雑記(五二)
一九七〇年十一月二十五日、学生街の食堂のテレビで、三島由紀夫と「楯の会」会員らの自衛隊突入を知り、急いで市ヶ谷へ向かったが、到着したころには事件はすでに終わっていて、門のあたりも閑散とした様子、野次馬がつめかけるでもなく、およそ大事件の発生したほんの数時間後のこととは思えなかった。そういう話を、私はあるひとから聞いたことがある。秋の午後の、今の防衛省の正面の大きな通りの静かさに、私は興味を持った。
渡辺護『万葉挽歌の世界 未完の魂』(世界思想社)に収められた「挽歌と葬歌」という文章にも、その日のことが、きわめて印象的に述べられている。同書は一九九三年刊。渡辺は、上智大学の大学院で伊藤博の指導を受けた。『萬葉集注釈』を完成させた澤瀉久孝の門下にあったのが、『萬葉集釈注』の伊藤博。伊藤は当時、専修大学助教授だったが、渡辺の修士論文指導のために上智大学に出講していた、とある。
渡辺の文章は、「母校上智大学は、四谷駅を出て数分ほどの所にあり、聖イグナチオ教会の傍を過ぎて、正門に至る」とはじまる。「その日の午後も、私は大学院の授業のためにその道を通ってざわつく構内をつっきり、研究棟の七階に上がって、国文科の研究室に入った。助手のIさんが、ふだんはものに動じない人なのに、珍しくこわばった顔で立ち尽くしている。「どうしたの」と聞いたら、「まだ知らないのか。三島由紀夫が自衛隊に切り込んで、腹を切ったらしい」と、窓外を指さした。研究室から市ヶ谷の自衛隊本部はまさしく指呼の間である。いわれてみて初めて気づいたが、何機ものヘリコプターが赤い緊急灯を点滅させ、その方向に向けて轟音を上げて飛んでいた。大学構内のことさらなざわめきの原因を、私は初めてそのとき了解したのだった」。
伊藤の指導する演習は、その年に論文を執筆する者のみが、毎週の発表を担当することになっていて、この日も渡辺は発表の予定だったが、発表のための資料は用意できていなかった。定刻に伊藤が到着すると、院生たちも揃っていて、演習がはじまる。渡辺は「三島の事件は日本文学の大問題でもあるのだから、今日はその話で終わってくれたらなあ、というというかすかな期待」を持つ。
しかし「部屋に入って早速、伊藤先生に三島が自衛隊に乱入して割腹自殺を図ったらしいと申し上げると、先生はしばし黙されて後、「そうですか。三島由紀夫と私は大正十四年生まれで、同年です。同じ文学でもあちらはあんな美男で、私は…、こうですからなあ」とおっしゃった。その言葉で、三島のことから来ていた演習室の緊張感が、笑いとともに一時にほぐれた。間髪を入れず、先生の一言があった。「さあ、始めましょうか」」。
発表の予定がありながら、別の話題でその日の演習の時間が終わるということは、およそ考えられないことであろう。渡辺の「かすかな期待」は、たぶんに希望的な色を含んだものではないか。ただ、学生たちは「演習室の緊張感」を共有していたようだし、伊藤はそれを助長するような深刻な発言はくわえずに、冗談にしてその場を流さなければならなかった。そのことはやはり、事件のもたらした異様な衝撃を、逆説的に物語っていよう。