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「一面トップ記事が一人ずつ違う新聞」を全員が読んでいる時代

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こんにちは。立花岳志です。

この数週間さまざまな媒体が新型コロナウィルスに関する情報を発信してきています。

楽観的なもの、悲観的なもの、詳細なもの、雑なもの。そしてデマや煽り記事のようなものも含まれます。

興味深くSNSを眺めているのですが、少なくとも僕のタイムラインに流れてくるFacebookのお友達の大半は、今のところほとんど自分の行動を変えていません。

世界中を飛び回っている人、出張で国内を移動している人、美味しいものを食べている人、身体を鍛えている人などの活動が続々と流れてきます。

もちろんウィルスを警戒することは大切ですし、楽観的に無視してしまえということではありません。

僕のタイムラインにおいては、ウィルスに関する発信をしている人はお医者様やキュレーターの方が多く、「正しい情報を得て落ち着いて行動しましょう」と言っている人がほとんどです。

無駄に不安を煽ったり、その不安に乗じて極端な行動を取っている人はほとんど見かけないのです。

でもそれは、あくまでも僕が眺めているSNSのタイムラインではそうだった、ということに過ぎません。

身内の話で恐縮ですが、僕の母もFacebookとブログをやっています。

そして母が「知り合いからLINEで送られてきた」というウィルス対策に関する情報を投稿していました。

その内容は「お湯を飲むとウィルスが死滅する」というようなもので、どうやらチェーンメール的に広がってしまったもののようです。

しかも母のところには一通ではなく二つの異なる情報が「詳しい人から聴いた話」的ニュアンスで複数の知人・友人から届いていたとのこと。


で、母の投稿に複数の母のお友達からコメントがついているのですが、そのコメントを読んでいると、コメントしている人たちのところにもそのチェーンメールが届いているようなのです。

僕のところにはそのチェーンメールはもちろん届きませんし、母以外の人がそのチェーンメールについて投稿したり騒いだりしている様子もまったく見かけませんでした。

母の投稿にコメントしている人は、「この情報はチェーンメールです!」と注意喚起しているブログへのリンクが貼られていました。

僕が見ているタイムラインには、その注意喚起の投稿すら、母のところ以外では出てきませんでした。

また、母の投稿にコメントしている人の中には「何を信じていいのか分からない」と嘆いている人もいました。

いっぽう僕のタイムラインでは、どちらかというと、ウィルスの感染を恐れる人よりも、経済活動の停滞について危惧している人を多く見かけます。

多くのイベントが中止になり、外出を避ける人が増えることで、イベント産業、観光、それに外食産業などが大きな打撃を受けています。

実際株価も大きく下がっていて、僕の周りには経営者の方が多いので、経済動向について危惧している書き込みはときどき見かけています。

そして母の投稿をSNSで見かけた直後に、僕のお友達がFacebookにチェーンメールの件を書き込んでいました。

その友人はチェーンメールの存在をSNSではなく新聞で知ったようでした。

「このチェーンメールは数日間でかなり拡散したものだったが、自分はそのチェーンメールを受け取らなかったし、SNSに拡散しているのも見なかった」と書いていました。

このように、SNSやメッセで受け取っている情報は、人によって、そしてその人がつながっている人によってまったく違ってしまうものなのです。

インターネットが世界を接続して地球はすごく小さくなったという見方もできます。

でもSNSの発達と定着により、僕たちは一人ひとり、「誰からの情報を受け取り、誰からの情報は受け取らないか」を決められるようになりました。

ネットが発達する前は、我々はマスメディアから情報を受け取ることしかできませんでした。

当時からも「私は新聞は読売しか読まない」とか「テレビニュースはNHK」みたいな好み、偏りはもちろんありました。

でも、多かれ少なかれマスコミであることは変わりなく、テレビのチャンネルだって多くても7つくらいというのが、昭和までの時代だったわけです。

その時代は人々が受け取る情報に、それほど大きな違いはなかったわけです。

母も僕も同じテレビを見て同じ新聞を読んでいれば、あとは外出先で会って話した人からもらう情報が多少違うくらいで、大差ないわけです。

ところが現代は、たとえ親友であろうとも親子であろうとも、一人ひとりが受け取る情報は、「誰をフォローしているか」によって、まったく違ってしまうのです。

SNSに日々触れている多くの人は、どのような基準でフォローする人を決めているでしょうか?

それは、自分と価値観が近い人、居心地が良い人同士が自然に結びつくようになっているのではないでしょうか?

Twitterの場合は気軽にフォローしたりアンフォローしたりできます。

Facebookは原則として実際に会った人と繋がるようになっていますが、気に入らない投稿をする人は友達解除もできます。

そこまで事を荒立てたくないなら、「フォロー解除」すると、友達としてはつながっているけれどその人の投稿は見ない、という不思議な関係性が構築できます。

さらに言うと、Facebookは複雑なアルゴリズムを持っています。

毎日のユーザーの活動によって、「親しい人」の投稿がたくさん表示され、そうでない人の投稿は減っていくようにできているのです。

「親しい人」とはどんな人か。

それは、お互いの投稿にたくさん「いいね!」やコメントを付ける人。

出身校や過去や現在の職場が同じだったり、年齢が同じ人。

お互いにタグ付けをしていたり、一緒の写真にタグ付けされていたりする人。

さらにメッセージのやり取りを頻繁にしている人。

複数のグループに一緒に所属している人、などです。

自分にとって興味がない投稿に対していいね!をする人は少ないでしょう。

仲が悪い人と頻繁に一緒の写真にタグ付けされることも、まあ考えにくいですよね。

そうやって日々自然体でSNSで活動をしていると、自然と自分と価値観が近い、共感しやすい人ばかりの投稿が表示されるようになっていくのです。

SNSだけで世界を見ていると、自分と近い価値観の人しか世の中には存在しないような錯覚をします。

たとえば僕のFacebookには、野球好きのお友達が3人くらいいて、熱心に野球関係の投稿をしています。

でも僕のタイムラインでは野球の投稿は少数派なので、野球に対する情報はかなり少なく、しかも彼らが応援している球団の情報しか入ってきません。

入ってこない情報は自分から積極的に探しにいかないと得られないのです。

でも、恐らくそれら野球大好きなお友達のタイムラインには、僕の10倍、もしかしたら50倍くらいの野球の情報が流れていることでしょう。

野球好きの人には当然野球好きのお友達が多く、お互いの投稿にいいね!したりする機会も多いでしょうから、たくさん表示されていることでしょう。

そうすると、野球好きのお友達の世界においては、野球というスポーツは、僕の世界よりも遥かにメジャーで大変盛り上がっているスポーツと定義されていることでしょう。

いっぽう僕は野球にあまり興味がありませんが、僕自身ランニングをしていて、フルマラソンも6レース完走した経験があります。

友達にもマラソン経験者が多いため、日々ランニングや筋トレなどの投稿はかなり多いです。

だから僕にとっての世界においいては、日々走るのが当然な世界が広がっています。

でも野球好きだけどまったくランニングに興味がない人のタイムラインでは、ランニングやマラソンレースというのは、ほとんど誰も興味を持たないマイナーなスポーツという扱いになるでしょう。

このように、日常的なこともウィルスのような非日常的なことも、SNSにおいては自分が所属している「小さくて緩やかなネットワーク」ごとに情報は分断されているのです。

もちろん一人が一つだけのネットワークに所属しているのではなく、あちこちのネットワークに所属しており、その所属の分布も一人ひとり全員違うわけです。

なので、ネットがこれからも盛んになればなるほど、一人の人間が受け取れる情報の量に応じた、小さなネットワークが無数にでき、ネットワーク同士が緩く結びつく関係性というのが、今後さらに強まっていくでしょう。

自分とちょっとくらい価値観が違う人とは時々出会うこともあるでしょう。

でも、極端に価値観が違う人は、「存在すら意識することがなくなり、お互いに触れ合うことがない」という傾向が今後さらに強まっていくでしょう。

全員が一面のトップニュースが異なる新聞を読んでいる時代。

それがこの令和という時代なんだと、今回のコロナ騒動を見て、改めて認識させられています。

なので、日々自分が所属している小さな世界の心地良さを享受しつつも、時としてそのネットワークの外、アウェイの環境に身を置くことも大切だと僕は思っています。

僕はTwitterやFacebookで複数のキュレーターをフォローしています。

そのときに意識していることは、ちょっと自分の感性とズレている人を意識的に含めることです。

自分のモノの見方と違う意見が流れてくると、違和感を感じます。

でも、その違和感はとても健全なもので、その違和感がない世界の方が危険なのだと僕は思っています。

ネットが世界を覆ったころは、世界はこれで小さく一つになっていくのかと思った人も多かったかと思います。

でも現実には、世界は小さく細かく分断され、その小さいコミュニティの中に人気者やスターやインフルエンサーが生まれ、共存していく時代になっているようです。

これから世界がどう進化していくのか分かりませんが、この「超個別化」「超カスタマイズ」の流れが逆転することはまずないでしょう。

ここから数週間、コロナに関する情報の拡散などがまた我々に色んな気づきや洞察を与えてくれることでしょう。

人類が正しくネットを使いこなせる日が来たら、そのとき我々は本当の意味の平和を手にすることができるのかもしれないと僕は思っています。

遠い道のりだけど。

今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。

また来週お会いしましょう。

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