ゲーム大好き日本人?

「(携帯端末で)ゲームばかりするんじゃない」といってもやっぱりやる。
「じゃあ他にこれで何やればいいの?」と聞かれたらどうしますか?

「外に行ってボールで遊びなさい」
「本でも読みなさい」

っていうのはダメです。

他国と比べて、ゲーム・チャットの時間が一番長くて、端末を使った学習の時間が一番短いといわれたのは、それ以外の使い方を知っている人が少ないからというのは大きな原因の一つであったと思います。未来を担う子どもたちに相対する際には、禁止志向ではなく、どう使うかを教師が発信するか、できなければ、せめて子供たちが探究できる環境を整えるべきと思います。

それに加えて、ふと気づいたのですが、試験というのは構造的にゲームと一緒なんですね。
解き方、解法がゲームのルールで、成績や希望進路が報酬。

繰り返し、解き方、解法を表現すべく訓練し、他の誰よりも早く正確に当日現地で表現する。早さと正確さにおいて、他を上回れば報酬が与えられる。ゲームクリアは報酬が与えられなくなることと同義です。クリアしたゲーム、やりませんよね?やりこみ要素満載のゲームならまたやるでしょうが、そこで得られるのは、ゲームのルールの熟練です。

つまり、受験勉強するということは、ゲーム大好きにするということなのです。受験勉強をやればやるほど、練習すればするほど、ゲームにはまっていきます。受験勉強に集中する人は、受験勉強というゲームのやりこみにはまっているだけなのです。
方法、解法は社会では活用はされません。されるなら、社会人各位はずっとそれをやり続けるべきです。そうはなっていない。そうしようともならない。

そして、社会に出たら、学習しても報酬は与えられません。様々な理由が考えられますが、これは学びに優劣はつけられないし、つけるべきではないということもあると思います。
だから、日本の大人は勉強しないのではないでしょうか!
このあたりを解消すべく、副業を別な仕事をして本業の妨げとなるものという考え方ではなく、学びや活動の成果を自分で得られる仕組みとすると、いろんな活動が活性化するように思います。もちろん報酬は金銭も含みますが、金銭だけではありません。

たとえば主体的な学びから始まる学びの報酬は自分の中にあります。しかし、やらされる勉強には報酬がなければやってられないものもあります。苦手だったり興味がないものはなおさらです。それに向かわせるために、成績、偏差値で切り分けられた人間序列の上位にいけるという「報酬」を示して、誰かの意図に沿った知識の伝達、能力の習得をさせているという見方もできてしまうように思います。

試験という制度はやめるべきと思います。先日ある資格試験を受けました。一回目、不合格になりました。二回目は問題の傾向がわかったので、満点で合格しました。同じ問題もたくさん出ました。やるほど、問題作成者の意図がわかりました。申し訳ありませんが、テストに出る内容には答えられましたが、あれから、数週間、どんな問題が出たか、忘れてしまいました。しかし、資格試験の学びの過程でおもしろいな!すごいな!と気づいた内容は、残っています。何ページに何が書いてあるかはわかりませんが、確実に得たものがあり、実践できるようになったことがあるのを実感します。

なぜ子供達にはそれを課すのか。それが唯一、「力」を測る方法だと思考停止してしまってはいないですかね。

さらに「力」と思っていたものの正体も紐解けばどうなんでしょうね。
今、必要なものに果たしてなっているのでしょうか?
特に国民全員が、大学に行くもの全員が学ぶべし!みたいになっているテストの様子はどうでしょうか?

またいつもの感じになってしまいました。
ここまで目を通してくださった方、ありがとうございます💦

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