『淵に立つ』の不在と境界
浅野忠信の表情は、私を不安にさせる。『御法度』(99)の新選組新入隊士、『月光ノ仮面』(12)の復員兵、『岸辺の旅』(15)におけるすでに没したはずの亡夫、『チワワちゃん』(19)のカリスマ写真家、どこからともなく訪れて、すでにそこにいた者たちを不安にさせる存在が、浅野にはよく似合う。『淵に立つ』で浅野は、家族経営の小さな金属加工工場に突然やって来た謎の男、八坂を演じる。浅野の扮してきた役柄のひとつの典型の、新たな例と言っていい。眼光を衰えさせることなく口元に力強い笑みを浮かべて見せる浅野の表情が、しばらく脳裏を離れない。
鈴岡利雄(古舘寛治)と章江(筒井真理子)の夫婦は、小学生の娘の蛍(篠川桃音)を抱えながら、細々と暮らしている。オルガンの練習に励む娘と母はプロテスタントで食前の祈りを欠かさないが、夫には信仰がない。冒頭、オルガンの演奏を切りあげて娘は両親と朝食の席につく。父子は向き合い、母子は肩を並べて座り、母子だけが会話をする。父は割り込まない。母が席を立つと父と子も会話を始めるが、母が話しかけても父は曖昧にしか返事をしない。冷えた夫婦仲は明らかである。
娘は学校に出かけ、妻も外出する。男はひとりで、薄暗い工場に座り、溶接作業をする。ふと外を見ると、工場の前に男が立っている。浅野忠信だ。浅野の扮する八坂は白のワイシャツに黒のスラックスを身につけて、シャッター口の向こうに立っている。八坂は、このとき利雄にとって彼方にいる。そしてこの喪に服するような服装から、八坂は死の象徴のようにも見える。
利雄と八坂の会話から、八坂は刑務所で服役し、先ごろ出所してきたことがわかる。利雄がすぐに、工場で八坂を雇うことを承服する様子から、利雄が何らかの弱みを握られているようにも思われるが、子細はわからない。八坂の口調は終始、丁寧で、利雄は敬語を使う八坂の態度をもどかしがる。突然に住み込みで働くことになった八坂の存在を、帰宅してから知った章江は訝るが、それは当然である。母と子には、観客以上に八坂についての情報が与えられていないからである。
しかし、初めは警戒していた章江も、次第に八坂を受けいれ、さらには惹かれてゆくようになる。過去の殺人、服役について暗いカフェのテーブル席で八坂から告白された章江は涙を流し、それを章江に隠して住み込ませていたことでむしろ利雄を非難する。八坂のような者にこそ、神の愛が必要なのだ、というのが章江の口にする論理である。そして家族と八坂が気晴らしのために川辺に釣りに出かけたとき、一行から抜け出した八坂と章江は、木々の花を見ながら岩場を歩く。会話の切れ目に八坂は章江を抱き寄せ、接吻する。章江の態度は微妙だが、あからさまに拒むことはしない。映画の時間のなかに流れる不穏さが、決定的なものとなる。
それより前の場面で、利雄と八坂は二人で、川に落ちてしまった帽子を、流れに沿って追いかける。やがて帽子が拾いあげられ、章江たちがいる方へ戻るとき、過去のことを章江に告げたのか、と尋ねた利雄に、先を進んでいた八坂が振り返って、乱暴な口調で利雄をなじる。自分も共犯であることが露顕することを恐れる利雄の狭量を責め、なぜ自分ばかりが辛酸を舐め、利雄は結婚して娘まで持っているのか、お前の立場がなぜおれでないのか、と恨むのである。絶句する利雄に、また表情を緩めて冗談だよ、と言う八坂だが、この時点で八坂が利雄よりもはるかに優位に立ってしまっていることは、火を見るより明らかであろう。
このとき、利雄がこれまで以上に八坂を恐れ、八坂の存在感が増大するのは、八坂の利雄に対する憎悪、不満、嫉妬が、それまでの穏和で丁寧な口調の八坂のうちにも蔵されていたことに気づかされたからである。利雄は八坂の直接的な罵言に凍りつき、その憎悪の標的となったこと自体に恐怖するというよりも、それらが長く、もしかすると八坂の服役の期間も含めてずっと、伏流していたことに恐れを抱くのである。あからさまに告げられた言葉よりも、明確には告げられなかった悪意こそが恐ろしい。見えるものの質や形姿は、その目に見たままだと信じることができるが、見えぬものはこちらの思いこみひとつで無制限に伸縮する。そこに、そのようにして存在している、ということが明らかでないもの、そういうものに対する想像力や恐怖が、本作の主題のひとつだろう。
八坂と章江は、一階の作業場で利雄が機械を操作しているあいだ、階上の和室で見つめあい、ひっそりと唇をかさねる。このとき半ば襲うようにして章江の上体を引き寄せるのは八坂のほうだが、八坂の起居しているこの和室へやって来るのはいつも章江のほうだ。蛍のオルガンの発表会が近づいた夜など、蛍のための衣装を縫っていた章江は、ひとりでいると眠くなるという理由でこの部屋に来て、八坂が過去に殺してしまった相手の遺族に宛てて書いている手紙の文面に目を落とす。やがて八坂は自身のために、そして利雄との現状の境遇の格差を乗り越えるために、章江を奪わねばならないと考えたのだろう。川辺の草地でひとり昼食をとりながら、偶然に目にした見知らぬ男女の交合の光景が引き金となり、また利雄の不在を確認できた八坂は、居間で章江を襲い、テーブルに身体を押し倒して衣服を脱がせようとする。しかし激しく抵抗された八坂は後ろ向きに倒れ、痛みに顔を歪めながら立ちあがり、黙って階下へ去ってゆく。無人の作業場を抜けて路上に出たとき、道の向こうから、演奏会用の赤い服を身につけた蛍が、声をあげながら走ってくるのが見える。そこでカットは切れる。
後頭部から血を流して公園に倒れている蛍を残して、八坂は姿を消す。八年後、重度の障害を負った蛍(真広佳奈)は車椅子での生活を余儀なくされているが、章江は献身的にその身の回りの世話をしている。自分専用の石鹸で念入りに手を洗い、他人には蛍を触らせない。工場で働くことになった孝司(太賀)はそんな章江の様子にとまどいつつも、蛍のためにアクセサリーを買ってきたり、蛍の似顔絵を描いたりと親しく家族と交際する。やがて孝司の実父が実は八坂であったことが発覚し、ふたたび家族は混乱に陥る。利雄が興信所に依頼していた八坂の行方の捜索により、八坂らしき人物が目撃されたという地点に四人は車で向かう。一軒の家の奥に、オルガンを弾く少女とその側に立つワイシャツ姿の男を発見して四人は戦慄するが、こちらを振り返った男の顔は、八坂とは違っていた。
映画の後半に描かれる状況のなかで、章江は二つのものに苛まれている。まさに見えないものに対する恐怖である。ひとつは、蛍の心情、内面である。おそらくは八坂の暴力によって蛍は障害を負い、言葉を発することも、自由に身体を動かすこともできなくなってしまっている。かろうじて表情は読みとることができるようだが、精密に感情の動きが理解できるようには見えない。この蛍の快不快や好悪の情を、章江は言わば先まわりして読み、蛍を傷つけることのないように努めているのである。しかしここで章江が想定する蛍の感情は、蛍によって直接的に表明されたものと言うよりは、あくまでも章江の内面が蛍の内面を外面から推量して用意したものである。蛍の表明する意志や感情が微弱であるからこそ、章江の内部では蛍の存在感が否応なく増大し、章江の生活を強力に拘束するようなものとなっていったのだろう。
章江を苛むもののもうひとつは、言うまでもなく八坂の影である。八坂は蛍に手をあげてから八年、行方はわからなくなっているが、それでも章江を苛んでいる。孝司の父が八坂であるということを知った章江は孝司を蛍のベッドのある部屋から追い出し、屋上で丹念に手を洗う。背後に干してある大きな白いシーツの向こうに、黒いスラックスの足が見える。風でシーツが大きくなびくと、向う側の男の上半身と顔が見えてくる。男はシーツを顔の前で摑む。その顔は、間違いなく八坂である。場面は一転、家の前の路上に移る。あわてる利雄のところへ、白いシーツが二枚、落ちてくる。
実際に八坂が章江の前に姿を現わした、ということではないだろう。章江は八坂の幻を見たのである。なぜ八坂の幻を見たのか。それは章江が意識のうえで八坂を手放せなかったからだ。八坂の抱擁と接吻を、章江は拒めなかった。それぞれの濡れ場で章江の表情は困惑しているようだが、腕はむしろ八坂の背中にすがりついているかのようにさえ見える。章江がそれを拒めなかったからこそ、八坂はついには章江を犯そうと試み、そこでようやく激しい抵抗を受け、目的を果たせなかった八坂の悶々たる情念が、蛍への暴行を導いた、という可能性がある。そしてそんな不貞を含むあらましを、章江は利雄には打ちあけられない。自分の態度のせいで、そして八坂に惹かれてしまった自分の心理のせいで八坂が蛍を暴行したのだとすれば、自分は蛍をこれ以上傷つけない責任がある。八年の間、恋慕と恐怖の対象として、八坂の存在は章江にとって大きなものとなっていたに違いない。
しかし章江が八坂の幻を見るために必要な条件は、これだけではない。逆説的な言い方になるが、章江にとって八坂は不在であり、その不在のゆえに章江は八坂の幻を見たのである。今どこにいるかが確実にわかっている者のことを、幻として見たりはしないだろう。得体も知れず、現在地点もわからないような者のことを、私は幻として見るのである。そう考えれば、不在と遍在は、それを感知する立場にとってはどちらも同じことだとさえ思える。今ここにはいないし、どこにいるかもよくわからない、ということは、たった今すぐそこに出現しうるということであり、意識のうえには常にまとわりつくということに他ならない。それに章江は苦しめられるのである。感情や快不快の変化が外面的な表情や行動に反映されにくいように見える蛍と、それを見守り続ける章江との関係も、それに近いと言っていい。きわめて漠然として見える蛍の感情に、章江は翻弄される。
利雄の運転する車で、章江、蛍、孝司が八坂に似た人物の目撃情報をたよりに山あいの町を訪れたとき、利雄と孝司が飲み物を買ってから車に戻ると、章江と蛍の姿が消えている。二人が行方を探すと、橋の上から身を投げようとする章江と蛍の姿が目に入る。入水した二人を助けるために利雄と孝司も水に入り、利雄は章江を、孝司は蛍を引き上げる。左から孝司、蛍、利雄、章江の順に岸に横たわり、全員が死んだように動かなくなる瞬間があり、すぐに起き上がった利雄が懸命に蛍の意識を蘇生させようとするカットで映画は終わる。しかしやはり、この四人が四人とも動かなくなる画面の恐ろしさが、際立っている。それは、それぞれにのっぴきならない事情を抱え、複雑な内面を抱え込んだ四人がひといきに沈黙の側へ、不在の側へと押しやられるように見えるからだろう。くり返すが、不在は遍在と、感知されるうえでは変わらない。四人の不在は、四人の幻が遍在して観客をも苛むことを予見させてやまないのである。水辺という場所の設定も効いている。水辺は、生と死、醒と酔、意識と無意識など、あらゆる境界を象徴する。こちら側にいるときは、向こう側にいるということを想像もできないような、深い境界である。
『淵に立つ』の映像による叙述は、多くの要素を隠蔽するようにして進行する。隠蔽の手つきを見せることで、その向こうにある要素のひろがりを想像させることに長けていると言ってもいい。利雄と八坂の過去の殺人に関しては、二人の口からそれぞれ断片的には語られるものの、その場の人間関係や状況についてはそのほとんどが隠蔽され、また八坂が蛍に何をしたのか、その行為の実態も隠蔽される。さらにはそれから八年の間に蛍はどのように育てられ、夫婦に何があったのかも隠蔽される。そもそも映画は画面に見せられたもの以外の一切を隠蔽し、そしてそれを想像させるものであると言えば、この性質は映画として当然とも思えるのだが、本作にとってこれが重要なのは、隠蔽と不在もまた似ているからである。
何かが存在することと、それが存在しないこととを比較するとき、常識はどうしても前者を重視してしまうように思える。何かが存在する、という状況を知らなければ、それが存在しない、という状況は意識することすらできないからだろう。林檎の味を知らない者は、林檎の味に飢えることはできない。あるものの不在は、そのものの存在を知っていることを前提にしているのであり、存在に先立って不在を感知することはできない。しかし存在が不在よりも有意義であるとは、限らない。感覚のうえでは、不在は遍在に他ならないのだから、不在のゆえにその対象はかえって私の意識を大きく占めることにつながってしまうことがあるのである。見えるものと見えないもの、あるものとないものの抜き差しならぬ緊張関係を、この映画は思い出させてくれる。浅野忠信の表情が、そのかけがえのない武器だ。それに翻弄される筒井真理子の切迫した演技も素晴らしい。
2016年、深田晃司監督。
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