雑記(五一)
昨年は、相米慎二の監督した映画を観る機会が多かった。
渋谷のユーロスペース、下高井戸シネマで没後二十年の特集上映があったほか、神保町シアターの夏の特集「もう一度スクリーンで観たい あの時代の夏休み映画」では一九八〇年の『翔んだカップル』と一九九〇年の『東京上空いらっしゃいませ』が上映されたし、シネマヴェーラ渋谷の十一月から十二月の企画「日活ロマンポルノ50周年 私たちの好きなロマンポルノ」のプログラムには、一九八五年の『ラブホテル』が入っていた。今年の元日の午後、tvkで『台風クラブ』をやっていたのも嬉しかった。
ひとりの監督の作品をたてつづけに観る楽しみは、ひとつには、その監督らしさ、その監督の映像の典型のようなものが、次第に見えてくることにある。四方田犬彦は『大島渚と日本』(筑摩書房)で、「その名前を挙げるだけでたちどころに一連の情景が想いだされてくるといった類の映画監督が、この世には存在している」という。その「一連の情景」が見えてくるのが、面白いのだ。
「たとえばマキノ正博というと自然と想いだされるのは、歓喜の声をあげて群集う見物人であり、黒澤明なら大声で怒鳴りながら罵倒しあう二人の人物である。小津安二郎ならば、誰もがほとんど意味の希薄な言葉を親しげに反復しあう家族だろう。では大島渚の場合はどうだろうか。大島渚といって誰もが想起するのは、理由も動機もいっこうに定かでないまま延々と繰り広げられる宴会であり、そこに居合わせた面々が披露する軍歌、学生運動歌、猥歌、春歌のオンパレードである」。
相米慎二なら、まずは若者が声をあげて歌いながら、ひたすらに飛んだり、跳ねたりする様子だろう。『ションベン・ライダー』のラストでは、河合美智子、永瀬正敏、坂上忍、鈴木吉和が白い粉にまみれながら声を張り上げて歌い、踊る。『台風クラブ』冒頭のプールサイドの水着姿の少女たち、台風の夜の下着姿の少年少女たちもそうだった。『雪の断章ー情熱ー』でも、薄暗い室内で斉藤由貴が、大音量で音楽をかけながら身体を屈伸させながら踊る。ラストでは榎木孝明、世良公則と斉藤が、肩を組んで歌いながら、満開の桜の木の下のまわりをまわる。
音が鳴り、リズムが生まれ、若い身体が、どうしようもなく動き出す。そういう行動を、多くの場合、長回しによって、動機も目的も明確ではないひとつの現象として示す。それは、そこで歌い踊る者たちと、呼吸を同調させることによってのみ、鑑賞に耐えうる映像でもある。
手元で機械を操作して、倍速にして再生したり、一時停止をしたりすれば、その快感は失われてしまうに違いない。その意味では、映画館の暗闇のなかで、座席から見つめられるスクリーンに映写されているのが、相米の映画にとって、もっともふさわしい状態のように思える。
『蘇る相米慎二』(インスクリプト)が出たのは二〇一一年。それから十年以上が過ぎた。映画は配信で観るという時代が来つつあるようだが、相米慎二の映画をこれからも、スクリーンで観つづけたいと思わずにはいられない。