全員に分かってもらおうなんて都合よく思ってはいけない|2023スプラウト菊池高校
ついにこの日が来ました。スプラウトが新しい展開で熊本県に進出!(パチパチパチ)
本学に授業に来てくださっている木藤亮太氏の紹介で,菊池市で教育アドバイザーを務めておられる平松あすかさんとの連携で,熊本県立菊池高校にお伺いすることになりました。菊池高校は昨年度から普通科に地域探究コースができ,地域の資源を活用してできること,将来のキャリア形成につなげていく学びが提供されることになりました。
朝9時に福岡を出発,11時に熊本県南関インターの近くにあるコンビニで大牟田在住の学生と合流して現地へ。さっそくオススメの食堂「寿会館」に向かいました。昭和24年創業のレトロな食堂。雰囲気を楽しみながら,授業の打ち合わせ。
また,菊池は温泉でもよく知られているので,高校近くの菊池市ふるさと創生市民広場横にある足湯に浸かり,寿会館で売られているもう1つの名物ミルクキャンデーを頬張りました。
また,この足湯が熱いのなんのって。浸かった足は真っ赤になって,一瞬で自分の不健康さを感じるのでありました(笑)
そうやって授業開始の13:30までは高校近くで瀟洒な雰囲気のある建物や木々の様子を見ながら時間を過ごし,いざ高校で授業ということになりました。今回のテーマは,①企業活動というものが街にどのようなインパクトをもたらしているのか=価値の分配はどう起きるのか,②働く上での心構えとして(1)アントレプレナーシップ,(2)リーダーシップとフォロワーシップの意味を学習するというもの。果たしてどのような授業になったのでしょうか。
1コマ目:未だにネタが定まらない私の授業
13:30に授業がスタート。普通科地域探究コースの生徒は2クラスで48人。「大学のセンセイの授業ってどんなものだろう」という期待よりも,「眠い」「寝かせてくれ」というような言葉が聞こえてきそうな雰囲気。ま,思春期の自分を振り返っても全く同じだったろうな。
で,話のテーマは「会社は「まち」を豊かにする道具 創造的な地方都市を創るヒント」といういつもの内容で,企業活動が地域で行われることで,その担い手が街に暮らすことによって,街全体が豊かになっていくという話。そして,そのためには今ある現場を変えていこうという意思があるとイイよねという話。
その話をするために,今回は初めて地域経済循環図を使ってみた。菊池市だとこんな感じ。菊池市の付加価値額は2018年に2,147億円であるのに対し,市外への支出が2,230億円と循環率は96.3%と高い。これに対して隣接する山鹿市,わたしたちに馴染みのある壱岐市はそれぞれ60%台半ばで,市外への流出が極めて大きくなっている現状がある。そこで消費することができないから,生み出した富を外で消費せざるを得ない。
また,1人あたりの付加価値額や所得を見ても,実は菊池市は良い。折からの人口減少の影響もあるだろうが,第1次産業,第2次産業によって生み出されている付加価値額は福岡市よりも遥かに高い。所得で見ても同じことが言える。
こうした状況認識と「地域を探求する」ということをいかに結びつけるか。今回わたしたちに課せられたのは,ビジネスを専門的に学んでいるから,アントレプレナーシップ教育を各地で進めているからこそできる,高校生の動機づけだろうという仮説。が,声がでかいオジサンの話は難しかったのかもしれない。いや,露骨に聞く気がないという態度をされてしまった時に,「自分の話はつまらないもの」ともっと冷静に考えておくべきだったかも知れない…。
2コマ目:アントレプレナーシップを学習する
さて,2コマ目。ここからは教室に戻って大学生による授業だ。木張りの教室は良い雰囲気。ここで,学生はいつもの「アントレプレナーシップとコレクティブ・ジーニアス」と「リーダーシップとフォロワーシップ」に関する授業を行った。
授業が始まってから先生方と「高校生が非常にシャイで自分の考えを言葉にすることが苦手だ」という話になり,ますます「1コマ目の授業のやり方工夫できたなぁ」と私は反省モード。が,学生の授業を見なければならない。
授業はすでに各地の高校で実施している内容に沿って進めているが,なかなか前進しない。2クラスのうち,片方のクラスは事前動画と課題をしっかりとやっていたけれども,もう片方のクラスはどちらもほとんどやっておらず,授業の前提が崩れてしまう。
さらに言えば,動画を見て予習さえしてくれれば,授業内容の理解度が高まるようにしているにも関わらず,あらゆる面で無気力を感じる。どんな問いかけをしても答えない。大人は見たようなことがあるけど,少し年上の大学生(お兄さん・お姉さん)と話すとモジモジしてしまう。何を,どう話して良いのかわからないのだろう。
授業をやっているとわかるのが,一方的に話しているように見えてコミュニケーションが前提になっているということ。初めて授業を担当している学生はうまくクラスをマネジメントできないことを指して「私には向いていない」「苦手」とか言ったりすることもあるが,それは明らかに授業する側がどこまで高校生の理解を促すような声掛けやコミュニケーションを取れるかにあるかもしれない。
そうやってもがいていたら1コマ目が終わってしまった。これも完全に私の責任。1コマ目の超過分で大学生が高校生に十分にコミュニケーションを取る時間がなかったことが原因だ。
それでも,とりあえずわかったか,わからないかという反応もよくわからないし,自分で考えて言葉を紡ぐ出すことができないという状況で,どうやって高校生の意思を掘り出して言葉にしてもらうか。単に授業を遂行するだけでなく,授業の目的を頭に入れつつ,不確実で想定していない状況に対していかにアジャストしていくか。働きかけ方を変えようと確認して,2コマ目に突入した。
3コマ目:DISC分析・リーダーシップとグループワーク
3コマ目はDISC分析からスタート。いつもはここで盛り上がるので,ここで盛り上げようとしていたところで出鼻が挫かれる…。
いつもDISC分析を行う際には簡単にそれができるサイトを活用するが,そこに出てくる言葉の意味が読み取れないという反応。これはボキャブラリーの問題だから仕方がないし,1人1人の高校生に手厚くサポートしたいのだが,なかなかうまく進まない。わからない言葉があれば自分で調べるなどして欲しいのだが,そこでデバイスを活用するという発想が出てこないようだ。
結果,DISC分析の結果に対してもモヤモヤした感じ。高校生も何をやっているのかよくわからないという顔をしている(ある意味正しい)。打つ手打つ手がうまくハマらない。なかなか厳しい展開だ。が,ここでのメッセージには多少理解をしてもらえたようだ。つまり,DISCという4つの志向性のうち,DIはいわゆるリーダータイプ,SCはフォロワータイプと大きく区分されるが,役割としてのリーダーと志向性=人として持っている傾向は異なるということ。なぜか日本の教育ではそこが混同され続けているのだが,この部分についてはいくらか同意が得られたようだ。
そして,最後はリーダーシップとフォロワーシップのお話に。ここで毎度おなじみのデレック・シヴァーズのTED Talkにご登場頂く。世の中を変える,仕組みを変えるには最初に踊りだす人も大事だが,そのフォロワーが大事だという話。まさに個人としてのアントレプレナーシップをベースに,どの状況で自分の一歩踏み出す勇気を出すかという話。
もしかしたら,高校生にとって真正面から「自分がどんな人であるか」を考える機会はこれまで無かったのかもしれない。そして,言葉の節々に自己肯定感の低さが滲み出る言葉が聞こえる。やる前から挑戦することを回避し,失敗を恐れて前に進むことができない。
1コマ目にリオネル・メッシのシュート決定率は15.3%で,世界一流でも6本打って1本入らないのだから,わたしたちはもっとシュートを打つ工夫がいるし,失敗から学ばなければならないと伝えたのだが,もしかしたら「学ぶ」ことの意義すら見出だせなくなっているのかもしれない。
あるいはこんな話もあったという。同校は普通科と商業科から成る学校だが,学校の名前を使ってさまざまな活動をするのは商業科。しかし,普通科には特段何かを活動するという機会がないという(だから羨ましいということなのかもしれないが)。
だいたいスプラウトの授業で扱う身近な組織と言えば,どうしてもクラスや部活動になるが,どうも今回の授業を担当した生徒さんたちはそこまで参加率が高いわけでもないようだ。新型コロナウィルスの影響に加え,学校活動を積極的に行うことにどこまで意義を見出せるかとなったときに,中学校でロストした機会があまりにも大きかったのかもしれない。そういう高校がこれまで無かったわけでもないし,今もプログラムで向き合うことが多い。
授業が1回でなく,複数回あればとか,もっとうまくコミュニケーションを取れればとか,こちらがどう働きかければいいんだろうかとか,考えればキリがない。が,与えられた資源の中で,できることをやる。伝えられるメッセージを伝えていく。改めて今回の授業はその大切さを教えてくれたように思う。つまり,わたしたちがまだまだ学ばなければならないという当たり前の事実に向き合えた貴重な時間だったと言えるかも知れない。
ふりかえり
授業終了後,すぐにふりかえりスタート。大学生という立場で各地で授業をする,しかも抽象度が高い概念を高校生とともに学ぶという活動。正直,大学生には大きな負担がかかる。が,場数を踏むことで経験値が上がってきていることはわかるし,高校生への関与の仕方を見ていても「おおっ」と驚くことが多い。
一方で,授業をすることで必死になって,まだ周りを見切れていない学生もいる。決して彼・彼女たちも「授業をしておけば良い」と思っているわけではなく,この機会を通じて高校生に何かを考えるキッカケが創れれば良いと思っているだろう。自分の持っているキャラクターとこうしたいという方向性を持ちながら,どうすれば「授業」を実りあるものにできるかということを考えて,実践してくれているように見えている。
こうして授業を見ていると,つくづく教室で起きる事象は不確実性の塊であり,計画設定と統制を基軸に進めていきつつも,対応な必要な場所でどう対応をしていくか,どこまで本筋を残し,どれだけ外しても良いか。ほんとマニュアル通りだけでは進まない。教壇に立つことで教えてくれることはいくらでもある。
そして,この授業の意味はすぐに理解できるものでもない。そんな簡単な話をしていないということも改めて確認しておく必要があるかもしれない。が,それでももうちょっと工夫がいるなぁ。どうしたものかなぁ。ここまで取り組みが広がってきて,ありがたい話を頂ける一方で,活動の進め方,資源の使い方に一工夫必要そうだ。さすがにマンパワーだけでは解決できない問題が見えてきたように思う。