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礼儀作法

子供達を見ていると⁡
礼儀作法が省略される時代かなと思わされます。

例えば上下関係。

若い子達の感覚は薄い。

目上の方に対しても友達感覚なのかな?

そんな話をよく聞きます。



そもそも
なにが礼儀作法?って人によりけりな気もしますが、、、。

礼儀作法は大切なのか、
それを指導する心構え
などについて書いていきます。

さて、冒頭にも述べましたが
特に今若い子達のなかでは上下関係なんてなくなって来たような感じがします。

それについて
挨拶や敬語や態度がなあなあだと
社会人になって通用しない
と言う人もいらっしゃいます。

それについて思うことは
たしかに最初は通用しないかもしれませんが、
おそらく、そういう人が増えたら結局それがベーシックになると思います。

例えば
タメ口の子に、年下からタメ口使われたら嫌じゃない?って聞いても
本人は
全然嫌じゃないよ
って答える。

よくある話
だからきっとそうやって時代は変わる。
そうやって時代は変わってきた。

個人的にはそれで良いと思ってます。
時代はいつも大勢にとって良い方へしか行かない。
時代の最先端を生きる今の若者達が選んだこと。
⁡それは良いに決まっている。


では我々指導者として何が大事が考える。


実は私は
礼儀作法について
自分から子供達へ細かくやらせたことはありません。
挨拶がどうとか、態度とか、
口酸っぱく言ったところで大した事ないって言う自論があります。

そもそも自発的じゃなきゃ
って思っています。



なんの疑いも無しにただ皆んなが敬ってるから自分も敬うなんて変な話だと思う。
挨拶もたしかに大事ですが、
何がなんでもきちんと言わせるっておかしな話。

逆にそんなこと言わなくても
本当に尊敬する憧れの人を前にして
馴々しくはできないもの。
それが自発的です。

自分で感じて考えて行動する。
(もちろん一番最初は、形式的な言葉遣いや受け答えについてこちらから模範を見せる必要はありますが。)

きっと、
もし誰かにやらされていたなら
ただのストレス、
もしくはなにも考えなくなってしまう。(もちろんちゃんと本質に気付く場合もあります。)
そして押し付けるということを学ぶ。。

何も考えずにやっていたとしても、どこかで本質に気がつけばいいと思いますが、
形だけで中身がないのもどうなのか?と思います。


やらなきゃマナー違反だ。
やっていれば良い。
とか


格好だけ真似してもそれは本質じゃないし
その状態を見てこれがマナーだと学ぶのは別の問題があるように思います。


自分は
他人を敬うのは結局自分自身のため
って思ってます。
だから他人が注意する話じゃないということ。
注意というより本質的に必要な部分を伝えたいと思っています。⁡

少し話が変わりますが
この話題に繋がりそうな話をします。


私は以前、北陸の有名なお寺で一泊二日の坐禅をしたことがあります。

修行中の教えの一つ一つが深みがあるので面白かったのですが
特に今回のテーマに繋がりそうなのが

食事

食事はいただきますから始まる。
命をいただくということ
地球に感謝して
作り手に感謝して
調理師に感謝して
自分がそれをいただく生き物として相応しいか己に問う。
その言葉を口に出して唱えて
それらを踏まえていただきますと手を合わせる。


それから食事中は黙食
地球、作り手、調理師のことを思い
味わっていただきます。
食欲のまま食してはいけない。


片手でお椀を持ち、一口一口箸で運んで
丁寧にゆっくり噛んで食べる。
お椀を下ろさず他の皿に箸を伸ばしてはいけない。噛んで飲み込むまではひとつひとつ丁寧に食す。

一緒に食事する人がいたら周りを見て、食事のペースを合わせる。周りと調和する。
バクバクガツガツは決して食べない。
食べ終わった後はお茶で箸の先を洗ってそのお茶を飲み干す。
食器を丁寧に並べて
ご馳走様の言葉で合掌する


、、、などなど、、、
言い出したらキリがないですが。。。

これらは食事の作法のひとつです。
仏教、そして日本
美しい文化だと思います。


礼儀作法を謳う指導者は皆んなそれをきちんとやっているのでしょうか?
なかなか、、ここまで細かくひとつひとつ行ってはいないと思います。


黙食も良い文化だと思いますが
個人的な好みで言えば
食事は皆んなで楽しく会話しながら食べられたら最高です。

私はそう思いますが
皆様はいかがでしょうか?


食事中の会話を楽しむ。
それは西洋の文化だと聞きました。

昔は皆んな黙って、食に感謝して食べていた。
食事中に喋ることを注意されて育つ人もいたらしい。

なるほど、それは美しいと思う。
感謝することに集中する。
良いものです。

それでも、やっぱりその上で
食事は皆んなで楽しく食べたら最高
って私は思っています。

ということは、、
もしかしたら自分は礼儀作法の無い食べ方をしているのかもしれません。

もし自分が何かの生徒だったとして、
誰か指導者から

黙食をしなさい。
昔はそれをやってたから。
それが当たり前だったから。
そうしなさい。

と言われたとして
。。。そんなことを今言われても、、と感じます。


食事中の会話なんて作り手への冒涜だ
自分が作った食事をガヤガヤしながら食べられたら嫌じゃないか??

、、と言われても。

逆に自分が作り手になったとしたら?
全然黙らなくてもいいから
食べる人達には楽しく会話しながら食事して欲しいって思ってしまいます。

皆様はいかがでしょうか?


時代はいつも
皆んなが望む方へ行くと思う。

私の感覚ですが、
実際に食事中に会話は楽しい、
それに、その時間にありがたみを感じるものです。

自分なりの仮説ですが、
⁡きっと
今の価値観を生きる自分達だから
過去の感覚は厳しく感じて
未来の緩さに少し違和感があるだけ。


でも未来の価値観を生きる若者達にとっては
今の文化が厳しくて
未来の文化が良いものだと思う。

だから
指導者が自分の価値観を押し付けてはいけない。

長い視野で考える。

過去

未来
全て時代の一部で、
価値観はどんどん変わっていく
より良い形へ移り変わっていくと思います。

『学びや経験として』の礼儀作法ならまだしも、
個々の価値観を押し付けるのは本質的に良くないだろうとは思います。

どこまで行っても形は変わるのです。



しかし、、

それでも本質は忘れちゃいけない。

変わっても変わらないものがある。

きっと本来の礼儀作法ってそこにこそあると思う。
形じゃないところ。
本質を辿っていくと最後は形としても目に見えてくるものだけど、
本質となるものは見えない所です。

⁡食事で言うなら
食への感謝だと思います。

食事に感謝する。
そんなことは当たり前だと思う。

もしかすると
わいわいガヤガヤ食事をしていると
感謝は失われてしまいやすいのかもしれない!
そう言う意味ではたしかに、黙食するのも一理ある。


でも、
いつも必ず黙食をして美しく食べていなくても
考えればわかること。
食事というものはとても感謝すべきこと
その理由を書くまでもないかと思います。

たまには黙食によってそれを堪能するのも良いかもしれない
経験として黙食を覚えても良いと思います。

しかし


感謝した上で、楽しく食事できたら最高じゃないでしょうか?


感謝して楽しく食べようよ。
黙って食べることだけが感謝じゃないよ。
私はそう思います。

感謝して楽しく食べられたらもっと素敵な時間になると思います。


礼儀作法の本質は
心の所。

だからやれって言っても出来ないしわからない。


形の部分はあくまでも手段であって目的ではない。
「形」なんて時代によって「もっと良い形」があればそれに変わっていきます。
ただ本質的に『感謝する』という部分は変わらないので忘れてはいけない。

⁡以上
食事の話ばかりでしたが、

礼儀作法の本質です。

挨拶もそうだと思う。
それから他人を敬うというのも、上下関係も
試合のマナーも
本質は同じように思う。

どれだけフランクになっても
周りへの感謝は忘れちゃいけない。
相手がいるから自分がいる。

それを体現しようと思えば
なるべく丁寧に行動することになる。
そこに礼儀作法がある。

不思議なことに、
何かひとつを心から丁寧に行うと、
その次の何かも丁寧に行いたくなるもの。
それは派生して繋がっていく。
⁡ディドロ効果みたいな話です。

⁡丁寧に靴紐を結べば、丁寧に足を動かしたくなるようなもの。
丁寧にボールを渡せば、丁寧に挨拶もしたくなるもの。
丁寧にノートを扱えば、丁寧に文字も書きたくなる。
丁寧に試合に入れば丁寧なプレーになる。
全て自分のためになるもの。



自分にとって
レッスン前にちゃんと頭を下げるということは
これからレッスンするぞというスイッチになる。

相手を敬う言葉も
丁寧なレッスンをするためのスイッチになる。

それは自分の感覚。


自分のコントロールとして
礼儀作法はとても良いものだと思います。

⁡自分のためです。

子供達も
それを理解すればきっと
卓球を上手くなろうと思った時には日常から変わると思います。
その時にやり方を教えれば良いと思います。

意識に始まり行動まで動かすもの
礼儀作法の意義はそこにあると思います。

自分をコントロールして細かいことに気を配れば
卓球も卓球以外も全部よくなる。


それらを踏まえて楽しくやれば良いと思います。
礼儀作法は重要

特別厳しくなくても良いから、自分できちんとやる。
きちんとやって楽しくやりたい。

きっとそれを皆んな望んでいる。
あまりにゆるいと本質が心配になったりもするかもしれませんが、
最後どんな状態でも意識で変わる。


だから意識。
そのための行動、
何が自分にとって必要な礼儀作法か問う。

私の指導はそれを伝えることのできる指導でありたいなと思います。

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