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優しすぎるのも良くない。という事。

 他者に優しくすることを美徳だと思っていたが、自身と相手の度量もあるしやれる範囲でやるべきだわな。と思った話。

 昨日、話題の新作ゲームであるゼロシーベルトを配信中に起きた出来事である。ニートに40万のPCを買ってやったけど全くの無駄になった話をしていた時だった。突然「お前と友達だった覚えがない」と言うコメントが匿名で投稿されていたのだ。私はしばらく悲しい気分にもなったが、言われていた相手の側としてまあ不満もあるだろうしそうも言いたくなるわけだろう。
 私としては情けをかけたつもりだったが受け取り手としてはそのように受け取ったわけでも無かったようだ。(じゃあ、お前何のつもりだったんだという話もあるが)

 ここ最近、人に優しくしても仕方が無い。という事を良く感じていた。優しさについての事を軽く検索すると「優しい人と優しくしてくる人は違う、後者には注意するべきだ」と言う言説を見つけて、なるほどなと思った。私のやってきたことは後者だろう。無辜の優しさと言うものがあるという前提は逆に不道徳なのではないかと思うが、端的に言えば私は恩着せがましかったのだろう。他人にかけるべき優しさと言うのは自身の度量の範囲と相手の返済可能範囲と言おうか、度量によっても変えるべきだったのだろう。蛇口を少し閉めるべきだったのだ。

 交易と似たようなものなのだろう。こちらが売っても良いものを提供する。くらいで無いと失望感だけが返ってくる。期待をかけすぎない程度に優しくするべきなのだろう。今までの事にすべて得心が言った。

 慈悲などと思って、ニートに40万かけて配信環境を整えてやったことも、友人(女)の不倫の罰則金を離婚に発展しないように立て替えてあげたのも、セドリを教えて欲しいと言ったから初動分を立て替えたりして挙げた事も。全て間違いだったのだ。私のウェイトが重すぎたのだ。慈悲は美徳だと思っていた。だがそれは間違いだったのだ。相手の返すことができる範囲をキチンと見極めない事には双方恨みを抱える事になるのだろう。

 私は自身が浅はかな人間だとは思っていた。だがこんなにも愚かだったという事は知らなかったのだ。正しいと思ってやっていたことが間違いだという事はよくわかった。慈悲をかけてやったのだという、私自身の傲慢さが膨れ上がるばかりだったのだろう。どれもするべきでは無かった。もしくはもっと小さい範囲での手助けをするべきだった。

 情けをかけても、相手の返すことのできる範囲にするべきだ。当然の事だが友人だと思っている人間であるのなら、そもそも悪口などするべきでは無かった。雄弁は銀、沈黙は金とはよく言ったものである。

 そのような学びを友人(俺の思い込み)一名を犠牲にして場に召喚してターンエンド。って事が昨日起きたってわけ。


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