のみで物事を断定してはいけないという考え方は、小学生のうちに学べるような、ごく基本的なものである。しかし現実はそう甘くなく、どれほど誇張されているかも分からないような情報源を鵜呑みにして、異性は悪だと決めつけてしまう単細胞な人間がなんと多いこと。私は酷く悲しんでいる。
世の中に目を向ければ、素敵な異性も数え切れないほど存在している。しかしそのような人間は見向きもされない。この現実世界では、完璧であることが当たり前だとされているからである。よくできた人間は、賞賛もされず話題にもされずに生きているにも関わらず、逆に愚かな人間は批判のネタにされ、主語の過大汎用を用いる人間によって、異性とはこういうものであるという像が構成されていく。またそれを見聞きした同族が、その像に自分の知見を盛り込み、さらに悪い方向へと改変させ、それが繰り返されることによって、悪い部分のみ煮詰められた異性の像が、まるで異性の説明書と言わんばかりに大きなウイルスとなって存在している。
主語の過大汎用を繰り返す人間はバカであるが、それをまるっきりその通りであると受容してしまう人間もまたバカである。
私の周囲にいる人たちだけは、このようなバカにはなってほしくないと願いつつ、この記事を締めさせていただく。
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