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雑記(三五)

 映画『ドライブ・マイ・カー』が公開された。原作は村上春樹。村上の原作の小説の映画化はめずらしいことではないが、それは村上春樹の小説が多年にわたって、世界的に読まれつづけていることと、まず無縁ではない。

 だからたとえば、「村上春樹はどうして欧米でよく読まれているんですか」という質問も、自然なものだ。これは、三浦雅士が投げかけられた質問であると、三浦自身が「群像」二〇一〇年一月号に寄せた文章の冒頭で書いている。「数年前、たまたま何かの会合で同席することになったある財界人に、そう問われたことがある」というのである。

 興味ぶかいのはこの先だ。「「ああ、それは、あの世について書いているからですよ」と、我ながら驚いたことに、即座に答えていた」。三浦はさらに言ったという。「欧米のいまの若い人は、キリスト教の天国のイメージだけでは満足できないのではないでしょうか。表向きはそうは見えませんが、村上さんの小説には、最初から最後まで、この世とあの世の関係がどうなっているかが、書かれているんです。だから読まれるんだと思いますよ」。

 村上春樹は、「あの世」について書いている。巧みな応答だと思う。最近の映画化作品を思いかえしても、『ドライブ・マイ・カー』、『バーニング』、『ハナレイ・ベイ』、『ノルウェイの森』、すべて死に関わっている。厳密に言えば、人間が死んで、その後どうなるのかということに関わっている。死者がどこへいくのか、死者の死のあとに、残された生者がどうなるのか、ということに、関わっているのである。

 同年生まれの佐藤泰志の小説の映画化作品と比べてみれば、その差は歴然としている。『海炭市叙景』、『そこのみにて光輝く』、『オーバー・フェンス』、『きみの鳥はうたえる』、いずれも、今ここの生を問題にしているのであって、生と死は対極ではないとしても、これらの映画は、死に立ち入るのを懸命に避けているようにさえ思える。しかし、と言うべきか、それゆえに、と言うべきか、佐藤が自死を遂げ、村上はそうではない、という対照がある。

 ところで三浦は、『人生という作品』(NTT出版)所収の「人生という作品」なる文章で、「人生」について問うている。「人生の評価は後世に委ねられる」というが、「評価を気にするも何も、その後世において自分はすでに存在していないのである」。この状況に、「まさに矛盾というべきではないか」と詰めよるのである。そして、「にもかかわらず、現代人のほとんどはじつに平然としているのである」と指摘する。

 三浦は改行して、「なぜか。」とだけ書き、さらに改行して、こう続ける。「答えはひとつしかない。現代人のほとんどが、自分は死後も生きていると密かに考えているからである。そうとでも考えなければ、この矛盾は解消しない」。

 この「人生という作品」の末尾には「(2009.12)」とある。巻末の初出一覧によると、書き下ろしである。一方で、すでに見た、三浦と「ある財界人」との会話からはじまる文章が書かれたのは、同じ二〇〇九年の十月か十一月ごろだと推測できる。この文章、すなわち「孤独の発明」の連載第一回「小林秀雄と柳田国男」が、二〇一〇年の一月号に掲載されているからである。三浦は二〇〇九年の終わりに近づきながら、死、死後、死者、霊について思考を深めていた。

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寺井龍哉
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